2025年06月

京丹波町と京都ダイハツ販売(株) 包括連携協定を締結◎AIオンデマンド交通の提案等:令和6年11月18日

京丹波町と包括連携協定を締結
2024.11.18
京都ダイハツ販売(株)
京丹波町と包括連携協定を締結しました
2024年11月18日(月)
京丹波町役場にて、
包括連携協定の締結式が執り行われました。
京都市内からも北へ離れていることもありますが、
この日は一段と気温が下がり山には紅葉も見られました。

調印式には、京丹波町より
町 長 畠中 源一様・副町長 山森 英二様・
教育長 松本 和久様・総務部長 松山 征義様
弊社より有江社長・川本常務取締役・
岡地室長(モビリティライフ推進室)・坂本店長(亀岡店)、
ダイハツ工業より豊田地区代表員が出席のもと、
協定書の取り交わしが行われました。
DSCN8862-20
〔画像〕DSCN8862-20

京丹波町では、町民の皆さまがいつも朗らかで明るく、
温もりのある街づくりを掲げていらっしゃいます。
畠中町長は、
「皆が知恵を出し合ってよりよい街づくり、
持続的に発展できる街づくりを実現していきたい」と仰り
これに対し有江社長は、
「京丹波町様と一緒にお互い参考になるような
視点や解決点を見つけていきたい。
これを機に両社が益々発展できれば」と述べられました。
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京都ダイハツ販売
2024年11月11日
【官民連携】京丹波町と包括連携協定を締結
-NEWS RELEASE-
弊社と京丹波町は、
下記の通り2024年10月18日(月)付で
包括連携協定を締結する運びとなりました。
4 主な取組内容
 ◎健康安全運転講座の開催
 ◎地域公共交通についての情報交換
 ◎AIオンデマンド交通の提案
 ◎カーシェアリングの紹介
プレスリリース京丹波町-724x1024
〔画像〕プレスリリース京丹波町-724x1024
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地域密着プロジェクト
オンデマンド乗合送迎サービス「チョイソコ」
「いくつになっても自由に移動できる自立した生活」をサポート
地域が抱える交通課題と向き合い、
ともに解決を目指す
ダイハツ販売会社の取組みをご紹介しています。
choisoko-pic2-1
〔画像〕choisoko-pic2-1
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京丹波町地域公共交通計画:令和6年3月策定(福祉有償運送)京丹波町社会福祉協議会、クローバー・サービス、等

   令和6年3月策定
  京丹波町地域公共交通会議
p1京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p1京丹波町地域公共交通計画

2.2.公共交通の課題の整理 p18/70
(1) 京丹波町の公共交通
表 2-5 京丹波町の地域公共交通
自家用有償旅客運送
交通空白地有償運送:さわやかライフ
福祉有償運送:京丹波町社会福祉協議会、
       クローバー・サービス、
       さわやかライフ、
       まごころサービスあい愛
タクシー 営業所:京都タクシー
p18京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p18京丹波町地域公共交通計画

(6) タクシーや自家用有償旅客運送等 p32/70

・ 京丹波町の自家用有償旅客運送は、
  交通空白地有償運送としてさわやかライフが運行している。
  また福祉有償運送として
  京丹波町社会福祉協議会、
  クローバー・サービス、
  さわやかライフ、
  まごころサービスあい愛
  が運行している。
p32京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p32京丹波町地域公共交通計画

(3) 事業者のニーズ  p36/70
 1)事業者ヒアリング概要
(自家用有償旅客運送事業者)
(交通空白地有償運送)
特定非営利活動法人さわやかライフ
(福祉有償運送)
特定非営利活動法人さわやかライフ、
特定非営利活動法人クローバー・サービス、
社会福祉法人京丹波町社会福祉協議会、
特定非営利活動法人まごころサービスあい愛
(地域が主体となった移動手段の事業者)
竹野活性化委員会カーシェアリング部会

 2) 事業者ヒアリング結果
自家用有償旅客運送(交通空白地有償運送)事業者
・ 利用者は高齢者が多く、午前中の病院の送迎利用が多い。
 最近は町外病院への送迎が多く、走行距離は増加傾向にある。
・ 乗務員の高齢化が課題であり、
 賃金の観点から若者の雇用が難しい。
p36京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p36京丹波町地域公共交通計画

