2025年01月

《今井小まつ・西原小まつ・雲井竜子》と根岸錦蔵 大正12年【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983

【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
著者    平木国夫 著
出版者   静岡産業能率研究所
出版年月日 1983.3

 今井小まつ(左)と根岸錦蔵
 大正12年11月、現 川根町家山
p46-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p46-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983

 今井小まつ(雲井竜子)と中島式5型機
 大正12年ごろ
p46-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p46-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/46

根岸錦蔵は、
静岡電鉄からもらった金で旅館代を支払い、
四名は三保在の農家を借りて移り住んだ。
大正十二年(一九二三)十二月も半ばをすぎていた。
ニューポール式83(甲式2)型機は、
灯台のうしろの松の木にしばりつけ、
漁師から網を借り、
松の木から松の木にわたして、
一応、人がはいれないようにした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/59

今井小まつもまた、
郷里・京都の後援会の援助で買った
払い下げの中島式5型機を、
鶴見の第一航空学校に預けっ放しになっていた。
すると静岡電鉄の熊沢専務が空輸費用を出してくれた。
根岸錦蔵は、今井小まつと二人で仲よく
鶴見から三保まで空輸した。

静岡電鉄では、根岸飛行士後援会をつくり、
幹部社員が格納庫建設の寄付を募るため、
奉賀帳を持ってまわることになった。
電鉄技術部が格納庫の設計をし、
五千五百円という見積額をはじき出した。
清水鈴与商店、鈴与関係の豊年油(株)、
蒲原の田中光顕伯爵が各千円、
残り二千五百円を一般の人に頼るという計画であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/60

 魚群捜査飛行
根岸錦蔵は、魚群捜査飛行の許可を得るため、
熱心に県当局を説得した。
しかし飛べば落ちると思いこんでいる相手は、
一歩もあとにひかなかった。
根岸錦蔵の粘ばり強さは無類のもので、
大正十二年(一九二三)から昭和二年(一九二七)まで、
あらゆる機会に県の有力者はじめ
漁業関係者に運動をし続けた。
しかし相手もまた、少しもひるもうとしなかった。
根岸錦蔵の後援者であり、
県会議長をしている鈴与商店主人・鈴木与平や、
田中光顕伯爵の力添えがあっても陥落しなかった。

ところがようやく開花する時がきたのである。
しかしそれは県当局が理解しての結果ではなく、
大きな政治力に押し切られたのだ。

根岸錦蔵は最後の手段のつもりで、
中央政界の黒幕といわれた
国策研究会の西原亀三に頼ったのだ。
西原は、大正六年、
中国が日本から多額の借款をしたときの立役者で、
西原借款として有名な人であった。
根岸錦蔵の同志であり愛人である
今井小まつの実姉が、
西原夫人だったのである。
そのため静岡県出身の
衆議院副議長の松浦五兵衛が動き、
松本学県知事に働きかけてくれたからであった。

一方、航空局の児玉常雄技術課長が、
井上長一の前例もあるとして積極的に協力し、
年額四千円の補助金交付を認めてくれた。
すると農林省二千円、静岡県二千二百六十円、
計八千二百六十円の予算が計上され、
いよいよ魚群捜査飛行開始のメドがついたのだ。
昭和二年十月であった。

もっとも試験飛行もあり、
実際に開始されたのは翌三年六月からで、
開始に先立ち根岸錦蔵は
一等飛行機操縦士の免状を交付された。
根岸にしてみれば、
五年間の努力が報いられたわけで感無量であった。
使用機は払い下げの
海軍10式艦上偵察機の
民間改造型・三菱R1-2型機であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/63
空駆けた人たち 静岡県民間航空史
一九八三年三月二五日 第一版第一刷発行
定価二〇〇〇円
著 者 平木国夫
発行者 石川浅雄
発行所 静岡産業能率研究所
    浜松市元城町一四八ノ一三
    スカイビル5F
    電話〇五三四(五五)二三八七
発売所 (株)創林社
    東京都千代田区三崎町二の一二の二
    電話東京(二六五)八〇七七 〒101
信毎書籍印刷 美成社製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/131
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《雲井龍子・今井小まつ》可哀いさうな 第一羽衣號【飛行 3(1)】1922-01

