会社の疎開と思い出3/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

私は心中「河野君」と呼び、
心の底から悲しみながら、彼の冥福を祈つた。

河野君は非常に淡白な人で、
酒も煙草もやらず、
何時も冗談を飛ばし、
皆んなを笑わせていた。

私が営業課に転じた昭和十七年頃には、
満航(満洲航空株式会社)に納入する
スーパー六人乗の旅客機が未だ七機ばかり残つていた。
ある時、河野君が私に、
「スーパーも残り少いから、
一度同乗して満航に納入してみたらどうです」
と言われたので、乗ることにした。
私も初めて乗る飛行機、いささか不安もあつたが、
勇をこして同情した。

秋晴れの良い天気で、
エンジンの音も快調に飛行場を飛び立つた。
二、三度旋回し、
機首を北に向けるとやがて新市街の方向に飛び、
奉天市の上空を五百米位の低空で見物させてくれた。

そして目的地、北飛行場の上空に来ると、
ぐんぐん上昇をはじめた。

するとなんだか地上が顔の上になつたような気がした。

別に不安もない。北飛行場に着陸し、
私の顔をみて、初飛行はどぅでしたといわんばかりに
「宙返りをしてやつたんですよ」と言つて笑つていた。
あの時の河野君の姿は今でも
まぶたに浮ぶのである。

 然し彼はもうこの地上には居らない、
ただ彼の冥福を祈るのみである。

あの運命の爆撃に、
私たちの会社を疎開と言う悲しむべき事態に直面させた。
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機体部の主力は「ハルビン」に、
発動機部の一部は「公主嶺」に疎開が決定した。

私たちが、永い間血と汗とで築いた
なつかしい職場とも別れなければならなかつたことには、
一抹の哀愁を感じたのであつた。

機体大型工場の忘れられない思い出は、
昭和十七年秋、
突然歌手の渡辺はま子さんが会社に来たことである。

渡辺はま子さんは以前から会社の北村洋二理事と旧知の間柄で、
丁度満洲慰間旅行の帰途奉天に立寄り、
北村理事へ電話をかけたことから
此の慰問が実現されたのであつた。

北村理事から、
是非会社の職員を慰問してくれと頼んだところ、
早速快諾して来てくれたのであつた。

あの大型工場に全職員が集つたとき、北村理事は、
「……昨夜突然黄色い声で洋ちゃん、私、はま子よ、
と言う電話を貰つたのでありますが、
はじめは一寸驚ろきました。
奉天へ来て、こんな美しい女の声で電話を貰つたのは、
昨夜が始めてであります」
とユーモアたつぷりの紹介挨拶がかつた後、
渡辺はま子さんが、急造のステージに立たれ

「産業戦士の皆様、ほんとうに御苦労様です。
北村さんと知り合いの関係で、
皆様をご慰問することが出来ました。
今日は、はま子心から歌いますわ!」
とあでゃかなゼスチユアーには
満場の拍手鳴りも止まない。

はま子さん得意の「支那の夜」外 数曲を歌つて
私たちを慰問してくれた。あの広
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p14-15[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p14-15[追憶の曠野]小西達四郎
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