5. 地域公共交通の施策 p59/70
施策の体系
2-① 自家用有償旅客運送による
   ドアtoドア型のサービス導入
   R6~R10 瑞穂や丹波地区での導入検討
p59京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p59京丹波町地域公共交通計画

施策 2 地域主体の交通の支援 p62/70
取組内容
2-① 自家用有償旅客運送によるドアto ドア型のサービス導入
具体的には、和知地区において既に導入している
自家用有償旅客運送(さわやかライフ)による
ドアto ドア型のサービスに対する
支援の維持・拡大をおこないます。
また、サービスの利用状況・運営状況を踏まえて、
瑞穂地区や丹波地区での導入検討を進めます。
   R6~R10 瑞穂や丹波地区での導入検討
p62京丹波町地域公共交通計画
〔画像〕p62京丹波町地域公共交通計画
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京丹波町[NPO法人プラムランナー]公共ライドシェア調査・実証事業:令和7年4月28日<別紙:採択事業一覧>国土交通省

国土交通省 令和7年4月28日
総合政策局地域交通課 物流・自動車局旅客課
「交通空白」の解消に向けた
サービスを実施するための取組を支援します!
~令和7年度「『交通空白』解消等リ・デザイン全面展開プロジェクト」
(「『交通空白』解消緊急対策事業」)の事業採択について~
 p1「交通空白」国土交通省
〔画像〕p1「交通空白」国土交通省

<別紙:採択事業一覧>
【「交通空白」解消緊急対策事業:200件】
実施地域   京都府京丹波町  p5/7
事業実施主体 特定非営利活動法人プラムランナー
事業名称   公共ライドシェア調査・実証事業
 p2「交通空白」国土交通省
〔画像〕p2「交通空白」国土交通省
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国土交通省
「『交通空白』解消パイロット・プロジェクト」
の実証事業を公募します!
令和7年3月27日
4.募集期間
  令和7年3月2 7 日(木)~4月1 8 日(金)16:00
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「交通空白」解消・官民連携プラットフォーム について
国土交通省 総合政策局 地域交通課
令和7年5月21日
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年09月30日04:40
《居谷知範議員》丹波・瑞穂地区に
デマンドタクシーの実証実験を早急に…
[令和6年6月4日]京丹波町議会定例会
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年09月29日10:45
《定款:設立当初の役員》自家用有償旅客運送事業
[NPO法人プラムランナー]設立:令和6年3月13日
附 則  p10/10
1 この定款は、この法人の成立の日から施行する。
2 この法人の設立当初の役員は、次に掲げる者とする。
代表理事  梅垣 晋 ※元・京丹波町職員
理事    森田一三 ※元・京丹波町職員
理事    西山芳明 ※現・京丹波町議会議員
理事    伴田邦雄 ※元・京丹波町職員
理事    居谷知範 ※現・京丹波町議会議員
監事    梅垣 徹
3 この法人の設立当初の役員の任期は、
第14 条第1項の規定にかかわらず、
成立の日から令和7年6月30日までとする。
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新橋の桑島千代、關口ぶん、伊賀とら、女髪結の繁昌、金庫のかゞやき【水の流れと】大正5年

