20120209()
[履歴と業績]別府祐弘
帝京と私
1別府祐弘稿「成蹊と私」
『成蹊大学経済学部論集』第33巻、第1 号、2002 10月、3-7 頁。
(早稲田大学大学史資料センターに永久保管)
帝京大学に着任早々の私は、
これを故沖永荘一学主、沖永佳史学長、沖永荘八副学長、
柴川林也経済学部長等に送呈して、自己紹介とさせていただいた。
「…中津の町はまた、福澤諭吉生誕の地として、
中津公園に「独立自尊」の大石碑があることで有名です。
しかし同じ公園の中に、
私の曽祖父の「大久保麑山先生紀念碑」も建立されていることを知る人は、
今日ほとんどありません。
そこには次のような碑文が刻まれているのです。 

大事にたへるには   欲任大事
篤実でなければならぬ 須是篤実
たとえば基礎が堅固で 督之基固
家が築けるようなもの 方可築室
君は実行を重んじ   君重躬行
かくて弟子を教えた  以誨弟子
学風を後に伝えて   風軌伝後
きわまることはない  罔有窮己
明治二十一年四月二十日
元老院議官従四位 中村正直 

この碑文の現代語訳は、
富士正晴『大河内傅次郎』中央公論社、昭和53年、18頁より。
(資料③参照)
文人風をきらって実学を尊重した藩学・麑山ゲイザンのこの学風が、
後に、野本真城門下の弟弟子であった
福澤諭吉の『学問のすすめ』の中にも色濃く受け継がれていると
土地の古老は申します。
そしてこの碑文を選した「中村正直文庫」が、
岩崎家より寄贈されて、成蹊大学図書館にあることがまた、
成蹊と私を結びつけたいま一つのご縁でした。
この碑文こそが、その後実学としての経営学を私に専攻させた理由であり、
これを講じて36年間、成蹊大学で研究教育活動に従事させて頂きました。
その間、経済学部経営学科、大学院経営学研究科修士課程・博士課程及び
経営専門大学院の創設に参画し、
成蹊の原点である実務学校の伝統の上に、
この碑文で中村正直に称えられた
大久保麑山の学風を重ね合わせて大学で実践すべく、
微力乍ら私なりに努力して来た次第です。…」 

『大久保麑山(ゲイザン)先生紀念碑』と
慶應義塾大学・早稲田大学・神戸大学・帝京大学 

最後に私の研究・教育人生の拠り所にしてきた
曽祖父大久保麑山について、
富士正晴著「前掲書」から若干引用して紹介しておきたい。
―略―
正しく麑山は、野本真城の身内の甥である上に、
3歳から薫陶を受け手塩をかけて育て上げられた真名弟子であった。
したがって13歳にして始めて真城の私塾に入塾して勉強を始めた 

福澤諭吉の指導の多くは、
当時23歳の兄弟子麑山が真城に代ってあたっていたらしい。 

『福翁自伝』では同じ野本真城の門下生で、
奥平藩から中津処払いを命じられた白石照山のみが
福澤の師であったかのごとく書かれているが、
それは正しくないであろう。
藩校で諭吉の長兄三之助が
大久保蔵之助(麑山)に師事していただけでなく、
真城塾で諭吉自身も麑山に実質的に指導されていた…。
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/keizaigaku44-1-04.pdf