【飛行 3(1)】1922-01(大正11年)
出版者   帝国飛行協会雑誌発行所
出版年月日 1922-01
可哀いさうな 第一羽衣號 p49-51/73
  雲井龍子
p49【飛行 3(1)】1922-01
〔画像〕p49【飛行 3(1)】1922-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/1491741/1/49

【飛行 3(2)】1922-02(大正11年)
出版者   帝国飛行協会雑誌発行所
出版年月日 1922-02
可哀いさうな 第一羽衣號(つづき) p39-42/56
  雲井龍子
p39【飛行 3(2)】1922-02
〔画像〕p39【飛行 3(2)】1922-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/1491757/1/39
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雲井竜子(今井小まつ)が作図した羽衣第1号機と根岸錦蔵 大正10年【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983

【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
著者    平木国夫 著
出版者   静岡産業能率研究所
出版年月日 1983.3

雲井竜子(今井小まつ)が作図した羽衣第1号機
大正12年の雑誌「飛行」より
  羽衣第壹號機
設計者    原 愛次郎
製作者    赤羽飛行機工場
製作時    大正拾年五月
發動機製作者 赤羽飛行機工場
所有者    根岸錦藏
p10-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p10-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983

完成した羽衣第1号と根岸錦蔵の父、
根岸錦蔵、今井小まつ(右から)
大正10年4月下旬、
東京 赤羽飛行場で

羽衣第1号機上の根岸錦蔵
大正10年4月下旬
p10-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p10-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/10

  羽衣第1号
大正九年(一九二〇)九月、
福長飛行機研究所を卒業した根岸錦蔵は、
大正十年二月から赤羽飛行機製作所で、
原愛次郎設計の複座機の完成に精力をかたむけた。
これが羽衣1号である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/36

大正九年(一九二〇)十一月であった。
むろんそのままでは使用出来ないので、
主翼以外は全部新造しなければならなかった。
新機といってよかった。
根岸錦蔵には、男の助手二人のほかに、
二十二歳の若い女性協力者がいた。
京都出身の今井小まつである。
彼女も飛行家志望だが、
「そんな軽業師のような者になってもろうては、
 ご先祖さまに相済まぬ」
と母から猛反対され、
家出を三回繰り返した後、
ようやく放っておかれるようになった。

大正九年四月、
今井小まつは、
赤羽飛行機製作所が陸軍に納入する
モーリス・ファルマン機に同乗させてもらい、
赤羽から所沢まで飛んだ。
そこでいよいよ病みつきになり、
天竜川沿いの福長飛行機製作所に出掛けた。
練習費用がない故、
なんでもいいから
仕事を手伝わせてくれと頼みこんで、
許された。
その直後、根岸錦蔵が練習生として入所した。

天竜第3号しかないときだから、
練習生にしても思う通り飛べなかった。
そんなとき新聞記者が取材にやってくると、
彼女はあたかも
しじゅう飛んでいるかのように、
天竜第3号と並んで写真をとらされた。
いわばマネキン代わりであった。

今井小まつに大そう同情した根岸錦蔵は、
卒業して帰京するとき、
父の許しを得て彼女を伴い、
日暮里根岸の隠居所の一室に同居した。
同じ部屋に、
二人の男性助手と合わせて
四人の共同生活が始まったのだ。
世間の眼は、既に二人は
愛人関係にあると思いこんでいたが、
それはかなり後になってからで、
十九歳の錦蔵の念頭には飛行機のことしかなかった。
彼女は、錦蔵にとって同志であり同行者であった。

今井小まつは文学少女でもあった。
雲井竜子というペンネームで、
雑誌「飛行」に随筆や
短編小説らしいものを発表していた。
常連であった。
彼女は、大正十一年一、二月号の「飛行」に、
「羽衣第1号」新生の経緯を書いている。
彼女は、「師、根岸氏」と呼び、
親愛をこめて根岸錦蔵を描写している。

羽衣第1号が完成したのは、
着手してから六ヵ月後の
大正十年四月二十八日であった。
『機は双翼を張って格納庫に納められた。
 立派な飛行機だ、
 外に優秀機はいくらも有る、
 がその困難が大きかっただけ、
 尚自分達の手に寄って完成せしめたと云う事が、
 此上ない許りで有ったから、
 日本一の様な気がして、
 気もそゞろ、
 少しの間も一つ処にジッと落ちついてゐられない。』
(今井小まつ)