【水の流れと】大正5年
著者    小野賢一郎 著
出版者   実業の世界社
出版年月日 大正5
p3【水の流れと】大正5年
〔画像〕p3【水の流れと】大正5年

   二、くろかみ
  蚊帳くゞる女は髪に罪深し  太祇
新橋の照葉が大阪の八千代の妹として
南地から出る時には
すべて京好みで京都から髪結ひも呼寄せた

東京はよし町の喜久子が
見習ひ先の京都から歸つて出る時にも
髪結ひを伴れて來た。

新橋の桑島千代、關口ぶん、伊賀とら、
女髪結の繁昌、金庫のかゞやき――
實(げ)に罪深き女よ、
女は髪にまで罪業はあるなれ。

火事の夜、髪の毛が燒けるとて、
姉さんかぶりをして鼻歌うたひ乍ら、
火事を見物してゐた女も見たが
髪の結ひやうが氣に入らぬとて
下谷から日本橋、
日本橋でも駄目の柳橋と、
一日に二回も三回も
車で飛び廻つた女もあつたが――
太祇はうまいことを云ふ。
『水の流れと』奥付
『定價金六十五錢』
大正五年十一月二十五日印刷
大正五年十一月二十八日發行
著 者 小野賢一郎
    東京市麴町區有樂町一丁目四番地
發行者 武井 文夫
    東京市京橋區弓町十三番地
印刷者 武井 万二
    東京市京橋區弓町十三番地
印刷所 千代田印刷株式會社
發行所 實業之世界社
    東京麴町區有樂町一の四
    電話四五一五(營業用)
    本局四五一六(編輯用)
    振替口座東京三四三三番
https://dl.ndl.go.jp/pid/906837/1/201
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《伊賀とら》日本髪を結ったら日本一の名人:伊賀家さだ(鈴木ハナ)【ひとすじの心】和田芳恵 著1979

【ひとすじの心】昭和54年(1979)
著者    和田芳恵 著
出版者   毎日新聞社
出版年月日 1979.1
p3【ひとすじの心】昭和54年(1979)
〔画像〕p3【ひとすじの心】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/3
  髪結いの名人 伊賀家さだ
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/46

鈴木ハナ(伊賀家さだ)は、
明治三十八年(1905)に静岡の在で生まれた。
父は菓子職人であったから、
店から店と渡り歩いて、
いつも、独り旅を続けていた。
ハナはひとり娘だが、
両親がかわいがり、
娘のために安住の地をもとめて、
沼津へ店を持つことになった。

しかし、大きなことをするには、
東京へ出ることだと、
ハナが小学校へはいるころ、
下谷の池端へ職場をみつけて、一家は上京した。
ハナが池端小学校を出たのは、
数えの十四歳の春である。
ハナの父は、
娘をりっぱな髪結いにしようと思った。

この頃、新橋でいちばん名を売っていた髪結いは、
伊賀とらと桑島千代、
それに大沢たけの三人であったが、
なかでも、伊賀とらは、東京で、
いちばんの名人といわれた人である。

この頃、弟子はみな住み込みであったが、
伊賀とらは仲々ハナを弟子にするといわず、
そのため、幾度も通って、
やっと、ゆるされたそうである。

朝の五時からハナはたたきおこされ、
飯たきや拭き掃除から走り使いと夜遅くまで、
ほとんど休む暇もなかったが、
一週間のお目見えも無事につとめて、
やっと十年間の年期奉公をつとめる
内弟子になることができた。
たった一週間のあいだに、
仕立ておろしのきものの膝が抜けていたそうだから、
およそ人使いのあらさがわかるというものである。

内弟子になった当初、
ハナが、薄い夜具にくるまっていると、
上野の夜桜や、広小路の夜店のことが思いだされてきて、
自然にねむい眼に涙がたまるのであった。
最初のうちは、幾度、家へ逃げ帰ろうとおもったか
ハナはわからないそうである。

「あの頃とは、だいぶ様子もかわりましたが、
 伊賀とらの店は、資生堂からはいった、
 今の見番の前あたりだったと思います。
 私の呼び名は[さだ]ということになり、
 下梳き、癖直し三年という女髪結いの道へはいったわけです。
 お師匠さんは、たしかに名人だと思いましたね。
 この人の手にかかると、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/47

