[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
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 小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ②
   別府祐弘
 2 中村正直撰・小野梓君碑(宿毛・明治20年)と
  中村正直撰・大久保麑山先生紀念碑(中津・明治21年)―
  慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学(一橋大学専門部)

 小野 梓

 [早稲田の建学者たち]
 小野 梓 (1852-1886

後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山(げいざん)について、  注記④
富士正晴著『大河内傅次郎』中央公論社から、
若干引用して紹介しておきたい。

「先生の始祖は諱は重敬、大久保右京亮教隆の孫で、
 小田原藩主加賀守忠朝の甥であるが、
 江戸で奥平家に仕え、食禄六百石。
 〔有名な大久保彦左衛門忠教の長兄が忠世といい、
 その孫が大久保右京亮教隆で、
 その子の忠朝が伯父忠常の養子となった。
 それが小田原藩主加賀守忠朝で、
 忠朝の兄の子が重敬であり、
 その重敬が奥平家に仕えて、
 大久保麑山の始祖となるわけである。
 重敬が奥平家(中津藩)に仕えるようになったのは
 大久保彦左衛門の口ききなどの伝説もあるらしいが、
 叔父加賀守忠朝の口ききだったのだろう。
 口ききする者がいいから、食禄もよく、
 奥平家において客分待遇であったと、
 子孫は言い伝えている。〕
 …君は…
 幼いころからかしこく学問好きで、
 母方の伯父野本真城     注記⑤
〔同藩の儒者であろう〕について学んだ。
 はやくから忠孝の大節を全とうすることを志し、
 武芸では剣・槍・鉄砲・騎馬、学ばぬものはなかった。
 …維新で藩校の文学助教となり、新たに家塾を設けた。
 四方から来塾する者、前後数千余人だった。」 (14-16頁)

 大久保麑山紀念碑

(資料①)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p57
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12
  正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた
福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。
『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた
白石照山のみが福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、      注記⑥
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていたのだから、 注記⑦
下記の講座概要を
「…最大の師とも言うべき野本真城と甥で
 師範代の大久保麑山に触れていない」とすれば、
 より正確になるのではないだろうか。

「平山洋講師(静岡県立大学助教):『福翁自伝』を読む
 諭吉には隠し事が多すぎる!
 早稲田大学〈エクステンションセンター八丁堀校〉
 講座コード:8204122008年、
 講座概要:
●自分で言っているからといって、それが真実と考えるのは早計で、
 自分の過去について隠したい事は、
 山ほどもある、というのが人間というものです。
 福澤諭吉についてもそれは言えて、
 彼は自伝で意図的な嘘を吐かないように心がけてはいたものの、
 最新の調査によって、ずいぶん黙っていたことが多かった、
 ということが分かりました。
 本講義では、『福翁自伝』を読みつつ、
 実は…、という具合にその裏の事情を明かします。
●第1回 中津にて:
 中津藩大阪蔵屋敷で生まれた諭吉は、
 三歳から二十歳まで過ごした豊前中津での就学について、
 最大の師というべき野本真城に触れていない。
 その理由は…。」
 講義内容については平山洋著
 『福沢諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』
 ミネルヴァ書房に譲っておこう。

 [福澤諭吉]

[福澤諭吉]
明治20年(1887)頃の肖像

「佐藤能丸 早稲田大学教授:
 『早稲田の校風』:2009年10月18日、
 早稲田大学第44回ホームカミングデー、ミニ講義の概要
●創立125周年の早稲田と創立150周年の慶応
●日本の私学の雄としての早慶の関係は
 双方の創立者の大隈重信と福澤諭吉との極めて緊密な交流から始まる
●福澤の慶応門下を大隈の配下に
●早稲田の「学問の独立」と慶応の「独立自尊」「一身独立」
●明治14年(1881)の政変と大隈・福澤提携陰謀説
●明治15年(1882)東京専門学校(早稲田大学)の創立」

 [若き日の大隈重信]
福澤諭吉(中津)と大隈重信(佐賀)は共に九州北部の出身で、
生い立ち教育の基盤と考え方が近かった為に肝胆相照らす間柄であった。
明治14年薩長藩閥政府と対立して大隈が野に下ると、
翌明治15年に創立された東京専門学校は
明治政府から“謀反人”の学校として警戒され弾圧されることになる。
西郷が征韓論に敗れて下野し、
薩摩各地の学校が西郷隆盛反乱軍の拠点になった
西南戦争から未だ日の浅いため、
東京の早稲田大学を拠点とした大隈クーデターを
時の明治政府は極度に警戒したのである。
大隈は福沢の出席した創立祝賀会にも出られないし、
その後10年くらいは早稲田のキャンパスに
一歩も足を踏み入れることができないような有様であった。
懐刀の小野梓なかりせば今日の早稲田大学はなかったのである。
そこで苦境の大隈・小野を有能な慶応義塾門下生を送り込んで
全面支援したのが福澤であった。
まず慶応義塾大阪分校長・徳島分校長を歴任した
高弟・矢野文雄を大隈のブレインとし、
早稲田大学創立者・小野梓が33歳の若さで夭折したため
初代学長・第3代総長を務めて
早稲田の育ての親と称される高田早苗、
早稲田大学教旨を起草した前島密(日本郵便の父)などがそれである。