「サクヤ シッカ ヒコウキ ヤク トクコイ」
(昨夜出火、飛行機焼く、疾く来い)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/37

アメリカ帰りの飛行家・石橋勝浪の格納庫から出火し、
かろうじて引き出した二機以外は全焼した。
羽衣第1号も姿をとどめなかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/38
空駆けた人たち 静岡県民間航空史
一九八三年三月二五日 第一版第一刷発行
定価二〇〇〇円
著 者 平木国夫
発行者 石川浅雄
発行所 静岡産業能率研究所
    浜松市元城町一四八ノ一三
    スカイビル5F
    電話〇五三四(五五)二三八七
発売所 (株)創林社
    東京都千代田区三崎町二の一二の二
    電話東京(二六五)八〇七七 〒101
信毎書籍印刷 美成社製本
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丹波質志鍾乳洞(現京丹波町) 永く保存するの要あるべし【地球 10(1)】昭和3年(1928-07)

【地球 10(1)】1928-07
著者    地球学團 編
出版者   博多成象堂
出版年月日 1928-07
p1【地球 10(1)】1928-07
〔画像〕p1【地球 10(1)】1928-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/1

地球 第拾巻 第一巻
京都府船井郡三宮村質志鍾乳洞
(上)第一室 黄金柱鍾乳石及石筍
(下)第二室 二見岩板狀鍾乳石
p7【地球 10(1)】1928-07
〔画像〕p7【地球 10(1)】1928-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/7


  丹波質志鍾乳洞(圖版第一版附)
    君塚康治郞
  一、位  置
質志鍾乳洞は京都府下船井郡
三宮村字質志(シヅシ)小字大崩(オホボケ)三十二番地
區有地内にありて、
山陰線綾部驛の東南東三里、
下山の西北西二里五、
胡麻の北西四里の地にあり。

園部驛より至らんには綾部に向ひ
略直線的(北五十度西)に發達せる谷を通ずる
福知山街道を進むこと六里にして三宮村に至る。
之より北西に距る約三十町
質志部落の盡くるところに、
街道は二回大彎曲して榎峠にかゝる。
此の第一の彎曲より南西に街道を離れ
高屋川の支流(質志谷を南東に流下するもの)の
最上流部を溯ること二町にして水源あり、
水源は鍾乳洞の下部に位し一の伏流なり。

湧水は冬季にありても涸渇することなく、
又夏季にありては冷きこと沿道隨一にして、
從來通行者に賞用せられたり。
只奥丹後地震の際は黄褐色に著しく混濁し
容易に回復せざりしと云ふ。
鍾乳洞は水源の南南西に當り
之より高きこと百二十米許の地點にあり。
  二、發見の次第
 ① 口 碑
往年洞内に犬と雞(ニワトリ)とを放てるに
犬は生死不明なれども
雞のみは西北西四粁距れる
大原神社境内に出で鳴けりと、
此よりして大原神社まで連れる大洞窟ならむと。
 ② 質志部落民の注意
先年 辻村七五三之助なる者

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 2012年02月04日15:08
 辻原七五三之助『辻原翁報恩碑』郷土誌「三ノ宮」
 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 2023年01月12日16:25
 《辻原七五三之助氏》明治三年三ノ宮村に生る
 【丹波及丹波人】昭和6年

風穴なりとて蠶種貯藏に利用せむと企圖せしも、
洞内暗黑且洞門の極めて狹隘なりし爲め
遂に利用するに至らざりき。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/43

又現在の第一室に入洞せる者ありて、
多數の鍾乳石を見たるも、
氷柱と誤認し何等注意を惹起するに至らざりき。
  ③ 發 見
昭和二年(1927)十一月三宮村字戸津川
後藤與一なる獵師、
※後藤與一郎【郷土誌三ノ宮】p166 p616
何鹿郡綾部町 山崎達藏外一名と共に
銃獵に出で、
追へる狸の遁入せるを認め追うて、
洞内に至るも狸の行方は知られざりしが、
鍾乳石の美しく下垂せるを見たり。
然れども發見者は之を種に利を得んと
口を緘し語らざりき。

