[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
 20140320()
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[表紙]要旨・キーワード・目次

 p00-28-要旨・キーワード・目次

一 はじめに

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小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ①
   別府祐弘
 要旨:
福沢諭吉と小野梓共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に
彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているのである。

そして文明開化の大日本帝国の未来を
その旗手であった中村正直は、
両「志立」大学・「日本のオックスブリッジ」に託し、
「小野梓君碑と大久保麑山(げいざん)先生紀念碑」の撰文をして、
直後の明治24年にその生涯を終えた。

キーワード:中村正直、大久保麑山、小野梓、
      福沢諭吉、大隈重信、水島銕也、
      早稲田大学、慶應義塾大学、神戸大学、扇城学園

 <目 次>
1  はじめに
2 [中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)]
  [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)]
  [慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学]
3 [中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑と扇城学園]
4  むすび


 1 はじめに
 《成蹊と私》
 「…中津の町はまた、福澤諭吉生育の地として、
 中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
 しかし同じ公園の中に、
 私の曽祖父の
 『大久保麑山先生紀念碑』も建立されていることを知る人は、
 今日ほとんどありません。
 そこには次のような碑文が刻まれているのです。

 大事に堪へるには   欲任大事
 篤実でなければならぬ 須是篤実
 たとえば基礎が堅固で 譬之基固
 家が築けるようなもの 方可築室
 君は実行を重んじ   君重躬行
 かくて弟子を教えた  以誨弟子
 学風を後に伝えて   風軌伝後
 きわまることはない  罔有窮己
 明治二十一年四月二十日
 元老院議官従四位 中村正直撰 注記①

 元老院議官従四位 中村正直撰 

 [近代日本人の肖像]
 中村正直 (18321891)
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html?cat=18
 この碑文の現代語訳は、
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社、
昭和53年、18頁より。(資料①参照)

  [大久保麑山先生紀念碑]

  [大久保麑山先生紀念碑]
[別府祐弘稿]
履歴と業績」 p50
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

 〔独立自尊の碑〕

 [福澤諭吉旧居・福澤記念館]
〔独立自尊の碑〕
http://www2.ocn.ne.jp/~fukuzawa/yukari.html


文人風をきらって実学を尊重した
藩学・麑山のこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも
色濃く受け継がれていると土地の古老は申します。

そしてこの碑文を撰した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、
成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。

この碑文こそが、その後
実学としての経営学を
私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、
成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。

その間、経済学部経営学科、
大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」
[別府祐弘稿]
成蹊と私
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、200210月、3-7 頁。
早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
成蹊大学名誉教授称号授与一覧
 称号記番号106 別府祐弘 Beppu, Yuko 経済学部 200241

《早稲田と私》
早稲田大学殿
拝啓
創立125周年、第二の建学に当たる真にお目出度きこの年に
定年退職するに当たりまして、
(昭和44年以来実に半世紀に亘る)
職務 (政治経済学部・商学部・社会科学部の
    経営学、財務管理論、組織論と演習)を
最後まで全うさせて頂きましたことに、
私としましては特に次の二つの理由から
深い感慨を覚えております。

(1)大隈重信侯と祖父・別府又十郎
  (大庄屋、吉富銀行頭取、県議会議員)が
   親交のあった由にて、
   老侯より賜りました親書が家宝として、
   別府家に大切に受け継がれておりますこと。 注記②

 大隈重信侯と祖父・別府又十郎

 [別府祐弘稿]
「履歴と業績」 p48
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

(2)伯父の後藤環爾 注記③
  (「図録・小野梓」15ページ参照、武蔵野大学創立者)が、
   早稲田大学創立者小野梓先生の
   菩提寺・清宝寺(宿毛)の住職であったこと。
   この度は、来る3月28日に
   定年退職教員慰労親睦会にお招き頂きまして
   真に有り難うございます。
   喜んで出席させていただきます。

追記:中津・奥平藩の藩学であった
   曽祖父・大久保麑山の紀念碑が中津公園にございますが、
   これと小野梓先生の墓碑に碑文(資料③参照)を刻んでくださった
   中村正直の記念文庫のある成蹊大学に
   65歳定年まで奉職させて頂きました後、
   現在はお陰さまで元気に、
   帝京大学に勤務いたしております。

宿毛訪問中、奥島前総長はじめ先生方とご一緒に
3月10日の清宝寺における
小野梓先生122回忌法要及び
お墓にお参りさせて頂きましたこと、
小野梓公園での
小松製作所創業者竹内明太郎翁(理工学部創設に功労のあった方)の
胸像除幕式に参列させていただきましたことは光栄の極みであり、
生涯の思い出とさせていただきます。
末筆になりましたが、
先生方のご健勝とより一層のご活躍をお祈り申し上げます。
敬具
2007年3月17日」

