2026年01月

[足立道五郎先生] 祖国の風は冷たかった【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  十二年ぶりに踏む祖国の土
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/198
一九五三年(昭和28)八月十一日
ついに私たちは祖国の土を踏んだ。
それはまぎれもなく日本の土であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/199

  祖国の風は冷たかった
帰国した私は妻と長男を四国の妻の実家に預け
職探しに走り回った。
妻は実家で二男を出産した。
私はこの二男に「幸弘(ゆきひろ)」と命名した。
深い意味もなかったが「末永く幸多かれ」
と願う親の心情だった。

職探しをしながら中国で苦楽を共にしてきた
友人たちの消息を求めた。

幸い足立(道五郎)先生も、太田先生も、
堤さんも、橋本さんも、鈴木君も
みな無事帰国していた。
誰も彼もそれぞれ職を求め
生活の安定のために苦労していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/200
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/242
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院との別れ【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  九江第六陸軍病院との別れ
九江の生活は私たちが解放軍に従軍してから
最も落ちついた、
また変化の多かった時代であった。

九江に来るまでは、
ひとつ所に長くても一年足らずで、
戦況の進展につれて移動移動の連続だった。
ここに来てようやく少し落ちついた。
社会情勢も変化した。

私たちにとってなんといっても
一番大きな変化は、
軍服を脱いで薪金制になったことだった。
そして結婚し子供も生れた。

これは私の人生にとっても最大の変化だった。
九江第六陸軍病院ここは私たち夫婦にとって、
いや私たち夫婦だけでない
ここで結婚した人々にとっても、
終生忘れることのできない
結婚生活の思い出の地になった。

「新婚生活」、それはその形式内容がどうあれ、
人間にとっては新しい人生の出発点として
深い意義があった。
こうした異境で、
このような環境の中での新婚生活であっただけに
尚更その意義は深かった。

一九五二年(昭和27)五月
平井出副院長・足立(道五郎)先生・太田先生
はじめ医生と大井民幹、
そのほか主だった医療技術者を残して、
半数の日本人はまた泰和へ移動することになった。

この時期にきて私たちを江西省の山奥にある泰和に、
それも全員ではなく護士や文書・工務員といった
比較的軽い職務にあった者だけを移動させたことに、
どんな理由があったのかいまでも私には理解できない。

だが、帰国の時期が近づいていることだけは分っていた。
泰和へ移動を命ぜられた者は、
命令のままに小さな船で@江を遡り泰和へ向った。

太田先生・足立(道五郎)先生そのほか
敗戦のときから、
或はまた第二後方病院が編成された時から数年、
牡丹江から雷州半島まで解放戦争に従事し、
そして再び東北へ、
さらにこの九江まで苦楽を共にしてきた
同志たちと別れなければならなかった。

特に太田先生・足立(道五郎)先生には
ほんとうにお世話になりました。

太田先生には
牡一の初年兵の時から衛生兵教育だけでなく、
学問も才能もない私は教えられることばかりでした。

足立(道五郎)先生には
妻 宮川トシ子が
やはり敗戦の時から、
五七院でお世話になってきた。

個性がはげしく欠点の多い私は、
この二人の先生のご指導と感化によって、
どれほど成長してきたことであろうか。

それを思えば感謝の気持ちで一杯だった。
そしてまた「すばらしい人生の師」を
得たことを幸せに思った。
涙もろい私は止めどもなく涙が流れた。
「生者必滅・会者定離」、
会った以上別離はまた定めでもあった。
「先生、みなさん、無事帰って下さい。
 日本でまた会いませう。」
そう言って別れた。

病院では別れを惜しみ送別会を開いてくれた。
思えば二年近く[遊]院長・[李]政治委員・[白]主任、
よく𠮟られた[王]護理科主任、
温厚な[寥]先生、
日本語の分る[王]先生、[張]士長、
みなさん親切に私たちの面倒をみてくれた。

謝々、再見、再見
(ありがとう、さようなら・さようなら)
p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p175【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/175

病院の正門に通じる通路の両側には
プラタナスの若葉が五月の陽を受けて緑に輝き、
その下に傷の癒えた傷兵たちが手を振って見送ってくれた。

昨年の今ごろは重い傷を負って
遠く朝鮮戦線から送られてきた負傷兵たちも、
私たちの献身的な治療看護の甲斐あって、
いまはこうして外を散歩できるまでに
快復している者も多くなった。
ほんとによかった。
嬉しいことであった。