漸次噂は高まり遂に昭和三年(1928)一月二十五日
村長 北村一義氏 ※【郷土誌三ノ宮】p157
小學校長 的場正三兩氏入洞、 ※【郷土誌三ノ宮】p208
第二室まで探檢し石灰洞なるを確かむ。
噂は忽ち廣がり二十六日には入洞者增加し、
且は鍾乳石を破毀する者さへありとて、
質志區民の監視を要するに至れり。
  三、附近の地質
  四、鍾乳洞の發達せる石灰岩塊(地質圖參照)
  五、鍾乳洞(見取圖參照)
1、形狀及大さ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/44

2、鍾乳石石筍及石柱
  ① 鍾乳石(版圖第一版上圖、下圖參照)
  ② 石 筍
  ③ 石 柱(圖版第一版上圖參照)
3、落磐及乾濕
  六、成 因
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/45

  七、現在の施設
質志區民一致して種々の施設をなす。
  ① 洞内、洞門は扉を附し
案内なくては出入し得られず。
又第一第二兩室には石灰岩片を敷き歩行に便し、
第一室の斜下部には丸木段を、
第三室には上部二十三米八の間
針金梯子を設け昇降に便せり。
  ② 洞門附近
現在石灰岩の突兀たる露出ありて
寧ろ殺風景の觀あれども、
附近一帶の雜木を伐採し、
之に換ふるに櫻樹數千本を植林し、
以て風致を添へむと計畫しつゝあり。
  ③ 入洞、洞内陰濕且泥濘の爲め
丹波のタチカケと稱する坑内着の如き上下衣を作り、
入洞者に便す。
區民案内蝋燭並タチカケ使用料として
一人金三十錢宛を徴集す。
  八、結 言
延長百二十米を超えず規模甚だ小にして
既に知られたるものと比肩するに足らずと雖も、
伏流より見れば探檢により
或は洞内は延長する見込あり。
然かのみならず、第一、第二兩室には
鍾乳石、石筍及石柱の美はしきこの多數ありて、
京都府下は勿論、
近隣にかゝる天工物のあるを未だ聞かざれば、
特に保護を加へ以てその破毀を防止し
永く保存するの要あるべし。(終)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/46
昭和三年六月廿五日印刷納本(第拾巻第一號)
昭和三年七月 一日發  行 定價金五拾錢
編輯者  京都帝國大學
     地球學團
右代表者 藤田 元春
發行者  博多 久吉
     大阪市南區大寶寺町西之丁貳拾貳番地
印刷者  井下精一郎
     大阪市西區阿波座中通二丁目四番地
印刷所  井下書籍印刷所
     大阪市西區阿波座中通二丁目四番地
發行所  博多成象堂
     大阪市南區大寶寺町西之丁貳拾貳番地
     電話特南壹壹七七番
發賣所  博多成象堂
     東京市神田區錦町三丁目拾貳番地
     大阪市南區大寶寺町西之丁貳拾貳番地
     振替 東京五貳六〇七番
        大阪七參參參番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1569450/1/52
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《安井荘次郎》墜落の原因:昭和3年10月30日殉職【航空局五十年の歩み】1970

【航空局五十年の歩み】1970
出版者   航空局五十周年記念事業実行委員会
出版年月日 1970.8
  創 始 期    座談会
日時 昭和四十四年十一月六日午後二時
場所 於 逓信博物館四階
p6【航空局五十年の歩み】1970
〔画像〕p6【航空局五十年の歩み】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/6
 創始期出席者略歴
伊藤音次郎(明治二十四年生)
      大正四年軽飛行機研究所、
      伊藤飛行機製作所代表者、
      日本軽飛行機倶楽部創立
安辺  浩(明治二十三年生)
      航空官、日本航空運航部長、
      中華航空総裁
岡崎 誠一(明治三十一年生)
      航空局書記官、パリー航空委員会駐在、
      貯金局長、大日本航空監事
西川 雋吉(明治二十九年生)
      航空官、中華航空参与、
      大日本航空東京製作所長、
      小糸工業副社長
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/7