 髪が生きてくるんですね。
 大昔の女は、髪を自然に垂らしていたにちがいありません。
 働くに不自由なところから、
 髪をつかねるようになったのでしょう。
 だから、昔の女は、ゆさゆさと自由に伸したままだったから、
 生きもののような魅力が髪にあったにちがいありません。
 それを結うということで、
 窮屈にしてしまうのですから、
 どうしても、髪の持つ生命感が失われるのです。
 これに生きた魅力をあたえることは、
 大へんな腕だと思いますね。
 秘伝は、自得するしかないものだと
 お師匠さんにいわれて、
 そのときは、不満に思ったのですが、
 やがて、こういう機微がわかってきたのは、
 自分の腕がすすんだときだったのです。
 今は、一年半ぐらい学校へ行き、
 インターンを経て、三年たらずで、
 先生とよばれる資格を持つわけですが、
 こんなことで通用するものなら
 あまいものだと思いますね。
 しかし、こんな考えが古いというんでしょうね。
 ここには、弟子が十三人おりましたが、
 私は二年めに、もう、下拵えの位置につきました。
 こんなわけで、十年の年期も一年早くなり、
 二十三歳で柳橋へ店を持つことができるようになりました。
 この頃、島田が八十銭ですから、
 割のいい商売と言えましょう。
 「日髪日化粧」という言葉もあったほどで、
 おしゃれも多かったですね。
 二十八歳で結婚しました。
 私たちの仲間の言葉で、
 結婚すれば元結がしまらなくなるといって、
 結婚をきらう風があります。
 つまりは、やはり職人独特な道楽家業なのでしょう。
 私は、佐藤得二さんの『女のいくさ』を読んで、
 なるほど、
 私たちの世界がよく描けているなあと思いましたが、
 あの女主人公のように、
 自分の主人に色っぽい勤めをしたら、
 とても身が持たないと思いましたね。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/48

 ―略―
 あっさり、店をやめてしまったのですよ」
伊賀家さださんは、盆栽の見える庭に向った廊下で、
自分が生きてきた道筋を私に語るのであった。

伊賀とらさんのところでの相弟子は、
ほとんど、まだ、
四十に手がとどかぬうちに死んでしまったそうだ。
その頃の内弟子は、食べものが悪く、
それに、髪結いはきつい仕事だから、
早死にしたのだろうと[さだ]はいうのであった。

[さだ]さんは、伊賀家を継いだが、
伊賀とらこそ、日本髪を結ったら、
日本一の名人だったというのである。

《とら》は、最初は、神戸にいて、髪結いをしていた。

寺の息子で、泉谷祐勝という妻子のある男と《とら》は、

はげしい恋をするようになり、
寺を棄てた泉谷祐勝は、いっしょに東京へ出てきて、
新橋に髪結いをはじめることになった。

※泉谷祐勝
生 明治15年(1882)3月
歿 昭和42年(1967)2月3日

※伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

これは、
泉谷祐勝が伊藤博文に
眼をかけられていたからだということだ。
泉谷祐勝は、こんなわけで、店の近くに住居を持ち、

《とら》は、仕事を終えると、
その日のあがりを入れた銭箱をさげて、
自宅に帰ってゆく。
内弟子たちは、銭勘定が終ったら、
夜が明けるだろうと陰口をたたいたものだそうだ。
そのように商売は繁昌した。

浅野侯とか、児玉将軍などの邸にも、
《とら》は髪結いに通っていたが、これも、
伊藤博文の息がかかっていたためらしい。

この頃は、まだ、珍らしかった
野球に泉谷祐勝が熱心で、
《とら》は、野球のボールや、
ミットを染めたはでな着物をきて、
内弟子たちを引き連れ、
応援にかよったりしていた。
誰の眼にも、仲のよい夫婦に見えた。

「『女のいくさ』のなかにも、
 内弟子と主人が出来るところがあったでしょう」
と、[さだ]さんが言ってから、
「どうしたことか、
 泉谷祐勝さんと内弟子のひとりが
 関係するようになったのです。
 お師匠さんは、気のつよい人でしたから、
 黙って見過すはずがありません。
 ついに主人を相手の訴訟沙汰になり、
 きっぱりと別れてしまったんです。
 ところが、このとき、
 出入りしていた刑事とお師匠さんができて、
 これは、多分に別れた泉谷祐勝さんに対する意地も
 あってのことでしょうが、
 再婚することになりました。
 お師匠さんに男の子がふたりできたのですが、
 長男は、どうしたことか、不良少年になってしまい、
 《とら》さんの心配の種になりました。
 また、出来のいい次男は、今度の戦争で、戦死。
 この苦しみがもとで、
 大本教の熱心な信者になってしまいました。
 こうなると、毎月の利益は、
 すべて綾部の本部へ差しあげるようになり、
 そのあげく、新橋の店を売り払って、
 綾部に引っ越してしまいました。
 出口の教祖の血縁を養子にむかえて、
 お師匠さんは、大本教でなかったら、
 夜も明けない始末です。
 それでも、私ども弟子たちは、
 お師匠さんさえしあわせならと思ってあきらめたのですが、
 もう、別の世界の人だから、
 自然に脚が遠のいてしまいました。
 ですから、伊賀家は私が継いだのですが、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/49

