運命の爆撃(奉天)4/4
昭和19年12月23日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年
さとあわただしさで
彼の家の一間を改造し、夕方荷物と共に移つた。
この爆撃で会社は遂に生産も一時ストツプの状態となつた。
犠牲者の処置、不発弾の発掘、爆撃跡の整理等
全く会社は混雑を極めた。
然し、部隊から作業班の応援もあり旬日ならずして、
ともかくもやつと片づいたのであるが、
またもや十二月二十三日、
「B二十九」の爆撃に遭遇した。
私たちは空襲警報が鳴るや、
直に東陵方面に退避すべく
女子職員を先頭に走つて会社の西門を出た。
この時部隊作業班の兵隊がトラツクで通りかかつた。
「頼みます‼」と言つて乗せては貰つたが
車は東陵の方には行かず新市街に走つた。
私は「東陵方面が安全ではないか」と言つた。
一人の将校が「機銃掃射が危ない、新市街が安全だ」
と車を急がせる。
丁度千代田公園の近くまで来た時、
頭上にあの心憎いまで落着いた
「B二十九」の偉容が姿を現わした。
私達と兵隊は車を急停車し
公園側の防空壕に転げるように飛びこんだ。
耳と目を両手で覆つた丈で、
掩蓋の無い壕の退避は心細かつた。
高射砲は鳴り響き、
爆弾の落下する
あのもの凄いザーツ、ザーツという音と
同時にズシンと地響の音、
全く生きた心地もない。
―8-
地上から火を噴く高射砲、
空中から炸裂する爆弾の下に
私たちは数十分じつとして居たのだが、
恐いとか悲しいとか云う気持はおきなかつた。
ただ生と死の瞬間が今来るかと思うのみであつた。
この第二回目の爆撃は滑走路に主として投弾されたが
その他には余り被害は無かつた。
最も被害の大きかつたのは
奉天駅前を中心とした一帯で
満鉄社員には数多くの犠牲者が出た。
東陵方面に逃げれば
こんな被弾の洗礼を受けなかつたのも運命と言うものだろう。
―9-
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