運命の爆撃(奉天)3/4
昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

風でガラス窓は破れ飛び、
煤煙に汚れて見るかげもなかつた。

本社は幸い直撃弾は受けなかつたが
前庭には数発の爆弾が落ちて、
その光景は目を覆うばかりであつた。

私は部隊長と中村監督官に挨拶をし、営業課へ急いだ。
室には誰も居らずガランとして居り、
爆風のために机や椅子は散乱してガラスの破片は室一杯である。

部長室に多田経理部長が一人沈痛な面持でいた。
私が入つて只今部隊から帰つた旨を言うと
部長は気遣わしげに
「君の社宅がひどくやられた。家族の安否も不明だが課員をやつた。
すぐに帰ってみてくれ」といつた。

私は部長と別れて自分の室に入り、
キヤビネツトから作業服を出して身仕度をし
裏門から社宅に急いだ。

機体工場の建物は直撃弾で無惨に壊われ
アングルはアメの如くに曲り、未だ燃え続けておった。

突然工場の横から郷里出身の守衛長の奥山君がかけて来て
「課長、奥様も子供さんも大丈夫です‼」
と言われた時はさすがにホット安堵の胸をなで下した。

裏門から社宅に行く道路へ出ると、
小さい沼のような爆弾の穴が無数に出来ている。
整備工場入
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口の守衛所は影も形もなく直撃弾にやられ、
尊い三人の生命が奪われた。

社宅入口の道路には爆風にやられた
満人が顔を半分地面に埋めて血を吐いて死んでいた。

こんな悲惨な有様を見せつけられ乍ら、
極度のあわれさという様な気持を感じなかうたのも
戦争と言う悪魔のなせる
心理作用とでもいうものであつたのかもしれない。

東社宅は二百戸位あつたが、
数十発の爆弾で全戸被害を受け、
特に痛ましいのは、二上課長宅であつた。
二上課長の娘さんは花園分区に勤務しており、
空襲警報お同時に自宅に一人留守居のお母さんを
気遣つて急ぎ帰宅され、
二人で家の前の防空壕に退避したが
不幸にも直撃弾に見舞われ、
一片の肉塊すらも姿を残さず
二人の生命は一瞬にして消えたのであつた。

東社宅は二上さん母子を加えて三名の犠牲者が出た。
私の家も隣家の鈴木守衛宅の後に爆弾が落ちたため
メチヤメチヤに破壊された。
課員の手伝いで一室だけ応急修理をしたが、
如何んせん零下二十度以上の寒さのため、
とても住むことは出来ず
妻子は隣家の斎藤操君宅に移り住むことにした。

社宅は水道も暖房もない、電燈もない。
全く混乱の極に達したので、
翌十二月九日には、
知人友人を頼り花園社宅や西社宅に引越しが始まつた。

私も何時までも斎藤君宅に厄介になることも出来ないので、
十二月十日花園住宅に居る
大橋佐太郎君宅に移ることに決めて
壊れた社宅から畳や襖等を運び、
田舎芝居の舞台装置を作るような乏し
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さとあわただしさで
彼の家の一間を改造し、夕方荷物と共に移つた。
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p6-7[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p6-7[追憶の曠野]小西達四郎

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