西川雋吉
それでは安井荘次郎という人の
お話をちょっとしてみたいと思います。

彼はたしか京都の呉服屋か何かの息子なんですが、
その金で飛行機をこしらえ始めた。

米檜を買いまして、
 ※米檜・ベイヒ材
 ベイヒ材は自然乾燥です。
 木質は柔らかめで加工しやすく、
 耐久性が高いのが米桧の特徴です
  木製サッシやドアなどの内装材にも重宝され、
 ヨットや高級クルーザーのデッキに
 使われることもあります。

私、見に行きましたけれども、
丹波の山の中で自分で削っていますよ。

親父さんも、死んでも国のためになるのだから
いいやというようなことを言っておりましたけれども、
その人が自分でもって飛行機をつくりまして、
そうしてカーチスのOX5型という
九十馬力の古いエンジンをアメリカから買ったのです。

これを見ますと、
クラックが入っているのです、
バルブレバーの根元に。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/15

そいつだけはしようがないから
同じ型のやつを探しまして取りかえましたけれども、
そういう物騒なエンジンでもって
つくって飛ぶのでございます。

それで、その飛行機ではなくて、
その後に帝国飛行協会の競技会がありまして、
大阪の飛行場で競技やりましたときに、
そのときはローンですが、
ローンというやつはシリンダーを回して
だんだんはめ込んでいくと
圧縮比がだんだん強くなるわけです。

正規よりも一まわりよけい回してしまったわけです、
勝とうと思って。

そうすれば圧縮比が高くなりますから、
これは当然馬力は出ます。
それをやりますと二ミリ中へよけい入るわけです。

そんなことをしてやったところが、
離陸直後にデトネーションを起しました。

離陸している、
そこへもっていって圧縮比が高い。
それだから重いですからノッキングを起こします。

それでエンジンがとまって
朝鮮人の小屋みたいなところにぶっつけまして、
頭を打ちまして、
計器盤にぶっつけて
計器の上の角でもって額を切りまして、
遂に亡くなってしまいました。

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 2022年12月29日06:27
 《安井莊次郎君》安井航空機研究所主 
 昭和3年10月30日殉職
 【航空殉職録 民間編】昭和11年

この人がいかに飛行機が好きかという
一つのお話になるのですが、
私に歌を聞かしてくれました。

その歌というのは自分で改作した歌でしょう。
越後獅子の替歌でございます。

「遊覧飛行機、空中昇れば、ながめもかわる、
 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、
 プロペラの音高く、上野や浅草、向島目の下に、
 富士や筑波を右左、羽衣の天女か久米の仙人か、
 おっと危い、ちょいと宙返り、
 スミス、ナイルスなんぞはあまいもんだと、
 ぐるりと返って立った姿は角兵衛獅子」、
そんなふうな気持ちでおりました。

ですから、みんななけなしの金で
八方金策をして飛んでおったというのが
確かに当時の民間飛行家だと思います。

その後に郷土訪問飛行というのが出ましたり、
後援会ができたりして
伊藤さんあたりはよく行かれたことと思いますが……。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/16

西川雋吉
これはたとえば、
さっきの安井荘次郎の丹波の飛行場は草原でございます。
田舎の土地で安いから親父に買ってもらったのでしょう、
草を抜きまして平らにして使っておったのです。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/18

西川雋吉
それから大正四年のころに
アメリカのナイルスとかスミス
なんというのがやってきまして、
これがはなやかに……。

岡崎誠一
曲芸飛行なんかやりましたからね。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/21
    航空局五十年の歩み
発 行 昭和四十五年八月一日
    定価一、五〇〇円
協 賛 運輸省航空局
発行所 航空局五十周年記念事業実行委員会
    東京都港区芝琴平町三八
    (日本瓦斯協会ビル)
    財団法人 航空振興財団内
印刷所 第一法規出版株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/282
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》明治31年8月17日生【航空年鑑 昭和5】

【航空年鑑 昭和5】
出版者   帝国飛行協会
出版年月日 昭和5
p9【航空年鑑 昭和5】
〔画像〕p9【航空年鑑 昭和5】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1177922/1/9

  航空名鑑
 (一、原籍 二、現住所 三、生年月日)
 (四、現職 五、航空略歷)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1177922/1/266

