榎本武揚、小野義真も出資して・・・
社団法人 日本土木工業協会 2005年5月号
[大倉喜八郎らによる隅田川堤防の植桜]
文 菊岡 倶也 (Kikuoka Tomoya) 建設産業史家
<墨堤植桜の碑>
―略―
吾妻橋から上流に向かって二つ目の橋が優美なX型の曲線で知られるその名も桜橋。
明るい黄色の歩行者専用橋で隅田公園の一部でもある。
桜橋からほんの少し歩くと長命寺の桜餅の店わきの木立のなかに
「墨堤植桜の碑」が建っている(墨田区向島五丁目一番 隅田公園)。
江戸時代から明治半ばごろまでの隅田川の堤防に植えられた桜の由来を記した碑文である。
かたわらの説明文を読むと、
逓信、農商務,文部,外務の各大臣を歴任した榎本武揚の篆額(てんがく)によるとある。
なぜ榎本かというと、彼の別邸がこのすぐ近くにあったからである。
ここに桜が植えられたはじめは四代将軍家綱のころで、
くだって八代将軍吉宗が享保二年(一七一七)に百本、
同十一年に桜、桃、柳それぞれ百五十本を植えさせ、
維持管理は隅田村の名主が代々担当した。
その後文化年間に百五十本、天保二年二百余本……と桜を植えた年代と氏名が続く。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立。
成島柳北は逝去したがその遺志を継いで、
安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資、
村人の協力を得て墨堤の植桜が完成した。
以上の功績を永く伝えるため、
明治二十年に「墨堤植桜の碑」が建碑されたが、
後に堤が壊れ碑が傾いたので、
明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎とともに起工し、
榎本武揚、小野義真も出資してここに移設したものである。
『東京市史稿 市街編七三』には明治二十一年(一八八八)三月、
白鴎社が向島堤上の桜樹補修費を寄附したと記されている。
大倉の別邸・蔵春閣(本誌一九九三年十月号で書いた)が向島にあり、
その縁から植桜にかかわったのであろう。
こういう碑に触れると嬉しくなる。
http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0505/sanpo.html
社団法人 日本土木工業協会 2005年5月号
[大倉喜八郎らによる隅田川堤防の植桜]
文 菊岡 倶也 (Kikuoka Tomoya) 建設産業史家
<墨堤植桜の碑>
―略―
吾妻橋から上流に向かって二つ目の橋が優美なX型の曲線で知られるその名も桜橋。
明るい黄色の歩行者専用橋で隅田公園の一部でもある。
桜橋からほんの少し歩くと長命寺の桜餅の店わきの木立のなかに
「墨堤植桜の碑」が建っている(墨田区向島五丁目一番 隅田公園)。
江戸時代から明治半ばごろまでの隅田川の堤防に植えられた桜の由来を記した碑文である。
かたわらの説明文を読むと、
逓信、農商務,文部,外務の各大臣を歴任した榎本武揚の篆額(てんがく)によるとある。
なぜ榎本かというと、彼の別邸がこのすぐ近くにあったからである。
ここに桜が植えられたはじめは四代将軍家綱のころで、
くだって八代将軍吉宗が享保二年(一七一七)に百本、
同十一年に桜、桃、柳それぞれ百五十本を植えさせ、
維持管理は隅田村の名主が代々担当した。
その後文化年間に百五十本、天保二年二百余本……と桜を植えた年代と氏名が続く。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立。
成島柳北は逝去したがその遺志を継いで、
安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資、
村人の協力を得て墨堤の植桜が完成した。
以上の功績を永く伝えるため、
明治二十年に「墨堤植桜の碑」が建碑されたが、
後に堤が壊れ碑が傾いたので、
明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎とともに起工し、
榎本武揚、小野義真も出資してここに移設したものである。
『東京市史稿 市街編七三』には明治二十一年(一八八八)三月、
白鴎社が向島堤上の桜樹補修費を寄附したと記されている。
大倉の別邸・蔵春閣(本誌一九九三年十月号で書いた)が向島にあり、
その縁から植桜にかかわったのであろう。
こういう碑に触れると嬉しくなる。
http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0505/sanpo.html