[清流]第24号 昭和47年(1972)2月26日
ノートルダム女学院 父母の会
「いと高き所には 神に栄光 地には善意の人々に平和」
(ルカ2章14節)
1-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》
[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
※ 君をして京都大学の田中教授の門をたたかせ、
  <稿を改めて記載>
左から
田中哲郎(京都大学教授)
大原儀作(東北大学教授) ※別稿に記載(2020年2月3日)
小野又一(父)
2-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》
3-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》
4-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》
5-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》

[京都大学工学部 田中哲郎教授]

[京大広報]No.556 2001.4 [p8/24]
京都大学広報委員会
『田中 哲郎 名誉教授』
田中哲郎先生は,2月20日逝去された。享年84。
先生は,昭和14年京都帝国大学工学部電気工学科を卒業,
北辰電機製作所に勤務後,
京都帝国大学大学院(工学部)で学ばれ,
同18年化学研究所講師,同助教授,同教授を経て,
同38年,京都大学工学部教授に就任,
電気工学第二学科半導体工学講座を担任された。
昭和54年詫間電波工業高等専門学校長に就任され
京都大学名誉教授の称号を受けられた。
昭和62年同校校長を退官された。
先生は,電子材料工学,中でも強誘電体,半導体材料に関して,
新規材料の創製,物性の解明,
電子デバイスへの応用などに優れた業績を上げられた。
特に,「強誘電体チタン酸バリウムの基礎と応用」の研究に関しては,
その創始者であり,日本におけるこの分野の中心として,
長く,学界,産業界を指導された。
また,電気学会,電子情報通信学会,音響学会,チタン酸バリウム実用化研究会,
強誘電体応用会議などの会長,委員長,支部長などの役員を歴任し,
わが国の電子材料工学とその関連分野における学術技術の振興に多大の貢献をされた。
これら一連の功績により,
昭和62年4月勲二等瑞宝章を受けられた。
(大学院工学研究科)p1054-1055
6-田中哲郎教授:[清流]第24号:《弔辞》

[村田製作所]沿革
第2章 1945年~1950年
そうしたおり、昭和21年の晩秋のことであった。
村田昭のもとに、金型屋の小西鉄工所の主人が一人の人物を紹介 (注3) して寄こした。
それが京都大学の田中哲郎助教授であった。
川西機械製作所 (後の神戸工業、現・富士通テン) が
ステアタイトをつくるところはないかと探しているので行ってみては、
と田中先生から佐々木正技術部長 (後にシャープ副社長) を紹介され、
大久保工場の管球部を訪ねた。
電話用リピータ (京阪間は有線で、途中で減衰する信号電力を増幅するのに、
真空管が必要であった) に使うステアタイトが、
東京のメーカーから手に入らないのでつくってほしいということになり、引き受けた。
「京大田中助教授との出会い」
当時、田中先生は昭より5歳年長の30歳だった。
終戦まもない食糧難、物価高の時代とあって、
大学の研究費だけでは、十分な研究はできなかった。
そこで研究費かせぎにアルバイトをやろうというのである。
クリスマスが近いということもあって、
クリスマスツリーに使う赤や青のイルミネーション装置を、
田中先生が自ら設計してつくろうとしていた。電気は先生の専門の分野である。
http://www.murata.co.jp/corporate/history/chapter02.html#production

[村田恒夫]
村田製作所代表取締役社長
1951年、京都府生まれ。創業者・村田 昭の三男。
同志社大学経済学部卒業後、村田製作所入社。
同社ドイツ現地法人社長などを経て、'89年に取締役就任。
2007年より現職。'12年に向けた中期経営計画を進めている。
「当社はベンチャーとして出発しました。
その際、京都大学の先生とのお付き合いがあったからこそ、
事業を拡大できたと思います」と、理科少年集団のドン・村田恒夫氏。
1950年の会社設立当時には、
京都大学工学部の田中哲郎教授とともにチタン酸バリウムを使った
セラミックコンデンサを開発。
その後も新たな技術者の確保には、
学生の街といわれる京都に拠点があることが幸いした。
なぜなら、この街には明治初期の琵琶湖疎水開削・発電に端を発する、
産学連携を培ってきた土壌があったから。
加えて、職人を商人たちが支援する環境がすでに整っていたことも、
京都ならではの事業展開環境として挙げられる。
http://goethe.nikkei.co.jp/human/100706/02.html