   今井小まつ
一、京都府天田郡福知山字内記五一
二、淸水市三保出來輪田二二二一ノ二
三、明治三十一年(1898)八月十七日
四、二等飛行機操縦士
五、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1177922/1/272
昭和四年十二月二十日印刷
昭和五年 一月 一日發行 頒價金參圓五拾錢
編輯兼發行者 道永悌三
       東京市芝區櫻田本郷町七
印刷者    丸木 弘
       東京市京橋區木挽町八ノ一
印刷所    丸木印刷所
       東京市京橋區木挽町八ノ一
發行所    財團法人 帝國飛行協會
       東京市芝區櫻田本郷町七
       電話 銀座(57)〇一六七番 三七〇三番
       振替 東京二九六三六番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1177922/1/323
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》戸塚町七九〇【自動車所有者名簿】昭和9年

【自動車所有者名簿】昭和9年
出版者   日本自動車興信所出版部
出版年月日 昭和9
p5【自動車所有者名簿】昭和9年
〔画像〕p5【自動車所有者名簿】昭和9年
番 號  一〇八三
車 名  新フォード
使用別  乘
住 所  淀、戸塚町七九〇
氏 名  今井小まつ
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【東京電話番号簿 昭和2年10月1日現在】
出版者   東京中央電話局
出版年月日 昭和3
西原龜三 牛込34-2787 豐、戸塚伊勢原、七九〇
西原龜三 銀座57-3636 麴、内幸、一ノ五
            記者同盟會方
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》根岸錦蔵・児玉常雄・西原亀三【航空局五十年の歩み】1970

【航空局五十年の歩み】1970
出版者   航空局五十周年記念事業実行委員会
出版年月日 1970.8
  創 始 期    座談会
日時 昭和四十四年十一月六日午後二時
場所 於 逓信博物館四階
p6【航空局五十年の歩み】1970
〔画像〕p6【航空局五十年の歩み】1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/6
 創始期出席者略歴
伊藤音次郎(明治二十四年生)
      大正四年軽飛行機研究所、
      伊藤飛行機製作所代表者、
      日本軽飛行機倶楽部創立
安辺  浩(明治二十三年生)
      航空官、日本航空運航部長、
      中華航空総裁
岡崎 誠一(明治三十一年生)
      航空局書記官、
      パリー航空委員会駐在、
      貯金局長、大日本航空監事
西川 雋吉(明治二十九年生)
      航空官、中華航空参与、
      大日本航空東京製作所長、
      小糸工業副社長
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/7
安辺  浩
それからもう一つ行きましたのは、
三保の松原に根岸錦蔵、
あそこに試験に行ったのですがね、
この間、
坂東舜一さんの喜寿の祝で会いましたよ。
(註、明治二五年生、川西航空機取締役支配人、
 現在日本工芸社長)
いまは西原夫人ですけれども、
昔は何と言いましたですか。

伊藤音次郎
今井小まつ。

安辺  浩
その人がそこに来ておりましたですよ。
その話がこの間出ましてね。
よけいな話でこれは速記なんかは
どうでもいいですけれども、
根岸錦蔵のところにその西原夫人、
今井小まつさんが満州から引き揚げてきて、
そこで稽古して二等ですか三等ですか
操縦士になったわけだ。

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 2023年09月15日11:00
 《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》
 銀狐を巻く夫人となつて幸福に翼を放れた雲井孃
 【空の怪奇】昭和8年
 京都府下に生れ、
 女學校卒業後二年目の廿歳のとき結婚した。
 旦那さまと共に奉天に渡つた。
 こゝで藥屋が營まれた。
 家庭生活三年、
 漸く店に坐つてゐる生活が嫌になつた彼女は、
 夫と子を殘して單身内地へ歸つてしまつた。
 夫や親戚から復縁話が出てもガンとして聞きいれずに、
 身を空界に投ずることを決意して
 根岸君の所へころげ込んだのだつた。
 雲井龍子――と名のりをあげて、
 (昭和)十三年十一月に三等飛行士がパスした。