したがって私には早慶両校の校風は
その根底の理念において繋がっているように思われるのである。

[2007年10月21日
早稲田大学創立125周年記念式典 祝辞]
 慶應義塾長 安西 祐一郎
早稲田大学創立125周年記念式典 安西塾長祝辞
“このたび早稲田大学が創立125周年を迎えられ、
本日ここに盛大に記念式典が開催されますことを、
心からお祝い申し上げます。
とりわけ、白井克彦総長をはじめ早稲田大学関係者すべての皆様に、
心よりお慶びを申し上げますとともに、
125年の誇るべき伝統と実績を築いてこられたことに、
深い敬意を表する次第であります。
 ―略―
125年前、早稲田大学の開校式において、
建学を担った小野梓先生は次のように説かれています。
「一国の独立は国民の独立に基ひし、国民の独立は其精神の独立に根ざす。
 而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、
 其国を独立せしめんと欲せば、必らず先ず其民を独立せしめざるを得ず。」

ここに、私学としての早稲田大学の精神が凝縮されています。
その精神と誇りは、現在に至るまで決して絶えることなく受け継がれ、
尊敬されているものであります。

慶應義塾にも、創立者福澤諭吉が遺した
「一身独立して一国独立す」という思想が脈々と波打っていますが、
早稲田大学と慶應義塾は、「日本のオックスブリッジ」とも称されるように、
良き友、良きライバルであり続けてきました。

それは、両校の創立者大隈重信先生と福澤諭吉の、
明治の初め、1870年頃からの親しい関係に始まるものであります。
大隈先生のもとで多数の慶應出身者が積極的に活動いたしましたし、
早稲田大学開校式には福澤が出席したと言われています。
1907年の慶應義塾創立50年記念式典で励ましの祝辞を述べられたのも、
大隈先生でありました。
学問における切磋琢磨のみならず、
卒業生同士の交流、早慶戦をはじめとする学生間の交流もまた、
長年にわたる両校の絆を象徴するものであります。
 ―略―
http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/now_and_future/speech/2007/kr7a43000

 平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

平成25年(2013)5月17日 朝日新聞夕刊

ベストセラー『西国立志篇』などを公刊した文明開化の旗手として、
また東大教授・初代東京女子師範(現在のお茶の水女子大)校長として
日本を代表する当代屈指の知識人であった
東京人・中村正直がその人生の最晩年に、
何故に遠隔地の
宿毛(小野梓・明治20年)と             (資料②参照)
中津(大久保麑山・明治21年)の碑に顕彰銘を刻んで (資料①参照)
直後の明治24年に旅立って行かれたのであろうか?
それは少なくとも、
小野と大久保の両者が中村と基本的な考え方を同じくし、
理想を共有する同志との思いがあったからであろう。
事実中村は、若き日の麑山とは幕府学問所で一緒であったし、 注記⑧
福澤とは明六社同人、                    注記⑨
小野梓とは斯文学会同人であった。              注記⑩
そして福澤諭吉の慶応と小野梓の早稲田という
自主独立の「志立」大学の創設と発展に            注記⑪
日本国の文明開化の未来を託して
この世を去っていかれたのではなかったのか?

そして模範国民の造就・良民
(大事にたえるには篤実でなければならぬ)・
学問の独立・独立自尊・一身独立
(基礎が堅固で家が築けるようなもの)・
実学尊重・学問の活用
(実行を重んじかくて弟子を教えた)なる
両校の建学の精神の原点を大久保に見出して、
大久保麑山の学風をそのようなものとして
顕彰碑文に刻んだものと思われる。 