「你們身体健康吧」
(あなたたち身体を大事にしてね)。
看とったもの看とられた者、
その立場は違っても
一年間も同じ病棟の中で生活していれば、
民族の違い言葉や習慣の違いを乗り越えて、
そこには人間対人間の愛情と信頼が
生まれてくるのであった。

もう二度とこの人たちと会うことはないだろうが、
どうか何時までも元気でいてほしい。
そう心に念じながら九江陸軍病院を後にした。
p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p176【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/176
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
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[足立道五郎先生] 九江第六陸軍病院【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  九江第六陸軍病院
   日本人同志の分散
三度漢口に着いた私たちは各地に分散した。
全土が解放された中国大陸は経済建設と、
軍の正規化、抗美援朝に力を入れていた。

敗戦以来、数年生死を共にしてきた
私たちは肉親のような親しみを持っていた。

中南軍区司令部は私たちを、
それぞれの職務、技能に応じて
必要な部門に分散させた。

装蹄士の技術を持つ平塚要さんは
武昌の獣医処へ、
会計の人たちは経済部門へと分れていった。

医務関係者も湖北病院へ、
或は南昌の医学院へと行く者もあった。

田中民族幹事は漢口に残った。

私は足立(道五郎)先生・太田先生や
そのほか総勢五十名ほどで、
九江の病院へ行かされた。

また長江を船で下って九江に向った。
今度は洪水もなく、
迎えのトラックで病院に着いた。

九江の病院は中南軍区衛生部第六陸軍病院といった。
現在は中国人民解放軍一七一医院となっている。

この病院は旧日本軍の病院で、
俗称 椿部隊と呼んでいたと聞くがさだかではない。

建物は木造平屋建の病棟が六棟、
ほかに手術室・薬局・事務棟・炊事場・工作員病舎
などの附属建物があり、
相当大規模な病院だった。
戦火で破壊されることもなく、
そのまま病院として使用できた。
だが、まだ解放後日も浅くこれから建設の段階だった。

九江の病院にはさきに、
東北に行く際漢口で別れた
橋本萬寿治・佐藤夏美さんが来ていた。
ほかに日本人は七・八名しかいなかった。
私たちが着くと、
院長はじめ病院挙げて大歓迎してくれた。

院長は、「遊全挙」という名前の恰幅のいい、
三十を少しすぎたくらいの
見るからに温厚そうな、
大人(たいじん)の風格をそなえた人だった。

私たちは先生方から順に、
一人一人紹介され握手した。
その日は
一九五〇年(昭和25)十月二十五日であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/159

  病院建設

こうして一九五一年(昭和26)の春ころまでには
一応の体制は整った。
しかし医療面ではやはり日本人の力が大きかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/160

主な陣容は、
副院長・平井出博士、
主治医生・足立(道五郎)先生・太田先生、
眼科主任・栗原先生、
歯科主任・肱川先生、その下には技工士 堤さん、
ほかに高田先生・紺野先生・中村先生、
さらに実習医生・医助数名、

レントゲン室主任・星先生、その下に杉田さん、
病理検査室主任・詫間先生、
その下に平野さん、永井さん、鈴木君。
医務科護士主任・白石さん、(後に猪股士長)
護士長・本池さん。猪股さん・宮村さん・斉藤さん、
文書・岡さん・加藤さん・といった顔ぶれで、
このほか五十名ほどの護士がおり、
医療面の中心になっていた。

男の人で数人工務班の仕事をする者もいた。

  志願兵の負傷兵を迎える
病院の体制が整うと志願軍の負傷兵の
第一陣が送られてきた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/161

朝鮮戦線から送られてきた負傷兵のなかに、
どうも日本人らしい顔をした兵士がいた。
傷はそれほど重いようではなかった。
病歴表(カルテ)の名前は『年永貴』と書かれていた。
そして中国語を上手に話したが、
どうみても日本人であった。

彼は名を『年岡冨貴夫』という
立派な日本人であった。

ただ一人で解放軍戦闘部隊に従軍していたため
抗美援朝志願軍に加わり、
北鮮の戦場で傷ついたのであった。

年岡さんは退院後私たちの仲間に加わった。

後の調査ではこのように、
志願軍として朝鮮戦線に従軍した日本人の数は、
三十人とも五十人とも、
或は百人を超えるという情報もあるが、
その数はいまもなお確認されていない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/162
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
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《藪本花子=吉田花子:船井郡須知町》令兄《藪本唯男》【日本医事年鑑 昭12年度版】【日本醫籍録 昭和15年版】

