[追憶の曠野]小西達四郎
昭和三十四年八月一日 発行
1-[追憶の曠野]小西達四郎
序にかえて
元満州飛行機製造株式会社
元通商産業大臣
高崎達之助
私は昭和十六年から十七年末まで
「満洲飛行機製造株式会社」の第二代目の理事長をした。
その後も引き続き同会社の理事会長として終戦を迎えた。
終戦後も二ケ年間満洲に滞在してつぶさに敗戦の悲惨なる場面を味い、
日本人の引揚げを見届けて来た一人である。
小西君は、当時の「満洲飛行機製造株式会社」に於て
営業課長の職にあった人だが、
今回その終戦時の思出を色々と書き綴り一本を著した事には
大いに敬意と賛意を表したい。
こゝに同著を推薦して大方の御一読をおすゝめするものである。
昭和三十四年六月十五日
2-[追憶の曠野]小西達四郎
※追記:平成27年(2015)1月1日

「追憶の曠野」に寄せて
元 満洲飛行機製造株式会社 理事長
日本カーリット社長
岡部栄一
 ―略―
昭和三十四年六月十五日 ※昭和34年(1959)

「追憶の曠野」の発刊に寄せて
花園会 会長
日本航空整備株式会社 常務取締役
富永五郎
 ―略―
(一九五九年六月記)  ※昭和34年(1959)


満飛社歌

古き歴史と新らしき
文化の華と光を競う
こゝ奉天に地を占めて
エンジンの音高らかに
輝き立てり我が会社

若き生命(いのち)のあふれては
流るゝ汗に血潮は躍る
見よ銀翼に陽を受けて
われらが誇り新鋭機
3-[追憶の曠野]小西達四郎
会社の疎開と想い出 p10-17
私たちの会社満飛(満洲飛行機製造株式会社)は昭和十三年七月一日に、
満洲重工業会社(総裁鮎川義介氏)の傘下に出来た
満洲に於ける飛行機製造の唯一の会社であった。
奉天駅から東に八粁、旧東飛行場と張学良の兵舎を利用した
数十万坪の広大な敷地を占めていた。
私が入社した昭和十五年頃は未だ兵舎をそのまゝ利用し、
本格的な工場設備ではなかったが、昭和十八年には機体部も発動機部も、
共に立派な近代化した工場となり、三階建の本館も見事に建設された。
従業員も、日系四千人、満系六千人と一万人以上の社員を擁し
日夜飛行機の増産に懸命であった。 p10
―略―
4-[追憶の曠野]小西達四郎
社業も着々進展し、増産の一途をたどったが、又もや、
昭和十九年二月、再度の火災に機体部が見舞われ、
香積理事長もその責を負って会社を辞任された。
―略―
香積理事長の後任には、小林一三社長のもとに、
東京電燈の副社長であった
岡部栄一氏が理事長として就任された。
この頃会社は最も充実し、一致協力増産の意欲に燃え、
機体部に於ては、
「キ四」、「キ十」、「キ二十七」、
「キ七十九」、「キ八十四」、「キ四十九」と
六種類を製作し、
発動機部は、
「ハ一乙」、三百五十馬力、「ハ十三甲」四百五十馬力を製作し、
機体部は月産百七十機を生産し、
発動機部は、月産百五十機を生産し、
大東亜戦争の重要な一翼を担っていた。
然し昭和十九年十二月八日と、
十二月二十三日の二度の「B二十九」の爆撃は機体部の生産を、
一時ストップの事態におとしいれた。 p12
―略―
5-[追憶の曠野]小西達四郎
私が営業課に転じた昭和十七年頃には、
満航(満洲航空株式会社)に納入する
スーパー六人乗の旅客機が未だ七機ばかり残っていた。
ある時、河野君が私に、
「スーパーも残り少いから、一度同乗して満航に納入してみたらどうです」
と言われたので、乗ることにした。
私も初めて乗る飛行機、いささか不安もあったが、
勇をこして同情した。 p14
―略―
機体部の主力は「ハルピン」に、
発動機部の一部は「公主嶺」に疎開が決定した。
―略―
機体大型工場の忘れられない思い出は、
昭和十七年秋、突然歌手の渡辺はま子さんが会社に来たことである。 p15
―略―
6-[追憶の曠野]小西達四郎
昭和十六年十二月八日未明に行われたあの真珠湾攻撃の勇士
反保慶文中佐の実戦談などもやったなつかしい、
機体大型工場とも、やがて別れなければならぬ時が一日毎に近づいておった。
昭和十九年十二月二十五日、会社は機構の大改革を発表した。
「ハルピン」は北機械製作処、
公主嶺は「中機械製作処」
奉天は「南機械製作処」と名称が変った。 p16
―略―
7-[追憶の曠野]小西達四郎
奥付
昭和三十四年七月三十日 印刷
『小野又一 蔵書』
非売品
著作者 小西達四郎
印刷所 秋田活版印刷株式会社
8-[追憶の曠野]小西達四郎
『小野又一 蔵書』