[清流]第24号 昭和47年(1972)2月26日
ノートルダム女学院 父母の会
「いと高き所には 神に栄光 地には善意の人々に平和」
(ルカ2章14節)
1-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》
[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
《弔辞》
謹んで今は亡き親友小野又一君の御霊に捧げます。
君と私がはてしない大きな希望と夢に胸をふくらませてあこがれの
第三高等学校の門をくぐったのは四十年前のことです。
それ以来かんたん相てらす仲として、
三高時代君もよく口ずさんだ
「君の憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」
という行春哀歌の言葉通りの間柄でありました。
京都大学工学部機械工学科を卒業とともに君はそのあり余る才能を生かし、
当時の満洲重工業に入社、飛行機の設計技師として、
産業界の第一線にとび出しました。
君は私に大学人として、
学界で活動することを強くすすめた一人であったように思います。
そして互にその道は異なりましたが、
目ざすところは一致していたようであり、
互に相助けはげましあってきました。
君は天性極めて明晰な頭脳の持主でありました上に、
その性質極めて明朗活たつで、
人情味あふるる人間性は
君の周囲の人達に常にあたたかい雰囲気をかもしだしたものであります。
特に近年鈴木信輔氏の主宰する事業の協力者としての情熱は
君をして京都大学の田中教授の門をたたかせ、
その専門外とも云うべき電気材料の研究に没頭されました。
またその都度私の研究室にも立寄られ単に仕事の話だけに止らず
学生時代にかえって人生を語ったものであります。
そして最近はこのノートルダム女学校の学校行政の責任ある地位につかれ、
長い波瀾に満ちた生活の後に漸やく安定した聖職につかれ、
新たな仕事への情熱をわかしてられ、
共に喜びあったのも昨日のように思われます。
それにも拘らず去る八日
東京から帰りました私を待っていたのは
日頃頑健を誇っていた君が倒れられたしらせでした。
がく然として安井病院を訪ねましたが
もはや意識のある君にはお会いすることができませんでした。
御家族は勿論、学校当局の御手厚い御看護にあるいは奇蹟が起るのではないかとの、
一るの望みも遂に消え去りました。
君は余りにあっけなく神に召されました。
今にして思えば君のあの淡白な気質とは一脈相通ずるような気も致します。
人生五十年とはいえ、こんなに早くお別れするとは想像致しませんでした。
今更乍ら友を失う淋しさにたえられない気持であります。
この上は我々友人が君が残された御家族のため出来る限りお力をかすことにより
少しでも君とかわした友情にむくいることにしたいと思います。
でわ小野君、安らかに永遠にお眠り下さい。
昭和四十七年二月一日
椹木義一
1-《弔辞》椹木義一 
※ 当時の満洲重工業に入社、飛行機の設計技師として、
  <満州飛行機製造株式会社>

※ 特に近年鈴木信輔氏の主宰する事業の協力者としての情熱は
  <稿を改めて記載>

※ 君をして京都大学の田中教授の門をたたかせ、
  <稿を改めて記載>

追記 平成24年(2012)3月31日

※ 「君の憂いに我は泣き、我が喜びに君は舞う」
   旧制第一高等学校寮歌解説
  〔仇浪騒ぐ〕
   明治40年第17回紀念祭寮歌 東寮
   4、友の憂ひに吾は泣き   吾が喜びに友は舞ふ
     人生意気に感じては   たぎる血汐の火と燃えて
     染むる護国の旗の色   から紅を見ずや君
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/T10P126adanami.html

※ 行春哀歌
2-《弔辞》椹木義一 
[三高歌集]創立九十年記念-1958-
〔行春哀歌〕p142-143
矢野峰人 作詞
昭和二十七年五月一日初版発行
昭和三十三年五月三日十一版発行
非売品
編輯兼発行者 久米直之
       京都市左京区吉田本町 舊三高官舎
発行所    三高同窓會
       京都市左京区岡崎西福ノ川町一六