【日本医事年鑑 昭12年度版】
著者    日本医事新報社 編
出版者   日本医事新報社
出版年月日 昭和12
p4【日本医事年鑑 昭12年度版】
〔画像〕p4【日本医事年鑑 昭12年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1048203/1/4
《藪本花子》
大阪市 西淀川區 海老江中一ノ一八
《藪本唯男》
大阪市 西淀川區 海老江五ノ一八
p503【日本医事年鑑 昭12年度版】
〔画像〕p503【日本医事年鑑 昭12年度版】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1048203/1/503
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【日本醫籍録 昭和9年版】
出版者   醫事時論社
出版年月日 1934
《藪本唯男》
大阪市西淀川區 海老江中一ノ一八
内小兒科 外科 花柳病科 藪本病院
明治卅七年七月卅日生
和歌山縣出身
昭和五年 愛知醫大卒業
登録 六二八二一號
卒業後 愛知醫大 勝沼内科ニ勤務
昭和六年七月 現地開業
《的場克己》
大阪市西淀川區 海老江中一丁目
内小兒科 外科 花柳病科 藪本病院
明治卅八年十二月十七日生
三重縣出身
愛知醫大卒業後 愛知醫大ニ研究
昭和六年七月 現地 藪本病院ニ勤務

【日本醫籍録 昭和15年版】
出版者   醫事時論社
出版年月日 1941
《吉田花子》
京都府船井郡 須知町三日市
小兒科 内科 吉田醫院
明治四四年三月十一日生
大阪市出身
昭和八年 大阪女子高等醫專卒業
卒業後 神戸市市立市民病院 内科ニ入リ
二ケ年在職後
大阪市西淀川區 藪本病院ニ歸宅
令兄ノ醫業ヲ補佐シ
昭和十一年 現在處 開業
須知町 町醫
趣味 讀書・渉獵・旅行

《藪本唯男》
大阪市西淀川區 海老江中一ノ一八
内外兒科 花柳病科 藪本病院
明治卅七年七月卅日生
和歌山縣出身
昭和五年 愛知醫大卒業
登録 六二八二一號
卒業後 愛知醫大 勝沼内科ニ勤務
昭和六年七月 現地開業
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《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生6二つの知識

【学友会同窓会名簿 : 同志社女学校専門学部・
 同志社女学校高等女学部 昭和3年6月10日調】
出版者   京都同志社女学校学友会
出版年月日 昭和3
p1【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
〔画像〕p1【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
明治三十九年普通學部卒業生(二一名)
吉田(船越)里
京都府船井郡須知町
p39【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
〔画像〕p39【同志社女学校専門学部:昭和3年6月10日調】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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桜子先生 6 二つの知識
花子
2024年12月13日 11:16
国道沿いの家に私は父や母、私たち子供、
お手伝いさんや看護婦さんと住んでいました。
祖父や祖母は、田畑が広がる在所で、
江戸時代から続く、大きな家に住んでいました。
父は9人兄弟で、父の一番下の妹は、
私の姉と6歳しか離れていませんでした。

祖母は、京都の同志社大学の前身で、
新島襄が京都で英語の学校を
始めた頃に学んだ卒業生でした。
つまり祖母は、
その時代の最先端の知識、
英語を身に着けた女性でした。
私の高校のころ、
「おばあちゃん、まだ英語覚えている。これ読んで」
と、高校の英語の教科書を渡しました。

祖母の時代から、
20年ほど遅れて生まれた母の『生き方』の違いに、
今更驚きます。
祖母は京都の田舎育ち、
母は大阪育ちで、
二人の育った環境も違いました。
母と祖母は、正反対でした。
二人とも若いとき、
当時の最先端の知識、医学や英語を学びましたが、
祖母はそれを恥のように隠し、
母は一生涯それを学び、活用した人でした。
祖母が本や新聞を広げているのを見たことありませんでしたが、
母は暇があると、取り寄せた専門書を読んでいました。
「ちょっとでも知ってると、
 一人でも患者さんを助けられるから」
「知らんということは、怖いことや」
と、母はいつも言っていました。

母の医院は、
祖父母の家から歩いて10分ほどの所でしたが、
祖母は、母に協力したり、
助けたりすることもありませんでした。
その必要もありませんでした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生2田舎

