[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]④/④
2014年03月20日(木)
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小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑 ④
別府祐弘
4 むすび
早稲田大学創立者小野梓も熱烈なる仏教徒で
早稲田仏教青年会の創設者としても有名である。
彼の葬儀・法要の営まれた築地本願寺と早稲田大学とのご縁は
今日でも引き継がれているし、
慶応義塾大学創立者の福澤諭吉の最終講義も
「(親鸞聖人の)御文章について」であったと伝えられている。
菩提寺は共に西本願寺末寺の
清宝寺(宿毛)と明蓮寺(中津)・善福寺(東京麻布)である。
人格は宗教と教育によってこそ
完成するものだとの信念を抱いていた
後藤環爾の考えに従えば、
早稲田大学と慶応大学の両創立者は共に敬虔な仏教徒であり、
然も同じ西本願寺の浄土真宗によって
人格形成された人々であったことになる。
つまり倫理と人格形成の基盤が同一なのである。
また両者共通の同志・中村正直によれば、
両校の建学の精神の源流は、
「大久保麑山先生紀念碑」に彼が撰した顕彰碑文にあることになる。
つまり早慶両校の校風はその根底の理念において繋がっているのである。
創立115周年の扇城学園においてをや。
注記
⑭
広瀬淡窓⇒恒遠醒窓(別府直夫の紹介で入門した)
⇒小笠原藩藩校明親館藩学(醒窓次男の恒遠精斎)と繋がっており、
名字帯刀を許されていた家の子弟は藩校で学んだから、
淡窓の直弟子・別府直夫(一九郎)の
長男又十郎と次男梅高秀山は
広瀬淡窓の曾孫弟子ということにもなる。
しかし両人は近くの恒遠醒窓の私塾でも学んでいるから
孫弟子ともいえる。
秀山は1年だけ日田で学んでいるので、直弟子かもしれない。
このような形で扇城学園創立者の血の中に
淡窓のDNAが入っていたものと思われる。
また藩学恒遠精斎の弟子でその私塾の師範代
鬼木柳緑が家庭教師として
別府家の六男で私の父祐六(当時9歳)の手をとって
三毛門公園の左右の門石柱の碑文
「遺徳照千秋・別府祐六謹書」
「芳名轟萬古・明治三十六年十一月吉旦建」を書かせ、
刻んで下さったわけである。
[別府祐弘稿]
「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1号、2002年10月、6頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
そしてこの亡父の遺碑に込められた
別府家のDNAを確っかりと受継いでいかなければと
私は心に決めている。
⑮ 別府又十郎君 築上郡三毛門村
君は淡懷宏量なる老紳士、家世々大庄屋を勤め、
郡内有数の門閥家を以て推され、
鄕黨の歸嚮崇敬するところとなる久し矣。
君卓識を以て夙に其の名を知られ、
毎に郡村を代表して縣會議員外諸多の公職に服し、
論理正々、態度公明、熱心地方の發展に力め頗る令聞あり。
又政界の重鎭として同志の糾合、
黨勢の振張に與り貢獻するところ尠からず。
往年同志と共に株式會社吉富銀行を創設して財界に資し、
實弟故梅高秀山師、外二三特志家と
中津町に佛教主義の扇城女學校を設立し、
女子教育の鼓吹に力むる等、
時代の趨勢に伴ふ社界事業に力を臻し、
地方先覺者を以て許さる。
近年職に三毛門村名譽村長に從ひ、
鋭意自治の進展に努力するところありしが、
齡漸く老境に進みて昨年退職し、
爾來閑雲野鶴を侶とし專ら老を養ふ。
君特に意を子女の教育に用ひ孰づれも能く成功し、
目下長男敏治氏は
(創立募金に375円を寄付した)早稲田を出て
門司貯蓄銀行(吉富銀行の後身)を主宰し。
『明治33年7月の第五高等学校卒業記念写真』
(第2列右から8人目が夏目漱石、
この年9月に英国に向けて出発した。
4列左から二人目の左腕で書類を抱えているのが、
別府三穂三郎) p54
[明治大正図誌 第15巻 九州]
(イギリス留学へ渡航直前の
夏目漱石先生と一緒に五高卒業写真を撮った)
次男三穂三郎氏は
夙に赤門を出でゝ法學士となり
(共著【日英同盟】)、
門司興業株式會社の重役に在職し。
(篤姫の従妹の娘遠山常子と結婚)
三男醇氏は學を慶應義塾に修めて、馬關の名門伊藤家を嗣ぎ。
(坂本龍馬が暗殺されたとき、
夫人は龍馬定宿の伊藤家で龍馬の帰りを待っていた)
四男賢吉氏は東京法科大學出身の法學士たり。
(旭川信用金庫創立者、弁護士)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780215/128
【豊前二市四郡人名辞書】明治43年12月25日発行 p128/166
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
毳門生「感化講習会雑感」『扇城の友』7-8頁、
明治42年(別府又十郎の上京レポート)。
筆者の父祐六は、六男で京都帝国大学法学部出身の弁護士
(東京弁護士会所属)であった。
但し、長男の十九郎が18才で没したので、
上記に従えば、五男で末子ということになる。
「同窓生対談―第1回生後藤要子・第4回生梅高蓮子」
『扇城の友』70周年記念号、30-40 頁、
1970年で代表される4人の叔母達と母・別府ヨシ子は、
全員が扇城女学校卒であった。
なお四女ウラは大谷光瑞探検隊長・渡辺哲信氏夫人である。
扇城女学校創立の当面の目的は
別府家の子女の教育であったのかもしれない。
[資料③ 福沢諭吉 白石照山 大久保麑山 小野梓]
【大分県六大偉人綜合年譜】
小野梓と中津の関係を探る手がかり?
兄弟の一人が中津で亡くなっている
明治16年10月3日 白石照山歿 六九(福澤諭吉 50才) p64/73
明治18年8月18日 大久保麑山歿 六〇(福澤諭吉 52才) p64/73
明治19年1月11日 小野梓歿 三三(福澤諭吉 53才) p64/73
【大分県六大偉人綜合年譜】昭和3年11月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187799/64
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑
平成26年(2014)5月7日
〒180-0001
東京都武蔵野市吉祥寺北町5-1-27
電 話 0422-54-8800
FAX 0422-54-6200
別府祐弘
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2128135.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]②/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2129709.html
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]③/④
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2130918.html
※第1回校正:平成26年3月29日 小野一雄
※第2回校正:平成26年3月31日 小野一雄
※第3回校正:平成26年5月 7日 小野一雄
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
論稿:別府祐弘[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2127340.html