注記
①[中村正直](なかむら まさなお)
  洋学者・教育家。文博。号は敬宇。
  東京の人。佐藤一斎に学び、慶応二年渡英。
  明六社を組織し、新文化の興隆に努力。
  学士院会員・東大教授。
  初代お茶の水女子大校長。貴族院議員。
  「西国立志編」「自由の理」などの訳著がある。(18321891
  『広辞苑』より。
②「福岡は進歩党に合流いたしました玄洋社系勢力を除いては、
  大隈系政党(改進党―進歩党―憲政本党)の
  地盤の弱い地域でございまして、
  大隈の福岡における地盤開拓の努力を物語る、
  興味深い書簡でございます。
  本書簡につきまして、更にご教示いただける点がございましたら、
  たいへんありがたく存じます」…
  (早稲田大学大学史資料センター担当研究調査員木下恵太氏よりの
   2003年1月29日付書簡)

  大隈重信侯が、
  大久保麑山の長女・別府セツ・又十郎宅に逗留されたとも
  言い伝えられているが、
  10人の子全員が既にこの世の人でなくなった今、
  確かめる術もない。
  拙稿「成蹊と私」も参照されたい。

③《後藤環爾》(筆者の伯父で西本願寺総長・清宝寺住職)
『宿毛市立 宿毛歴史館』[宿毛人物史]より
教育事業界の英傑
東京千代田高等女学校と云えば都内でも有名な名門校で、
戦前にはその淑徳温雅な校風を慕って入学希望者が多い
まことに狭き門の学校であった。
しかし環爾が西本願寺東京事務所に職を奉じた明治38年頃は、
白蓮教会と云う築地本願寺の配下に当る一教会の営む、
ささやかな私塾的存在で、
その名も女子文芸学舎と云う生徒数も、
わずか50人前後のまことに貧弱な存在であった、
しかも事情により廃校寸前の状態にあった。
人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの考えを抱いている環爾は、
直ちにこの問題に取り組んだ。
殊に当時の我が国の女子教育は、
男子の教育に比して著るしく遅れており、
極めて不振の状態であることに強い関心を持っていた彼は、
この女子文芸学舎の廃止には絶対反対であるだけでなく、
これの発展策を図った。
そうして関係当局者の意見を強引にまとめ、
ついに白蓮教会と文芸学舎の全部を築地本願寺の直轄とし、
教会の堂宇は全部、築地本願寺境内に移転し、
その跡地を敷地として巨大な新校舎を建設した。
そうして名も女子文芸学校と改めて、
定員も300人に改め
女子教育界に新スタートを切ったのである。
その後大正年間になり更に千代田高等女学校と改称、
新たに千代田女子専門学校も併設して
生徒数、数千に及ぶ大校にまで発展した。
その間、環爾の学校に対する熱意は益々強く燃え
理事として直接、学校運営に貢献している。

次は武藏野女子学園(現在の武蔵野大学)の創設である。
大正12年9月1日の関東大震災により、
日本赤十字は難民救済の為
いち早く築地本願寺近くの焼跡に震災救護院を開設した。
しかもその建物は、半永久的な当時としては極めて立派なもので
9月14日に起工し、建築費数十万円を以て突貫工事を行なった。
数十万と云えば現在の数億円に相当するので、
応急建築とは云え近隣を圧する立派なものであった。
所が翌13年3月、
赤十字は計画変更でこの救護院を撤収することに決定した。
機を見るに敏な彼のことである。
俄然、彼の活動が開始された。
彼はこの建物を全部払い下げてもらって、
新らしい女子教育の殿堂とする大構想を描いたのである。
そうして例の通りの周到な計画と、
粘り強い交渉によりついに赤十字を動かして、
払い受けに成功して武蔵野女子学園の創立に成功したのである。

追悼録には、彼は仕事をつくり出す人だと述べている人があるが、
全くこの武蔵野女子学園の創設はその通りだと考える。
又彼は政治家肌で、交渉や談判が極めて巧みで、
政治的手腕に卓越していたとも述べている。
然しながら千代田高等女学校と云い、
又この武蔵野女子学園といい、
彼に教育に対する愛情と熱意が無かったら、
この2大事業も恐らく計画さえもされずに終った事だと考える。
その他彼がその生涯に関係した教育関係の公職の一部を挙げると次の通りで、
如何に彼が教育熱心であったかがわかる。
京都女子専門学校
(現在の京都女子大学)          理事長。
千代田女子専門学校
(現在の武蔵野大学・武蔵野女子学院に合併) 理事。
大分県扇城高等女学校
(現在の東九州短期大学・東九州龍谷高校)  理事。
龍谷大学                  理事。
東京市京橋区盲人技術学校        校長 等。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p015.html


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
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20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
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※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

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20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
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『改訂版』<別府又十郎 妻:セツ 10人の子>
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