 これも私の代で終りということになります」
日本髪を結う人も、
やがてはなくなるだろうから、
腕で継ぐ伊賀家がつぶれてしまっても
しようのないことだと、
[さだ]さんは思うらしかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/50
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/51
ひとすじの心  1800円
昭和五十四年一月二十日 印刷
昭和五十四年一月三十日 発行
著 者 和田芳恵
編集人 吉田掟二
発行人 高原富保
発行所 毎日新聞社
    〒100 東京都千代田区一ツ橋
    〒530 大阪市北区堂島
    〒802 北九州市小倉北区紺屋町
    〒450 名古屋市中村区名駅
印 刷 図書印刷
製 本 大口製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/187
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日
伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳

伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日  65歳

松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日  74歳

伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日  15歳

伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日  25歳
【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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《浅岡信夫》早稲田の相撲部の大将、柔道2段、ラグビー選手、陸上競技の花形である【新体育 40(5)】昭和45年(1970-05)

【新体育 40(5)】昭和45年(1970-05)
出版者   新体育社
出版年月日 1970-05
p1【新体育 40(5)】昭和45年(1970-05)
〔画像〕p1【新体育 40(5)】昭和45年(1970-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2373782/1/1

  思い出のスポーツマン(4) 河井 勇
  浅岡信夫君
大正10年頃、
桂公爵の愛妾だった元新橋芸者のお鯉さんが
銀座7丁目にナショナルというカフェーを開いた。
その頃のカフェーというのは
今の喫茶店とはちがう。
ビール、日本酒、洋酒ものめるし、
洋食もたべられる。
女給さんはエプロンを後に蝶むすびにして、
髪は耳かくしで、
いわゆる大正の女給姿である。

その頃は”銀ながし“と称する不良が
こういう飯食店に出入して
ゆすり、たかりをするので、
どこの店でも用心棒をたのんでいた。

このお鯉さんのナショナルの用心棒にたのまれたのが、
浅岡信夫である。
彼は早稲田の相撲部の大将、柔道2段、
ラグビー選手、陸上競技の花形である。
相撲の稽古で片腕を負傷して包帯で腕を吊っていながら、
数名の暴力団を2階から突き落した大奮戦ぶりは
浅岡武勇伝として、
古い銀座を知っている人には
いまだに語り草になっている。
     〇
この浅岡は早稲田を出てから日活の俳優となり渡米したが、
あまりパッとせず、その後、
右翼や軍と連絡をとり上海へ渡り、紙商売をした。
それが当って上海ブロードウェー・マンションという
一流マンションに陣取って豪華な生活をしていた。

そのうちに大東亜戦争となって内地に引揚げて来たが、
親分肌で、引揚げの大将となって働いた。
その腕前が認められて、
ソ連からの引揚げも手伝って敦賀で活躍した。

引揚げの大将としての活躍で天下に名を知られたので、
衆議院選挙に出て、全国区で見事当選した。
だが当選は1回きりで終った。
その後、いろいろな斡旋業で成功し、
金も出来て熱海の海を見下す邸宅を買い、
庭の手入れをしているうちに、
崖からすべり落ちて、打ち所が悪く、
数年前、さすがの豪傑もあっけなく死んでしまった。