そのときに二人で夫婦になったわけですよ。
今井小まつがそのとき二十三、
根岸が十九なんですよ。

ところが西原亀三郎という人に ※西原亀三
今井小まつの姉さんが
嫁に行っておったのですよ。
それが死んじゃった。
※由久枝:昭和6年(1931)2月18日死去
そのあとにやるというので
根岸錦蔵と別れさせたわけです。
※今井小まつ:昭和6年(1931)3月24日西亀と結婚

そのとき児玉さんが、
お前別れなければ免状取り上げると言って
免状を取り上げたらしいのですよ。
それで免状取ったのはあんたが取ったのだというので
僕に言われるのですよ。

そんな覚えはないけれども、
そんなおもしろいことがありましたです。

児玉常雄さんと西原さんは親類だとか
根岸錦蔵が言っておりました。
まだ元気ですよ。

※児玉常雄
(註、明治一七年生、児玉源太郎大将の次男陸軍大佐、
 初代逓信省航空局技術課長、滿洲航空副社長、
 中華航空総裁、大日本航空総裁)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/11
    航空局五十年の歩み
発 行 昭和四十五年八月一日
    定価一、五〇〇円
協 賛 運輸省航空局
発行所 航空局五十周年記念事業実行委員会
    東京都港区芝琴平町三八
    (日本瓦斯協会ビル)
    財団法人 航空振興財団内
印刷所 第一法規出版株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12008103/1/282
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》二等飛行機操縦士免狀 昭和2年12月2日【官報 1928年02月06日】昭和3年

【官報 1928年01月12日】昭和3年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和3年
◎航空機乘員技倆證明書竝免狀交付
昭和二年十、十一月中
航空機乘員技倆證明書竝ニ免狀交付シタルモノ
左ノ如シ
  昭和三年一月  遞信省
種類  二等飛行機操縦士技倆證明書
番號  六九
氏名  今井小まつ
本籍  京都府天田郡福知山町字内記五一
使用シ得ヘキ航空機
    ニューポール式八三型、中島式五型、
    ニューポール式二四型
交付年月日 昭和二年一一月一二日
p9【官報 1928年01月12日】昭和3年
〔画像〕p9【官報 1928年01月12日】昭和3年

【官報 1928年02月06日】昭和3年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 昭和3年
◎航空機乘員技倆證明書竝免狀交付
昭和二年十二月中
航空機乘員技倆證明書竝ニ免狀交付シタルモノ
左ノ如シ
  昭和三年二月  遞信省
種類  二等飛行機操縦士免狀
番號  六八
氏名  今井小まつ
本籍  京都府天田郡福知山町字内記五一
使用シ得ヘキ航空機
    ニューポール式八三型、中島式五型、
    ニューポール式二四型
制限事項 曲技ヲ行フヲ得ス、
     作業用飛行機ヲ操縦スルヲ得ス
交付年月日 昭和二年一二月二日
p8【官報 1928年02月06日】昭和3年
〔画像〕p8【官報 1928年02月06日】昭和3年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月18日04:20
《尾上良一》見舞(昭和13年)牛込陸軍病院
(西原小まつ)伊東療養所(西原亀三)
【西原亀三日記 】昭和58年
※西原小まつ=今井小まつ・雲井龍子
 尾上良一:小野(尾上)喜代子の父
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《今井小まつ・西原小まつ・雲井龍子》三等飛行機操縦士免狀 大正14年7月27日【官報 1925年09月02日】大正14年

【官報 1925年09月02日】大正14年
著者    大蔵省印刷局 [編]
出版者   日本マイクロ写真
出版年月日 大正14年
◎飛行機操縦士免狀交付
大正十四年七月中ニ
飛行機操縦士免狀ヲ交付シタルモノ
左ノ如シ
免狀番號   二九五
操縦士等級  三等
氏名     今井小まつ
本籍地    京都府天田郡福知山町字内記五十一番地
飛行機ノ型式 中島式五型ホールスコット一五〇馬力
交付年月日  大正一四年七月二七日
p7【官報 1925年09月02日】大正14年
〔画像〕p7【官報 1925年09月02日】大正14年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年09月18日04:20
《尾上良一》見舞(昭和13年)牛込陸軍病院
(西原小まつ)伊東療養所(西原亀三)
【西原亀三日記 】昭和58年
※西原小まつ=今井小まつ・雲井龍子
 尾上良一:小野(尾上)喜代子の父
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