《吉田花子・吉田五三子・中島襄》吉田医院 丹波町蒲生
【医籍総覧 西日本版】昭和46年(1971)
コメント一覧
1. 藤岡真知子 2026年01月14日 19:18
医籍総覧に、吉田花子の事を書いていただき
ありがとうございました。
吉田花子は、私の母です。
昨年、ネットnoteに、
花子のペンネームで、
母の昔話を書きました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜子先生 2 田舎
花子
2024年11月21日 14:38
「お母さん どうしてこんな田舎に御嫁入したの」
ある日、潜り込んでいる布団の中で母に聞きました。
母の嫁入り先、つまり私の実家は、
山陰線の鈍行で京都駅から一時間以上汽車に揺られて、
下車した駅からバスで、今度は峠道を延々と上り、
頂上近くの隧道、つまりトンネルを超えて、
またどんどん下って行った、
日本海に通じる国道沿いの町で、昔は小さな宿場町でした。
あちこちの山間に田畑があり、
そこに小さな集落が点在している田舎でした。

「父の知り合いのお坊さんが、
 『よい話』と言ってね、
 わての嫁入り先の話をもってこられたんや」

母の父親は、すぐ現地に調べに行ったそうです。
まずその町の役場に、町の事情を聞くために入りました。
驚いたことに、
母の結婚相手の親が、
その町の町長だったのです。
二人は、話しているうちに意気投合して、
息子と娘の縁談を決めて帰って来たのでした。

国道沿いに二人の家を建て、
母が開業できるように、
待合室や診察室、薬局などを作ったそうです。
「わては、医者以外は何にもできないから、
 お手伝いの『ゆきちゃん』と一緒に嫁入りしたんや」
と、母が当たり前のように言ったのには、
びっくりしました。
私の小さい時の、
やさしい『ゆきちゃん』は、
母の嫁入りについてきた人だったんだ、
とこの時初めて知りました。

父は柔道、剣道7段の強者だったのです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月02日17:29
[077]〔吉田九一郎君〕p103-104[現代船井郡人物史]
[077] 〔吉田九一郎君〕p103-104
    前船井郡會副議長
    船井郡須知町字蒲生
殊に君は雄辯家にて
辯論と劍道は其長所とする所にて
普通は人一倍の吝者たるも
政治運動
特に論壇と劍術には多少時間と黄金を犠牲に供せり、

一年三百六十五日
一日も欠さず早朝床を離れて
分家せる吉田兵進氏を相手に
擊劍を練磨せる其膽力に徵して明かなり、
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月02日09:16
[101]〔吉田兵進君〕p134-135[現代船井郡人物史]
[101] 〔吉田兵進君〕p134-135
    須知町長
    船井郡須知町
氏は明治十六年二月二十一日生にて
同村吉田九一郎氏の實弟なり、
p1【現代船井郡人物史】大正5年
〔画像〕p1【現代船井郡人物史】大正5年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

《藤岡真知子》note花子《吉田花子先生》桜子先生1試験

《吉田花子・吉田五三子・中島襄》吉田医院 丹波町蒲生
【医籍総覧 西日本版】昭和46年(1971)
コメント一覧
1. 藤岡真知子 2026年01月14日 19:18
医籍総覧に、吉田花子の事を書いていただき
ありがとうございました。
吉田花子は、私の母です。
昨年、ネットnoteに、
花子のペンネームで、
母の昔話を書きました。
母が82才のころ、骨折して寝ている時、
面白い話をきき、それを思い出して、
書いてみたくなったのです。
マガジンに、出しました。
いつか読んでいただくと、
医者になったいきさつや、
エピソードを、書いています。
お暇がございましたら、読んでみてください。
母の事書いていただき、嬉しい事でした。
ありがとうございました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
note 花子
私は子育ても仕事も終わり、残りの命を楽しんでいます。
お金も家も定職もない人が大好きになって結婚し、
忙しかったけれど幸せでした。
そして面白い楽しい人生でした。
もう86歳超えました。
今は海を見て飛び出す魚に感動し、
空飛ぶ飛行機を見て、
その下にすいすいと飛ぶ鳥にあこがれ暮らしています。

