脇屋義治の墓(香川縣大川郡丹生村大字土居)
【日本伝説叢書. 讃岐の巻】大正8年

【日本伝説叢書. 讃岐の巻】
脇屋義治の墓(大川郡丹生村大字土居) p119-120/235
       脇屋義治の墓(香川縣) 讃岐の巻
正平二十三年七月、 ※1368年8月
上野國の戰敗れて、
新田義宗・脇屋義治の兩將は、
出羽國羽黑山に匿れてゐた。
後、伊勢國に移らんと請ふたけれども、
北畠氏、
京師に近きを以て許さなかつたので、
遂に、潜行して、
伊豫國宇摩郡下山村に匿れてゐた。

後、義宗は病を以て卒したので
土居通郷・徠能通種の義徒、
祠を立てて之を祀つた。

然るに、其後、新田の族を討索すること
 讃岐の巻】p119
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p119

甚だ急であつたので、
義治は、其子義長と、
讃岐國丹生山
(此處より、阿州へ行くに、正守【まさもり】を越して、
 浦地村【うらちむら】に行けば、民家がある。
 德島より七里の道といふ。)
の近くなる、
丹生山村の長福寺
(眞言宗、大谷の釋王寺末寺、
 本尊聖觀音、開基詳かならず。)
に匿れて、
土居氏の族と稱してゐたが、
その後土居に移り、
義長・義信・德光・義則等繼承、
子孫繁延すといふことである。

今、土居の地に、
義治の墓なるものを存してをるが、
これには、
淨琳居士脇屋之墓と認(したゝ)められてあるといふ。
銘に曰く、
 六孫王之裔系自新田高岸頽矣舊蹟廢焉以以以續續爾之先
 於今爲庶追孝是處維此塋
 兮不崩不騫
      藤原廣野誌
と。

傳へていふ。
天文十六年、 ※1547年
細川晴元反せし時、
安富氏、義治の孫德光に書を贈つて、
此度の戰は、わが主無道である。
されば、戰は、必ず勝つべからずと思はれる。
しかれども われは臣、
とかく節義を失ひ難い。
我子右馬丸なほ幼少でござるが、
願はくは、此子を養育下されて、
人となしたまはれとて、
田五十石を能へて、その子を託し、
然して軍に赴いたといふことであるが、
此書なほ其家に藏すといふことである。
           (「脇屋家傳」)
 ―略―
 讃岐の巻】p120
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p120

顧問 文學博士 森 林太郎先生
顧問 文學博士 喜田 貞吉先生

日本傳説叢書 讃岐の巻
大正八年五月廿八日印刷
大正八年六月 一日發行
編著者 藤澤衛彦
非賣品 不許複製
發行者 日本傳説叢書刊行會
    東京市神田區錦町一丁目十九番地
代表者 森 淸太郎
    東京市神田區錦町一丁目十九番地
印刷者 中田福三郎
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 秀英舎
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
發行所 東京市神田區錦町一丁目
    日本傳説叢書刊行會
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 讃岐の巻】p233
〔画像〕【日本伝説叢書. 讃岐の巻】p233
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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