 小野梓君碑

(資料②)
[別府祐弘稿]
[履歴と業績] p56
 帝京経済学研究 44(1), 31-44, 2010-12

【敬宇文集
. 巻6】明治36年4月30日発行
 著者 故 中村敬宇(中村正直)
[小野梓君墓銘] p4-5/66
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/893604/4
 【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と説く
水島銕也も、 注記⑫
大久保麑山の門下生で
中津藩士、水島六兵衛(均)の長男である。
野本真城(師範代・麑山)門下の福澤諭吉が関係し、
しかも、第一次・第二次長州征伐に大久保麑山隊長のもとで
武勲を挙げ藩費で福澤の慶應義塾門下生になれた
中津藩士・甲斐織衛が支配人(校長)を勤める
開校間もない神戸商業講習所に入り、
大久保麑山の学風を源流とする実学を学んだ。
その学風はその後彼の歩んだキヤリアーに色濃く反映されている。
明治14年 3月(18歳)神戸商業講習所に入学する。
明治17年 6月(21歳)中津開運社の給費生に選ばれる。
明治17年 9月(21歳)東京外国語学校付属高等商業学校に入学。
明治20年 3月(24歳)東京商業学校(高等商業学校)を卒業する。
明治20年 4月(24歳)東京高商(現在の一橋大学)教員を嘱託さる。
明治21年 4月(25歳)大阪府立商業学校校長心得となる。
明治22年10月(26歳)大阪藤田組に入社する。
明治24年 6月(28歳)横浜正金銀行に入り、横浜本店に勤務する。
明治26年 6月(30歳)横浜正金銀行ニューヨーク出張所詰となる。
明治29年 9月(33歳)東京高商(現在の一橋大学)教授となる。
明治32年 9月(36歳)東京高商附属商業教員養成所初代主任となる。
明治36年 9月(40歳)神戸高商(現在の神戸大学)を開設する。
そして初代の校長となり、
東京高等商業学校 (現・一橋大学)
学理を中心にした教育を行ったのに対して、
実践を重視して実務中心の商業学校卒業生に門戸を開放。
同時に国際商業人育成を掲げて
大正14年までの22年にわたって校長を務めた。

「近代経済界に新しい息吹→商業教育の基礎を築いた」
、 注記⑬
中津が生んだ実業教育のこの大先覚者を顕彰して
「水島公園」が造られている。

 〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕

 [神戸大学大学院経営学研究科]
[神戸大学経営学部]
〔水島銕也先生胸像・神戸大学六甲台キャンパス内〕
http://www.b.kobe-u.ac.jp/info/news/2012/03/199.html

 

学風を後に伝えてきわまることはない」と中村正直が撰文した
『大久保麑山先生紀念碑』は、
扇城(中津・奥平城)の本丸にある
奥平神社本殿の参道に面して建設されている
本丸上壇唯一の紀念碑である。
(独立自尊碑は最初は三の丁、現在は二之丁)

[中津城内広場]
※『大久保麑山先生紀念碑』:左端

『大久保麑山先生紀念碑』:左端

http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/nakatujyoukara.html
http://panorama.photo-web.cc/tiiki/nakatu/siro3.html


明治維新を挟んだ近代日本の黎明期に、
彼が奥平藩や中津の人々にとって如何に愛され
尊敬を集めた重要人物であったかを示す何よりの証左であろう。
そしてその学風は、
慶応義塾大学、早稲田大学、神戸大学(一橋大学専門部)の
建学の精神の中に生かされ、
現在に伝えられているのである。

注記

④ 《大久保麑山》p386-387
大久保麑山諱は教之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり。
麑山は其の號、中津侯の世臣なり。
考諱は教連(のりつら)、
文政八年(1825)十二月十一日を以て生る、
麑山幼より慧敏、學を好み業を其の叔父野本白厳(真城)に
宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以て名あり、又剣馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月考教連歿し麑山匇々國に帰る。
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ。
中津藩亦徴に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、
又進修館助教と為る。
廢藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中學校教授と為る。
翌年文部省より特別功労者として
六国史及び硯石を賜與せらる。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り豐碑を公園に建つ。
その撰文は中村正直なり。
麑山、人と為り温厚篤實、親に事(つか)へて至孝なり。
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ。
其の子弟に接するや、常に温顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く。
子弟深く麑山の學徳に服せり。
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、
長男恂は早死し、
次男慎次家を繼ぎ新聞業を営めり。
【豊前人物志】著作兼発行者 山崎有信
 旭川市六条通8丁目左10号
 昭和14年3月25日発行
 ⑤ 原文では、母方のおじの野本伯美(本名)になっている。
 ⑥ Sent Wednesday, April 22, 2009 9:25AM
  Subjrct: お答えします(平山洋)
  Re 質問「福澤諭吉の兄の先生は、大久保蔵之助と思います。
      …大久保蔵之助は大久保麑山と思います。」
 ⑦ 土地の古老(故別府満寿人氏)よりの伝聞。
 ⑧ 日本教育史資料、第7冊。
 ⑨ 戸沢行夫著『明六社の人びと』築地書館、1991年。
 ⑩ 【斯文六十年史】昭和4年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177169/122
 ⑪ 佐藤能丸教授の造語である。
 ⑫ 水島『学の人脈』神戸新聞 昭和52122328
 ⑬ 水島銕也 略年譜
http://fukuda.lib.hit-u.ac.jp/activity/workshop/PDF/20100614uemura.pdf

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
20160325
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2131771.html


※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄

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20160325
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html