桜子先生 1 試験
花子
2024年11月18日 10:56
あらすじ
 母は明治44年うまれの女医でした。
当時大都会である大阪商人の娘で、
思いがけず女医になってしまいました。
当時の女性の理想像である良妻賢母と全くかけ離れた、
珍しい職業を持った女性でした。
そんな母が、京都の山奥の村で
一開業医として一生を終えたのです。
  -略-
 「お母さん、どうして医者になったの」
母は大阪の街で生まれました。
そして大阪女子医学専門学校(現代は関西医科大学)
第一回卒業生でした。
  -略-
「わては夢は、英語の先生やった。
 でも女学校卒業の時、
 大阪に女のお医者の学校ができると聞いて、
 友達みんな、
 その大阪女子医専を受験するというねん。
 自分一人だけ英語の学校へ行っても面白くないから、
 仕方なしに、みんなと一緒に大阪女子医専の試験をうけた」
「びっくりした」
「その時、合格した者は、わて一人だけだった。※下記
 わて困って、お父さんに相談したら、
 これから日本は戦争して、女はみな未亡人になる。
 医者になっておいたら、一生食うのは困らん」

平川先生やいろいろな先生などは…
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大阪女子高等医学専門学校 第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数  80名(女)
【関西医科大学四十年の歩み】1968
出版者   関西医科大学
出版年月日 1968
p1【関西医科大学四十年の歩み】1968
〔画像〕p1【関西医科大学四十年の歩み】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/1
  教授會顧問
京都帝國大學教授 醫學博士
前田 鼎
  豫科教職員
倫理 豫科教務課 主務・教授
コロンビア大學卒業
平川寛三
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/31
  卒業生数表
大阪女子高等医学専門学校
第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数  80名(女)
p154【関西医科大学四十年の歩み】1968
〔画像〕p154【関西医科大学四十年の歩み】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/154
関西医科大学四十年の歩み
昭和四十三年十月十九日刊行
発行者 学校法人 関西医科大学
    大阪府守口市文園町一番地
印刷所 洋洋堂
    大阪市城東区蒲生町一ノ二五
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/172
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【醫海時報 (2026)】1933-06-24
出版者   醫海時報社
出版年月日 1933-06-24
  女醫會關西支部總會
日本女醫會關西支部總會は去る
(昭和8年)六月十八日
大阪市北區中之島田襄橋
大阪ビル八階に於て開會せられた、
(二)大阪女子高等醫學專問學校
第一回卒業生全部八十名に對する入會歡迎
 東京女醫 竹内茂代女史
 關西支部長 醫學博士 福井繁子女史
 東京より會長 吉岡彌生女史
        田川すみ子女史
        杉田つる子女史
 橘薫幹事の會務報告
大阪醫專の第一回卒業生八十名を
我が會員に迎へ得たことの喜びを報告し、
吉岡會長は登壇して
日本女醫會の創立沿革等を物語つて

此の日唯一人の男性來賓である
大阪女子醫學專門學校 醫學博士
前田鼎氏が登壇して祝辭を述べたが、

神戸の野間女醫
p20【醫海時報 (2026)】1933-06-24
〔画像〕p20【醫海時報 (2026)】1933-06-24
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[足立道五郎先生] 日本人の援朝参戦回避【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1

  日本人の援朝参戦回避
<1950年(昭和25)>
九月十五日
米・韓連合軍は仁川に上陸作戦を敢行した。

この仁川上陸作戦によって
朝鮮半島の戦況は逆転し、
三八度線を南下していた北鮮軍は、
反対に三八度線以北に敗退した。

連合軍は三八度線を奪回した勢いで、
北へ北へ進攻し鴨緑江の線に迫ってきた。

<1950年(昭和25)>
十月八日
彭徳懐の指揮する
中国人民抗美援朝志願軍の第一陣は、
鴨緑江を越えて北朝鮮へ進撃した。

これと時を同じくして、
第二後方病院の日本人工作員全員に
漢口への移動命令がでた。
詳しい理由の説明はなかった。

院長も政治委員も、
「長い間解放戦争に協力してくれて有難う。
 漢口に帰って学習したり、
 また新しい工作に頑張るように。」
といって別れを惜しんでくれた。

牡丹江で第二後方病院が編成されて以来
三年有余言葉も十分通じない上、
立場も思想意識も違う中で、
中国人民解放戦争という壮大なドラマを
共に体験してきたこの人たちと、
いざ別れるとなると、
断ち難い惜別の情が湧いてきた。

この人たちは「抗美援朝 祖国防衛」
という大義名分を負って、
自らに与えられた職務の遂行に邁進していくであろう。

漢口に戻る私たちの前途には
なにが待っているのであろうか。
それは中国共産党だけしか分からないことだった。
病院では盛大な送別会を開いてくれた。
そしてお互いの健闘を祈り合った。

私たち百数十名の日本人は、
田中民幹・足立(道五郎)先生・太田先生を中心にして
三度漢口への旅にたった。
今度はきれいな旅客列車に乗せてくれた。
私は敗戦以来はじめて旅客列車に乗った。

