会社の疎開と思い出4/4
[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

あの広い
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い戦場のようにけたたましい騒音の大型工場も
一時鳴りをしずめ
馥郁たる空気があたりに流れるような感じであつた。

昭和十六年十二月八日未明に行われた
あの真珠湾攻撃の勇士反保慶文中佐の
実戦談などもやつたなつかしい、
機体大型工場とも、
やがて別れなければならぬ時が
一日毎に近づいておつた。

昭和十九年十二月二十五日、
会社は機構の大改革を発表した。

「ハルビン」は北機械製作処、
公主嶺は「中機械製作処」
奉天は「南機械製作処」と名称が変つた。

北機械製作処には武石喜三氏が処長として転じ、
富永五郎氏が副処長となつた。

中機械製作処には西村源与茂氏が処長として転じ、
南機械製作処は畠村易氏が処長に、
多田敬由氏が副処長となつた。

機構改革の発表と同時に、会社は非常に忙しく、
「ハルビン」のH航空部隊、
「公主嶺」のK航空部隊の工場設備計画、
工作機械の輸送計画と、
連日関係者間の会議が開かれた。

敵機が、何時来襲するやも知れぬ緊迫した空気の中で、
これ等の計画は日夜を分たず迅速に進められ、
昭和二十年一月下旬には、
機械その他重要資材は、
輸送を完了して先発の職員は、
ぞくぞく「ハルビン」「公主嶺」へと赴任した。

この疎開の一大難事業も、
月余にして完遂したことは、
お互い職員の努力の結果であるが、
この
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輸送面に絶大たる援助をおしまなかつた
満鉄の厚意を忘れることは出来ない。

私は五月中旬
「ハルビン」と「公主嶺」に業務連絡に出張をしたとき、
その工場や宿舎の未完成をつぶさに見て、
従業員諸子の苦労の程を目のあたり感じさせられたが、
その不便を克服し、
誰れ一人として不平もなく、
ひたすら一機でも一台でもと
ただ増産の念に燃えておる、
その姿には、頭の下る思いがした。
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p16-17[追憶の曠野]小西達四郎
〔画像〕p16-17[追憶の曠野]小西達四郎
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