会社の疎開と思い出2/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

社業も着々進展し、増産の一途をたどつたが、又もや、
昭和十九年二月、再度の火災に機体部が見舞われ、
香積理事長もその責を負つて会社を辞任された。

私は偶々満福寮に来客を招待したとき、
香積理事長の送別の席に列する機会を得た。
その席には池内理事、松原部長、沢柳部長等が同席され、
互いに惜別の情を禁じ得ない面持で盃を重ねていた。

この時ふと、香積理事長が大変書を良くされたことを思い出し、
記念に長幅の書を所望した。
すると内地に帰られる忙しいさなかにも拘らず、
二三日後呼ばれて理事長の室に行くと、
「和衷共同」と書かれた半折を戴くことが出来た。

この記念の書も敗戦のどさくさで
失つてしまつたことは残念であつた。

香積理事長の後任には、小林一三社長のもとに、
東京電燈の副社長であつた
岡部栄一氏が理事長として就任された。

この頃会社は最も充実し、
一致協力増産の意欲に燃え、

機体部に於ては、
「キ四」、「キ十」、「キ二十七」、
「キ七十九」、「キ八十四」、「キ四十九」と
六種類を製作し、

発動機部は、
「ハ一乙」、三百五十馬力、
「ハ十三甲」四百五十馬力を製作し、

機体部は月産百七十機を生産し、
発動機部は、月産百五十機を生産し、
大東亜戦争の重要な一翼を担つていた。

然し昭和十九年十二月八日と、
十二月二十三日の
二度の「B二十九」の爆撃は機体部の生産を、
一時ストツプの事態におとしいれた。
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この昭和十九年は会社にとつても、
私たちにとつても、忘れられないことは、
あの爆撃と火災の二つの不祥事に加へ、
河野操縦士の墜死である。

河野君は実戦の経験を得た航空中尉で、
会社では古い名パイロツトであつた。
何時も完成機をテストし、
飛行機を満洲航空支廠に空輸していた。

この日昭和十九年十二月四日も、
飛行服に身をかため、
凛々しい姿で元気に機上の人となり、
飛行場を飛び立つたが、何時ものように、
二、三回飛行場の上空を旋回し、
翼を振つて機首を西に向け、西飛行場に行くのだが、
どうしたことか、数回旋回しても、
なかなか翼を振らない。

飛行場には藤崎整備課長はじめ、
係員が何処か調子でも悪かつたのかと
心配げに見守つていたその瞬間、
機体は斜にかたむき、「あつ!」という間に、
そのまゝ飛行場の北方畑地に墜落した。

私が「河野が墜ちた」と知らされて
急ぎ病院に馳けつけた時はもう駄目で
手術台の上に横臥させられていた。
千術室に行くと、
看護婦が「小西さん、河野さんはお気の毒でした」
と悲しげな面持で言いながら、

「あんまり顔がひどくいたんで、
とても遺族の方々に見せられないので、
今整形手術をやつたところです」と言つて、
顔の白布を取つてくれたので見ると
彼の顔は全く別人の様に痛み変つていた。

毎目顔をあわせ冗談をいい会つた友が
瞬時にして変りはてたこの様な姿を見て
私の胸は破れる様
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な悲痛な思いに襲われた。
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p12-13[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p12-13[追憶の曠野]小西達四郎
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