脇屋義助の墓【楠公研究の栞】昭和13年
【楠公研究の栞】
愛媛縣(伊豫國)越智郡櫻井町大字國分字谷ノ口の丘上
(櫻井駅の北十町)にある。
碑の高さ五尺餘で正面には
「脇屋刑部卿源義助公神廟」の文字を刻し
側面には寛文九年に再建せる旨を記してある。
卿は新田義貞の弟、通稱源次郎、
元弘の初めに兄と共に南朝方に參し
爾来終始義貞軍の有力なる部隊長として各地に轉戰した。
卽ち北条高塒を鎌倉に滅し、
また延元元年足利高氏兄弟を討って西國に走らしめ、
次で播磨、備後の平定に從ひ福山城に據つたが、
後兵庫に於ける戰に利あらず遂に春ノ宮を奉じて北國に下つたが、
藤島に於て義貞の戰死するやその跡を嗣いで將軍となり
吉野行宮に謁し後勅を受けて
暦應三年四月三日四國に向け吉野を發し
紀伊田邊に至り之より船にて淡路國武島、
備前小豆島を經て四月廿三日今張浦(今治)に上陸し國府に入る。
之により地方の官軍大に振つたが五月四日病を發し
臥床僅かに七日にして病歿せらる。
明治十六年八月從三位を贈らる。
史徴墨寳考證は ※下記
「義助伊豫に死せしこと
太平記の記載甚だ鹵莾にして
別に考ふべき證なし」
と記するも、
これは太平記否認時代の一錯誤であつて、
今日に於ては當然訂正せらるべきものと思ふ。
また今日流布の書多くは公の病歿を五月五日と記す。
然し乍ら太平記西源院本に ※下記
自同四日宮方ノ大將軍ニテ國府ニ坐セラレタル
脇屋刑部卿義助俄ニ病ヲ受テ、
心身惱亂シ給ケルカ打臥事纔
日ヲ過テ終ニハカナク成ニケリ
とあれば薨去の日は五月十日を採るべきものと認む。
不許複製
昭和十三年五月三十日印刷 定價貮拾錢
昭和十三年六月 一日發行 郵税 參錢
編輯者 軍事史學會
發行者 軍事史學會
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電話 高輪 五三六一番
振替 東京八八三五二番
印刷人 北川武之輔
東京市京橋區銀座四丁目四番地
印刷所 株式會社 細川活版所
東京市京橋區銀座四丁目四番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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史徴墨宝
[内閣修史局編]
[大成館], 1887-1889.12
[第1編上巻][第1編下巻][第1編]考證上巻[第1編]考證下巻
[第2編本編]考證1巻[第2編本編]考證2巻
[第2編本編]考證3巻第2編考證 1巻第2編考證 2巻第2編考證 3巻
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国立国会図書館サーチ
太平記 : 西源院本
鷲尾, 順敬, 1868-1941,鷲尾順敬 校訂
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