何しろ膂力(りょりょく)衆にすぐれ、
喧嘩ずきの豪傑だったので、
さまざまなエピソードを残したが、
最も有名なのは新橋カフェー事件である。

その頃はまだ銀座通りにカフェーの数も少なかったが、
「新橋カフェー」というのは、
銀座8丁目の新橋橋詰めの
今は天国のあるところにあった大きなカフェーだった。
そこの美人女給に浅岡が惚れた。
だが彼女にはもう一人、慶応の学生の愛人があって、
はからずも早慶戦ということになった。
この争いは仲裁に入るものがあって、
双方とも彼女から手を引くということになった。

浅岡は彼女を忘れるために陸上競技に熱中して、
上海で行われた極東選手権大会に出場し、
槍投でレコードを作って優勝して凱旋した。
彼の祝勝歓迎会の帰り、
銀座へ出て思い出深い新橋カフェーの下を通ると、
2階の窓際に、彼女とライバルの慶応生が顔を近づけて
話をしているではないか。
浅岡はそれを見るや否や、
階段をかけ上って慶応生を外へつれ出した。
2人は連れ立って、
何か二言、三言話していたと思ったら、
浅岡はいきなり相手を殴って、
新しい麦藁帽子を飛ばして、
それを踏みつぶした後、
腰車にかけて投げとばした。
慶応生は銀行の建物の台石の角に頭をぶつけて
人事不省に陥ってしまった。
そこへ夜警巡査の靴音が聞えて来たので、
浅岡は傍らを通った人力車をつかまえて、
「おい、どうしたい、
 そんなに酔っ払っちゃ困るじゃないか」
といって車へかつぎこんで病院へつれ込んでしまった。
慶応生はまもなく意識をとりもどしたからよかったものの、
あのまま息を吹きかえさなかったら、
どんなことになったであろう。
この事件以来、彼の友人は、
今にどんなかかり合いになるかも知れないと警戒して、
彼といっしょに歩くのは御免だということになった。
     〇
また、関西学院との対抗試合に遠征した時も、
負けてむかっ腹を立てていたのだろうか、
阪神電車の車掌と喧嘩して、
車掌の制服の片袖をちぎってしまって、
交番に拘留された。
神戸の牛肉店三輪で歓迎会をすべく
待っていた関学の選手たちは、
いつまでたっても早稲田の選手がこないので、
調べて見ると拘留されているというので、
貰いさげをしてもらったこともある。

浅岡は喧嘩好きで、毎日武勇伝を聞かせるので、
喧嘩の原因がよくそんなにあるものだねと聞いて見ると、
他人の喧嘩の仲裁に入って、
両方とも殴ってしまうというのだから
困ったものである。

兎に角、彼は漢楚軍談か、三国志か、
水滸伝の時代に生れていれば、
もっと目ざましい活躍をしたのであろうが、
生れてくる所と時代が少しずれていたようだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2373782/1/56
新体育 五月号 第四十巻 第五号
昭和四五年五月一日発行 二三〇円(送料一五円)
編集人 栗本義彦
発行人 小沢謙一
印刷人 中村 榊
発行所 株式会社 新体育社
    東京都文京区本郷二丁目二九番六号
    郵便番号113
    振替東京一六七三四
    電話(八一二)七四三五
https://dl.ndl.go.jp/pid/2373782/1/74
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日活中堅女優 淺野雪子孃と淺岡信夫【キネマ週報 = The movie weekly (39)】1930-11

【キネマ週報 = The movie weekly (39)】1930-11
出版者   キネマ週報社
出版年月日 1930-11
p1【キネマ週報 = The movie weekly (39)】1930-11
〔画像〕p1【キネマ週報 = The movie weekly (39)】1930-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965037/1/1
  スタヂオ千一夜物語
  第二十六夜
 冬近し、スター連の飲みつぷり
酒傑五斗又兵衞の風貌あるは、
何といつても淺岡の信ちやん。
今でこそ大いに控へてゐるが、
そのかみ
早稻田角力部の横綱として鳴らした頃は
斗酒あへて辭せず、
大盃でグイグイと傾けつくす豪快さ。

