[桑原深造]ネット資料

宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】
宿毛機勢隊の凱旋
9月28日には荘内口の諸藩兵と鶴岡まで行き、10月5日本藩兵と共に帰路につき、
14日京都着、ここで酒肴をふるまわれ軍服修理代として兵士一名について二両もらい、
18日京都発、24日朝8時半大阪よりタアン号に乗り、25日浦戸へ着いている。
30日致道館で本藩兵と共に招魂祭に参加し、12月1日雨の中を船で須崎まで行き、
5日朝市山峠で隊列を整え宿毛の練兵場に帰ってきた。
宿毛機勢隊の凱旋について、『伊賀家日記』によれば
同(12月)5日
越後江出兵之面々今日帰陣致し候事、兵隊人数下の通り
―略―
桑原深造
小野※一 (小野梓)※龍が田の字(小野一雄)
小野※一 (小野梓)※龍が田の字
―略―
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/082801.html

[桑原深造]大阪商船株式会社・重役
【沿革大要】大阪商船株式会社
昭和五年一月一日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1052809/1
創立以来ノ重役 p29/40
創立以来我社ノ重役タリシ人々左ノ如シ。
(姓名下ノ年月ハ在任期間ヲ示ス)
一 頭取副頭取又ハ取締役
―略―
桑原深造氏(自明治十七年十月 至明治十九年一月)
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1052809/29
昭和五年四月十二日印刷
昭和五年四月十七日発行
〔非売品〕
著作兼発行者 大阪商船株式会社
       大阪市北区宗是町一番地
印刷者    濱田正夫
       大阪市南区安堂寺橋通一丁目
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1052809/38
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[桑原深造]
[兼松房治郎の伝記]
当時の新聞は、現在のように、
中立にして大衆一般の視点で書かれたメディアではなかった。
官権の支持または、政界の有力人物を中心にした主義主張の発表メディアだった。
これらの権力に煩わされず、純粋に大阪実業界を基盤とする言論機関設立の声が、
実業家団体「同遊会」により、翁を中心に起こった。
翁は、寺村富栄、桑原深造の2氏と協力して、
「大阪日報」を明治20年3月に買収した。
そして、矢野亨氏(後の大阪府立商業学校長)に経営を委託した。
http://kanegold.com/page33.html

[日本土木会社の理事桑原深造]
[京都ホテルグループ]
●別荘ばやり
神戸港なる川崎造船所長川崎正造氏は、今度常盤楼主人前田又吉の周旋にて、
京都川端夷川下る前田又吉氏の新築せし家屋の北手に、
地所四百余坪を一坪五円にて買い受け茲別荘を建築する由なるが、
川崎氏は将来京都にて一大事業を起こすとの計画もあるよし。
又川崎氏の買得したる北隣り即ち京都倶楽部たりし向側の地所は、
高島中将の所有地なるが、同中将にも茲に別荘を建てる見込みなりと。
又京都倶楽部たりし地は、今度桜井能監その他の所有者より華族五辻安中氏が買得、
五辻氏の別荘を建て且壮大の庭園を作らるゝとの事。
また二条橋西詰の北側なる二条通りと今の前田又吉氏の家屋との間の地面は
、元老院議官渡辺昇氏が買得したるが、同氏は茲に粋な構へを設けられるゝとか。
また過日来修繕に着手中なりし木屋町二条下る処の藤田鹿太郎氏(大阪)の別荘は
其修繕費に一万余円を要し、鴨川の沿岸より庭園に水をひくなど
結構至らざる処なき程なるが、右は本月中に全く竣功の筈なりと。
また河原町二条下る京都織物会社の地所家屋は今度一万二千円にて
日本土木会社の理事桑原深造氏に売渡したるが、桑原氏は茲に別荘を建てるとも云い、
又一説には同氏が一旦買受けおき更に宜買い手を見て手離すの見込みなりともいひ、
又一説には藤田伝一郎氏が内々手を入れて別荘を作るものなりともいへり。
何さま此地は角倉氏が充分の好みを尽し設けたる庭園あり手
京都第一とも呼ばるゝ程なるが、曾て京都勧業課の所有なりしを、
先年京都織物会社が金二万円にて 織殿の家屋および機械を併せ払受けたるも、
同会社は今度川端に新築したるがゆえ右の地所家屋も不用となり、
桑原氏へ売渡すことになりしものなりといふ。
また京都府知事は今度其私宅の近傍に多くの所有地所あるを幸ひ、
其中で尤も眺望よき地を撰み鴨川岸に沿ひ三階立ての大座敷を新築する計画なりといふ。
<11月10日「日出新聞」>
http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no09.html

[桑原深造]
曽良に関する文献として最も大事なものは「奥の細道神名帳抄録」「奥の細道旅日記」
「奥の細道名勝備忘録」「奥の細道俳諧書留」「近畿巡遊記」などがあるが、
これらの資料は「河西本奥の細道」や曽良が旅で用いていた笈とともに
八十年近くも曽良の母の生家の河西家に伝わっていた。
寛政の頃(1789年~1800年)河西家の遠縁に当たる勝森素へきの手に移り、
それから久保島若人、助宣、松平志摩守、桑原深造、斉藤幾太、斉藤浩介などへ、
転々と移り、偶々昭和十三年(1938)の夏、
伊東の斉藤家が虫干ししていた時これが発見され、
昭和十八年(1943)山本安三郎編書「奥の細道随行日記」として、
東京の小川書房から発刊された。
奇しくもこの日が芭蕉二百五十回忌、生誕三百年祭に当たるという。
http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/sora3/sora3.htm

[桑原深造]
これは、近世に長州藩邸があったところに勧業場がおかれ、
やがてそれが閉鎖された後、
同地に開かれた京都ホテルの一隅に伊集院が邸を構えていたことを示すものであろう。
今の廣誠院の位置に明治28年ころ伊集院の邸があったことがわかる。
京都地方法務局所管登記簿で現在廣誠院がある土地の所有者の変遷を辿ると、
明治23年(1890)5月勧業場の土地が分筆されて、
その一部が神戸市に住む前田八十なる人物の所有となり、
以後同年5月大阪の桑原深造、同25年(1892)8月東京の伊集院兼常、
同29年(1896)7月滋賀県の下郷傳平とその所有者をかえる。
明治35年(1902)4月愛媛県新居郡(現新居浜市上原)の廣瀬満正に
所有権が移転後、廣瀬家の所有となり、
昭和に入って法人化されて現在の廣誠院となっている。
このことから明治25年(1892)8月から同29年(1896)7月まで
伊集院がここを所有していたことが明らかである。
この時の伊集院兼常の住所は、「東京市芝区西久保桜川町13番地屋敷」であったから、
東京で活躍していた伊集院はここを別邸として利用していたとおもわれる。
http://kouseiin.org/building-garden.html
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