日本人がなぜ抗美援朝志願軍から除外されたか。
中共側からの説明はなかったが、
おおよその判断はついた。

志願軍の中に日本人兵士が従軍していることの
国際問題化をおそれたのでないか?
十分考えられることであった。

一年前中華人民共和国が成立している。
新しい中国を承認した国は
まだソ連・インド・イギリスなど
二・三ケ国にすぎないが、
中共政府は も早や過去の日陰者ではなかった。
堂々と世界に新しい国家として宣言しているのだ。
解放戦争初期に私たち日本人を残留させたころとは
状況が変っていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/157

私たちの病院のように
大勢の日本人が行動を共にしていたところでは
この命令も徹底していたが、
戦闘部隊に三人・五人と少人数で
従軍していた日本人の中には、
朝鮮の戦場で戦い負傷した人たちもいた。

この人たちは、
名前を中国名に変えており、
数年の解放戦争のなかで、
区別のつかぬほど中国人に同化していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/158
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/242
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【所信表明を見える化 1万人の関係人口】[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17

12月議会(令和7年第4回定例会)は、
12月9日(火)から12月22日(月)まで開かれました。
山﨑まさひろ 議員活動の一環として、
一般質問の一部を報告させて頂きます。
p0[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
〔画像〕p0[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17

【所信表明を見える化 1万人の関係人口】
p1[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
〔画像〕p1[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17

【100億円 獲得】
【100件 成長プロジェクト】
p2[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
〔画像〕p2[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17

【観光協会の役割】
【安全な通学路】
p3[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
〔画像〕p3 [山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17

 本年も皆さまが 健やかに過ごせますよう、
 お祈りも申上げます。

 発言内容につきましては、
 加筆修正して居ります。
(最後までお読みいただき
 有難うございました)
p4[山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
〔画像〕p4 [山﨑眞宏]議員活動誌2026.1 No.17
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[足立道五郎先生] と野村都己さんは開平にいたころ既に結婚していた【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986

【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
著者    横山甲子蔵 著
出版者   [横山甲子蔵]
出版年月日 1986.4
p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
〔画像〕p1【流転の青春:中国人民解放戦争従軍記】1986
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/1
私たちは日本人だけで院内報を作ることにした。

その中に私は忘れ得ぬ一首を見つけた。

  為傷病 口にはやすし 吹雪く夜を
      看(み)とりにいで行く 同志(とも)は尊し。

護士 野村都己さん(現足立先生夫人)の作だった。
(先日このことを足立夫人にお話したらすっかり忘れていた)
この一首に当時の私たちの心情がよく詠まれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/120

  新鄭のひととき

第二後方病院には、
技術のすぐれた先生方がおったので、
護士の学習にはこと欠かなかった。
私も護士たちの中に入って、
足立(道五郎)先生や太田先生の講義に耳を傾けた。
統計護士といえども、
医療技術の学習は欠かせない大事なものだった。
初年兵のころ、
懸命に覚えた衛生兵の知識は大半忘れていた。

新鄭で勤務替えが行われ、
太田先生が三所から一所の主治医生に、
そして足立(道五郎)先生が三所の主治医生になった。
私は、足立(道五郎)先生の下で働くことになった。

足立(道五郎)先生は、
元ハルピン第五七陸軍病院の軍医であり、
また教育隊長でもあった。

牡丹江で第二後方病院が編成された時から一緒だったが、
その下で働く機会はなかった。

先生は、そのすぐれた医師としての技術だけでなく、
温厚な人柄と、誠実な工作態度は、
ひとり日本人だけでなく
中国人同志からも
「足立大夫、足立大夫」と尊敬され、
また院長・政治委員はじめ中国側幹部から
深く信頼されていた。

足立(道五郎)先生は、
太田先生やそのほかの日本人医生とともに、
この病院を支える太い柱の一本であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/146

  結  婚
足立(道五郎)先生と護士 野村都己さんは、
開平にいたころ既に結婚していた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/156
流転の青春 横山甲子蔵著
頒 価 4,000円
「流転の青春」
 中国人民解放戦争従軍記
1986年3月30日 印刷
1986年4月15日 発行
著 者 横山甲子蔵
〒399  長野県松本市芳川小屋256-9
    TEL 0263-58-9203
印刷所 中信凸版印刷株式会社
〒390  長野県松本市城西1丁目2-2
    TEL 0263-32-4209
https://dl.ndl.go.jp/pid/12177141/1/242
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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