[満洲飛行機の思い出]満州飛行機製造株式会社
―略―
当時の組織の一部は次のとおり。 p40
北機械製作処
処長 武石喜三
副 富永五郎
副 松尾四郎
機体部 部長 富永五郎
発動機部 部長 江沼孝太郎
※追記:平成27年(2015)1月1日
一方厚生課は
竹内課長始め
西四辻公敬、
本社から出張で来た
村田篤彦君等が
食料や配給品の確保に大忙がしで働いてくれ、
大体満足する様になれば、…。 p40
奉天花園街の家族も軍令で朝鮮に入国するよう指示があったが
幸いにも中止されて事なきを得ている。
公主嶺の社員と家族の一部はその儘朝鮮に入国し、
奉天から迎えの使者が到着するまで悲惨な日々を送った。
そして昭和二十一年(1946)一月奉天に集結を完了し、
これで満州飛行機発動機部は完全に解体することが出来たのである。
昭和二十一年(1946)六月二十九日満飛社員は
多くの思い出のある花園街を後に、
コロ島を経て仙崎港に入港、
それぞれの目的地に向って散った。
―略―
我社は満州の曠野に忽然と、
ミクロンの工場を誕生させ蜃気楼のように消えた短命な企業であった。
ある先覚者は「国が滅び、企業が消滅しても、技術は残る」と喝破したが。
その通り!
帰国しても日本に飛ぶ空がなかったが
「もく星号」の惨死事故をきっかけに
「空を取り戻せ」の声が急速に高まった。
その中で富永さん等によって、
日本航空整備株式会社が設立されて
同輩の多くが吸収され、
その後日本航空に引継がれ貢献した。
又図面の見方、測定器の扱い方、ミクロン研磨法、バランスの取方等、
枚挙に暇がない程の技術を現地人に伝え、
その技術が更に若い世代に受けつがれ、
湖面に波紋を画くように拡がって、
新生中国に貢献したことも知らされている。
今日の「日本の生きる道」として
企業の海外進出が盛んに行なわれているが、
我々は既に四十五年前に、今日同様「日本の生きる道」として、
満洲の曠野にミクロンの分野を切り開き実を結ばせた。
我々は今でも、これを歴史的業績として誇っている。
私は手記(三)の中で
「ソ連軍は、牡丹江に拉致した我々を、
何故ハルピンを経て奉天まで逆送還したのか、
解けない謎である」と記述した。
此の原稿を纏めた後。
当時の拉致隊最高責任者であった江沼さんが、
病臥されている夫人の面倒をみておられたので、見舞った居り、
控えめに語った一言から、その謎の一端が解った。
それは「栄養失調者が増え、このまま、ソ連領内に連行されたらどうなる事か、
これは、どうしてもハルピンまで貨車で送還して貰うより方法はないので、
来る日も、来る日もこの要求を言い続けて食い下がった。実に苦しかった」
と、ぼそりと洩らされた。
進攻中のソ連軍に、シャワー車を集結させ、軍医を呼び、
送還用貨車を用意させ、各自にパスポートまで支給させたこの交渉が、
如何に困難であったか、容易に想像する事が出来る。
同時に、如何なる国であろうとも、又如何なる場合に於ても、
人道主義は人の心を強く捉えるもので、これが救いの要因ともなった。
この好意に報いるため、いくつかの、腕時計を贈ったが、
私のシーマーも、その中に入っていた事を思い出した。
理事長 岡部榮一
副理事長 行徳守治
設計部 林 元 研究課 野田親則
経理部 内山新治 営業課 小西達四郎
北機械製作処
武石喜三
(副)富永五郎
(副)松尾四郎
第一製作部 富永五郎
第二製作部 江沼孝太郎
生産課
第一工場
第二工場 市川 昇
第三工場
中機械製作処
西村源與茂
庶務部 宮本
庶務課 奥 徹
南機械製作処
畠村 易
(副)多田数由
製作部 田中 保
第一工場 中島 穆
〔南満州工業専門学校生徒挺身隊卒業記念〕於 本館正面
小野又一(父)??? 小野一雄記
奥付
満州飛行機の思い出
定価 五千円
〒 五百円
昭和五十七年六月一日 印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行 満州飛行機の思い出編集委員会
代表 澤柳誠四郎
〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
電話 0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
電話 0482-52-2370
印刷 船舶印刷株式会社
《国立国会図書館 寄贈之記》
―略―
北機械製作処
処長 武石喜三
副 富永五郎
副 松尾四郎
機体部 部長 富永五郎
発動機部 部長 江沼孝太郎
※追記:平成27年(2015)1月1日
一方厚生課は
竹内課長始め
西四辻公敬、
本社から出張で来た
村田篤彦君等が
食料や配給品の確保に大忙がしで働いてくれ、
大体満足する様になれば、…。 p40
奉天花園街の家族も軍令で朝鮮に入国するよう指示があったが
幸いにも中止されて事なきを得ている。
公主嶺の社員と家族の一部はその儘朝鮮に入国し、
奉天から迎えの使者が到着するまで悲惨な日々を送った。
そして昭和二十一年(1946)一月奉天に集結を完了し、
これで満州飛行機発動機部は完全に解体することが出来たのである。
昭和二十一年(1946)六月二十九日満飛社員は
多くの思い出のある花園街を後に、
コロ島を経て仙崎港に入港、
それぞれの目的地に向って散った。
―略―
我社は満州の曠野に忽然と、
ミクロンの工場を誕生させ蜃気楼のように消えた短命な企業であった。
ある先覚者は「国が滅び、企業が消滅しても、技術は残る」と喝破したが。
その通り!