その飲みつぷりの男らしさに、
ゾツコン參つたのが、
カツフヱ・ライオンの花と咲いた
女給お種さんこと、
後の日活中堅女優 淺野雪子孃。
二人の間に出來た坊やは不幸夭折したが、
信ちやんの日活入りと共に、
夫婦共稼ぎの愉悦を神は與え給ふたのであつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965037/1/12
昭和五年十一月廿七日 印刷納本
昭和五年十一月廿八日 發行
編輯人    田中純一郎
發行兼印刷人 片桐槌彌
發行所    キネマ週報社
       東京・京橋木挽町二ノ四
       電話京橋(56)三七三一番
       振替東京五六〇五八番
本誌取次店  東京堂、東海堂、北隆館、大東館
(安久社印刷)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7965037/1/16
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【昭和物故人名録 : 昭和元年~54年】1983
著者    日外アソシエーツ株式会社 編集
出版者   日外アソシエーツ
出版年月日 1983.7
浅野雪子 あさの・ゆきこ
1904.7.13~1973 69歳。
※明治37年(1904)~昭和48年(1973)
女優。本名・宮沢種子。
生・東京市京橋区。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12210190/1/12
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【早稲田大学校友会会員名簿  大正14年11月調】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 大正4-14
 商學部 大正十一年得業
《淺岡信夫》 日活關西撮影所
京都市外花園村妙心寺北門上ル

【早稲田大学校友会会員名簿 [昭和10年用]】
出版者   早稲田大学校友会
出版年月日 1934.12
《淺岡信夫》 大正11年卒 商學部 廣島
割烹淺岡 經營
京橋區銀座八ノ三
(電話銀座一二二九)
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京都の美粧倶楽部の伊藤ツネさん 本黄楊の櫛【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984

【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
著者    小出新次郎 著
出版者   女性モード社
出版年月日 1984.4
p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p1【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/1
   本黄楊の櫛
日本髪の結い上げは黄楊櫛である。
和田さんは黄楊は薩摩のものがいちばんよい。
伊豆大島にもあるが質が劣るそうである。
なぜ薩摩黄楊がいいかというと、
折れにくいこと、
脂質を含んでいること、
葉先きが頭皮に当たっても傷つけないこと、
使うほどに油が浸み使い易くなることだそうだ。
ただ薩摩黄楊は高いんでねとこぼしておられた。

京都の美粧倶楽部の伊藤ツネさん(故人)から
長年使いこんだ黄楊櫛を数本寄贈して頂いた。
黄楊とはみえないようなべっ甲色をしている。
p110【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
〔画像〕p110【美容の歴史散歩 (美容文庫 ; 46)】1984
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/110
美容文庫 46  美容の歴史散歩
昭和59年4月10日 初版発行
定価2900円
著 者 小出新次郎
発行者 今成  弘
印刷所 明和印刷株式会社
    二葉印刷株式会社
製本所 和光堂製本所
発行所 株式会社 女性モード社
    東京都新宿区下落合3の15の27
    振替口座/71540
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168920/1/129
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上村松園「序の舞」京都で一番上手な髪結さん【青眉抄】美粧倶楽部のおつねさん【春花秋鳥】上村松篁

【春花秋鳥】1986
著者    上村松篁 著
出版者   日本経済新聞社
出版年月日 1986.6
p5【春花秋鳥】1986
〔画像〕p5【春花秋鳥】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/5
母(上村松園)は古風な髪形を研究するのが趣味で、
その後も知り合いの美粧倶楽部のおつねさんと相談して、
妻にさまざまな日本髪を結ってもらっては写生していた。
高島田、丸まげ、桃割れなどをはじめ、
割しのぶ、おしどり、三つ輪など
いろいろな髪形を次々に試みた。

昭和十一年に母が描いた「序の舞」の時も、
妻のたね子が髪形のモデルを務めた。
母自身がその時のことを
随筆集「青眉抄」の中で語っている。 ※下記
p56【春花秋鳥】1986
〔画像〕p56【春花秋鳥】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/56
春花秋鳥 ¥3,800.
著者 上村松篁
昭和六十一年六月二十四日一版一刷
発行者 前田哲司
図版印刷 便利堂
本文印刷 奥村印刷
用紙 神崎製紙
製本 関口製本
製函 加藤製函印刷
発行所 日本経済新聞社
東京都千代田区大手町一ノ九ノ五
電話 〇三(二七〇)〇二五一
振替 東京三ノ五五五
https://dl.ndl.go.jp/pid/12426307/1/142

