20120209()
[大久保麑山(げいざん)]
 大久保麑山諱は教之字は子誨、通称を逕三といい、中津藩の世臣でした。
孝誨は教連、文政八年(1825)十二月十一日の生まれです。
幼い頃より慧敏、学を好み業を其の叔父
野本白厳に宇佐郡白岩村の家塾に受け、
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又剣馬槍弓の術を習う。
文久元年(1861)藩学の鎗務となり、
翌年陣道具奉行に昇り、三年江戸に出役し、
四年六月教連歿し麑山国に帰る。
このときにあたり幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦微に応ず、麑山遺中にあり、
後三百間砲台守隊長となり、又進修館助教となる。
廃藩置県後片端中学校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年中学校教授と成る。
後年文部省より特別功労者として六国史及び硯石を賜る。
明治十八年八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治二十二年門人相議して資を募り碑を公園地に建てる。
その撰文は中村正直が行っている。
豊前人物志  山崎 有信  著   昭和五十六年 国書刊行会
扇城遺聞   中津小幡記念図書館  昭和七年
下毛郡誌 下毛郡教育委員会 昭和五十五年 国書刊行会
http://www2.ktarn.or.jp/~kenchan/geizan.txt 

[野本白巌]【大分県偉人伝】
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/1
明治40812日印刷
明治40816日発行
著作者    大分県教育会
右代表者   千葉貞幹
発行兼印刷者 亀井忠一
       東京市神田区裏神保町一番地
印刷所    三省堂印刷部
       東京市神田区三崎町河岸第十二号地
発行所    三省堂書店
       東京市神田区裏神保町一番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/266
[野本白巌](日本教育史料)p130-131/270
野本白巌、諱は珵、字は伯美、通称は武三、
眞城山人と号し、晩年白巌樵夫と改む。
蓋し、宇佐郡白岩に退隠したるに因みてなり。
父は中津藩の儒臣野本亮右衛門。母は某氏。
寛政九年三月六日を以て家に生れぬ。
文化十三年、白巌嫡子を以て藩主昌暢に仕へ、
天保六年、父の後を襲ふて家俸十五口を継きぬ。
・・・
弘化四年、復た童蒙帳を下毛郡秣村に設けて教へ、
嘉永二年、又宇佐郡四日市に移りて教鞭を執れり。
同三年、露国の使船長崎に来るや、白巌慨然、
将に書を水戸老公に上り、邊防の事を論ぜんとして、
江戸に到りたるも、志を果たさざして帰り、
白巌の?宅を修め、書生を教授して居りぬ。
白巌幼より、帆足萬里に学び、程朱を以て宗と為し、
弱冠京都に遊び、古文を頼山陽に学びぬ。
性精識卓見、頗る気岸ありき。
学は實用に志し、博く治體に達しぬ。
故に、其の用ゐらるるや、政治を補佐し、其の罷めらるるや、
誌書を著し、側ら窮理説を学び、医術算数に通じ、律例を解せり。
俗語の著には、福恵全書、註解明官略、俗語纂、租税新論あり。
皆實用を主とせり。
又詩文集二冊あり、家に蔵む。
・・・
病に臥すること三年、安政三年七月三日を以て歿す。
享年六十。此の頃舊門生相議し、
白巌の塾跡に碑を建て鐫むに白巌先生之碑の六字を以てせり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777500/130 

[大久保逕造]
【中津歴史】廣池千九郎編述 明治24年12月発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/1
中津片端中学校開業ス p198/251
―略―
皇学教師ニハ渡邊重春アリ
漢学ニハ白石常人・橋本監厳・大久保逕造ノ三儒アリ
以テ両学ヲ分担専任シ
且傍ラ修身歴史地理等ノ訳書及和洋算術ノ初歩ヲ授ク
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/198
明治241210日印刷
明治241214日出版
定価金壱圓
編輯兼発行者 廣池千九郎
       大分県平民
       大分県下毛郡鶴居村151番地
印刷者    自由館印刷 担当人
       門田虎彦
       福岡県士族
       大分県下毛郡中津町106番地第二戸寄留
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766710/246
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』