会社の疎開と思い出1/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

 会社の疎開と思い出

私たちの会社満飛(満州飛行機製造株式会社)は
昭和十三年七月一日に、
満州重工業株式会社(総裁鮎川義介氏)の傘下に出来た
満州に於ける飛行機製造の唯一の会社であつた。

奉天駅から東に八粁、旧東飛行場と張学良の兵舎を利用した
数十万坪の広大な敷地を占めていた。

私が入社した昭和十五年頃は未だ兵舎をそのまゝ利用し、
本格的な工場設備ではなかつたが、
昭和十八年には機体部も発動機部も、
共に立派な近代化した工場となり、
三階建の本館も見事に建設された。
従業員も、日系四千人、満系六千人と一万人以上の社員を擁し
日夜飛行機の増産に懸命であつた。

入社当時の理事長は、満業総裁の鮎川義介氏であつたが、
まだ そのけいがいに接する機会がなかつた。

その後偶々、
会社で職員に訓示をされたことがあつたが、
間もなく辞され、
後任には高碕達之助氏が理事長に就任された。
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そして高碕理事長が辞された後は
小川淑一氏が理事長となられた。
小川理事長は、高碕達之助氏のもとに、
副理事長として、特に会社発展に努力された人であつたが、
不幸昭和十八年九月の機体部火災の責任を負い、
会社を辞されたことは遺憾の極みであつた。

私はその火災のあと、間もないある日、
毎日航空本部に報告する
機体や発動機の生産日報の決裁を貰うべく、
理事長室に入つて行つた。

小川理事長は北側の窓辺に立たれ、
焼失した機体部の方を見られ、
沈痛な姿で物思いに沈んでいた。

私は一寸たじろいだが、
「理事長、生産日報に決裁をいただきに参りました」
と言いながら、
机の前に進んだ。
小川理事長はふりむいて、机の前に戻りながら、
何時ものように協和会服の左胸のポケツトから、
象牙の印を出されたが、
余りにも憂いにみちた理事長の顔をみて私は思わず
「理事長あまり力を落さないで下さい」と言つた。


理事長は一寸笑を浮かべるように、
顔を硬ばらせ乍ら、
「焼けたものはしかたがない。そうだ、仕事だなあ」
と一言洩らされて印を捺された。

これが、小川理事長とお別れの最後の言葉であつた様に覚えている。

小川理事長が辞任されて、香積見弼副理事長が理事長となつた。
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p10-11[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p10-11[追憶の曠野]小西達四郎
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