【青眉抄】昭和18年
著者    上村松園 著
出版者   六合書院
出版年月日 昭和18
p3【青眉抄】昭和18年
〔画像〕p3【青眉抄】昭和18年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/3
   序の舞
『序の舞』は昭和十一年度、
文部省美術展覽會に出品しました、
私の作品の中でも力作であります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/95
この繪は私のあとつぎである
松篁の妻のたね子や、
謡の先生のお嬢さんや、
女のお弟子さんたちをモデルに使ひましたが、
たね子を京都で一番上手な髪結さんのところへやつて
一番上品な文金高島田に結はせ、
着物も嫁入りのときの大振袖をきせ、
丸帶もちやんと結はせて
構圖をとつたのであります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/96
出版會承認い30614號
昭和十八年十月二十三日 初版印刷
昭和十八年十月二十八日 初版發行(五、〇〇〇部)
定價 停 金四圓
特別行爲税相當額廿錢
合計金四圓二十錢
靑眉抄 上村松園 談
編 者 中村達男
發行者 山下洋史
    東京都神田區佐久間町四ノ三
印刷者 岩本菊雄
    東京都芝區南佐久間町一ノ七
配給元 日本出版配給株式會社
    東京都神田區淡路町二ノ九
發行所 六合書院
    東京都神田區佐久間町四丁目三番地
    振替東京七一一八七番
    電話下谷三一七七番
    出版會會員番號一四〇〇〇二番
(東東1120研文社印行)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1068967/1/183
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文化遺産オンライン 文化庁 〒602-8959
京都府京都市上京区下長者町通新町西入藪之内町85番4
序の舞〈上村松園筆/絹本著色〉
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《伊藤ツネ》(株)美粧倶楽部 社長【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)

【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
著者    帝国秘密探偵社 編
出版者   帝国秘密探偵社
出版年月日 1957
p16【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
〔画像〕p16【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/16
《伊藤ツネ》(株)美粧倶楽部 社長
      京都市美容専修学校 講師
京都市中京区四条高倉西入
電話(2)二六九
明治二二年一〇月一三日生
京都市出身
明治四五年
大阪市美粧倶楽部 山本久榮の指導を受け ※下記に記載
大正三年 東京日本女子美髪学校卒
現住所に於て開業し
昭和一〇年 京都結髪組合 五条支部長
昭和一五年 京都市結髪組合 副会長を経て
昭和二三年 京都市美容師会 副会長
      京都府美容師試験委員
昭和二四年 京都美容協同組合 理事長に就任す
宗教 真宗
趣味 読書・着物
家族 長女 有子(大正一一年)
   同夫 三雄(明治四五年)
      同志社大 経済学部卒 当社勤務
   孫  熹生(昭和二一年)
p71【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
〔画像〕p71【大衆人事録 第19版 西日本篇】昭和32年(1957)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3010652/1/71
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年01月24日10:33
《伊賀とら》さんのなさる美術は
生きた人間を相手にする美術である
【美容全集】山本久栄著 昭和2年

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年03月10日06:00
《伊賀トラ》奈良県の美容界の先駆者田中直江さん
【女性教養 12月(287)】昭和37年(1962)
 もっと偉い人もあった。
 山本久栄女史。
 この人は東京の赤坂見附に
「美粧倶楽部」の看板をかかげ、
紀尾井町に美容学校を経営し、
京都に店をもってご大典のおりの
十二ヒトヱやオスベラカシの髪を扱い、
大阪の堺筋の本町に店をかまえて、
東京大阪を忙しく往復し、
いわゆる上流家庭にふかく根をおろした
目ざましい活躍と手腕は、
いまも尚語りぐさをにぎわしている。
 山本久栄女史は伊賀トラさんに学び、
「思いつき夫人」とよばれたほどの
あらゆる新企劃を発表し、
「マガレット」コート
其他のたくさんの作品もある。
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