帰国しても日本に飛ぶ空がなかったが
「もく星号」の惨死事故をきっかけに
「空を取り戻せ」の声が急速に高まった。
その中で富永さん等によって、
日本航空整備株式会社が設立されて
同輩の多くが吸収され、
その後日本航空に引継がれ貢献した。
又図面の見方、測定器の扱い方、ミクロン研磨法、バランスの取方等、
枚挙に暇がない程の技術を現地人に伝え、
その技術が更に若い世代に受けつがれ、
湖面に波紋を画くように拡がって、
新生中国に貢献したことも知らされている。
今日の「日本の生きる道」として
企業の海外進出が盛んに行なわれているが、
我々は既に四十五年前に、今日同様「日本の生きる道」として、
満洲の曠野にミクロンの分野を切り開き実を結ばせた。
我々は今でも、これを歴史的業績として誇っている。
私は手記(三)の中で
「ソ連軍は、牡丹江に拉致した我々を、
何故ハルピンを経て奉天まで逆送還したのか、
解けない謎である」と記述した。
此の原稿を纏めた後。
当時の拉致隊最高責任者であった江沼さんが、
病臥されている夫人の面倒をみておられたので、見舞った居り、
控えめに語った一言から、その謎の一端が解った。
それは「栄養失調者が増え、このまま、ソ連領内に連行されたらどうなる事か、
これは、どうしてもハルピンまで貨車で送還して貰うより方法はないので、
来る日も、来る日もこの要求を言い続けて食い下がった。実に苦しかった」
と、ぼそりと洩らされた。
進攻中のソ連軍に、シャワー車を集結させ、軍医を呼び、
送還用貨車を用意させ、各自にパスポートまで支給させたこの交渉が、
如何に困難であったか、容易に想像する事が出来る。
同時に、如何なる国であろうとも、又如何なる場合に於ても、
人道主義は人の心を強く捉えるもので、これが救いの要因ともなった。
この好意に報いるため、いくつかの、腕時計を贈ったが、
私のシーマーも、その中に入っていた事を思い出した。
理事長 岡部榮一
副理事長 行徳守治
設計部 林 元 研究課 野田親則
経理部 内山新治 営業課 小西達四郎
北機械製作処
武石喜三
(副)富永五郎
(副)松尾四郎
第一製作部 富永五郎
第二製作部 江沼孝太郎
生産課
第一工場
第二工場 市川 昇
第三工場
中機械製作処
西村源與茂
庶務部 宮本
庶務課 奥 徹
南機械製作処
畠村 易
(副)多田数由
製作部 田中 保
第一工場 中島 穆
〔南満州工業専門学校生徒挺身隊卒業記念〕於 本館正面
〔発動機設計課ピクニック〕於 東稜
後列 右から三人目小野又一(父)??? 小野一雄記
奥付
満州飛行機の思い出
定価 五千円
〒 五百円
昭和五十七年六月一日 印刷
昭和五十七年六月二十九日 発行
編集並発行 満州飛行機の思い出編集委員会
代表 澤柳誠四郎
〒202 東京都保谷区柳沢一ノ三ノ一四
電話 0424-62-7056
花園会事務局 山内サッシ工業株式会社内
〒332 埼玉県川口市川口二ノ一三ノ一
電話 0482-52-2370
印刷 船舶印刷株式会社
《国立国会図書館 寄贈之記》
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《中島 穆》
[東京帝国大学 工学部 航空学科 昭和14年3月卒業]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2433067.html