《立田義元・立田文会堂》[土佐すくも人]
[土佐すくも人]第5号(1988年版)昭和63年10月21日発行
非売品
編集・発行 東京宿毛事務局
〒165 東京都中野区野方1-56-2
津野輔猷方
編集委員 伊賀三省・依岡顯知・吉良慎平・後藤英輔
兵頭武郎・津野輔猷・加藤剛清・小野信哉
印刷 誠宏印刷株式会社
特集 坂本嘉治馬と冨山房 p72-82
―略―
今回、大正から昭和十八年まで冨山房に勤められた
東京宿毛会の旧会員宮尾和氏が幸いにも
往時を語ってくれる機会をえたのでここに掲載する。
座談日は昭和六十二年九月九日で、本誌編集の兵頭・津野・小野が参加した。
宮尾氏は座談日から三カ月後の昭和六十二年十二月
他界されたことを息子さんから知らされた。
ただただ宮尾さんの冥福を祈るのみである。 兵頭記
―略―
兵頭 坂本嘉治馬さんが冨山房を起す時、一番力になった小野義真さん。
その息子さんで映画の弁士をなさっていた小野十五郎さんが
私に宮尾さんをご紹介して下さったのです。
十五郎さんは私の会社へよく遊びに来てくれました。
宮尾 彼も冨山房へ勤務したことがあります。
兵頭 彼は神田が恋しかったのか三カ月に一ぺん程、
私のところへ電話がかかって来て
「お茶飲みにこんかね。」と呼ばれました。
冨山房のあるすずらん通りのコーヒー店で、
馬場昴太郎さんという80歳位のご老人と一緒でした。
有名な馬場辰猪さんの養子さんで、
三人でよく土佐人の政治談議をしました。
私が一番聞きたかったのは、小野義真さんが、
ものすごい金持なんでどうしてそうなったかが知りたいけど
遂に十五郎さんもわからなかったのか話してもらえなかったです。 p74
※ その息子さんで映画の弁士をなさっていた小野十五郎さん=福地悟朗
※ 十五郎さんは私の会社へよく遊びに来てくれました。
株式会社 日本文芸社 取締役社長 兵頭武郎
東京都千代田区神田神保町1-8
〒101 電話03-434-8454(代表) 広告欄p5
宮尾 兵頭さんは立田という人が明治の二十年代頃に
東京で出版やっていたことを聞いたことがありますか。
兵頭 いいえ。はじめて聞きました。
宮尾 小野梓先生と関係が深かった人のようです。
東洋館書店は小野梓先生が作った本屋ですよね。
その時立田という人もいたのではないでしょうか。
梓先生がなくなってから、東洋館は閉鎖になりますね、
その時独立したのか
嘉治馬さんと一緒にやった後で独立したのかわかりませんが、
立田文会堂といっていたらしいですよ。
津野 それはいつまであったんですか。
宮尾 文会堂は立派な本をだいぶ出版したあと、
しばらくしてつぶれたんでしょう。
或いは合併したのかも知れません。
たとえば立田文会堂の原版(紙型)を使用した本が
よく冨山房刊で売られましたものね。
芳賀矢一先生の「国文学十講」とか「国民性十講」とか。
津野 立田さんは宿毛の方ですか。
宮尾 梓先生の親戚であり、小野義真さんの
いとこかはとこのようなことききました。
そういえば宿毛にいまも立田さんという家があるでしょう。
兵頭 立田の敬二さんという人がいて今、宿毛の商工会議所の会頭ですよ。
私も中村中学校の寄宿舎で一緒、京都の下宿でも一緒に過した人ですよ。
当時からきりっとした貴公子でした。
宮尾 そうですか、たいした名家・名門ですよね。
兵頭 こんど敬二さんに連絡して、その立田文会堂のことを聞いてみましょう。
宮尾 私が冨山房へ入った頃、先輩の噂では
文会堂は嘉治馬さんの気をそこねたと
ちらと聞きました。
小野義真さんも両方のめんどうは見なかったのでしょうか。 p81
[土佐すくも人]第5号(1988年版)昭和63年10月21日発行
非売品
編集・発行 東京宿毛事務局
〒165 東京都中野区野方1-56-2
津野輔猷方
編集委員 伊賀三省・依岡顯知・吉良慎平・後藤英輔
兵頭武郎・津野輔猷・加藤剛清・小野信哉
印刷 誠宏印刷株式会社
特集 坂本嘉治馬と冨山房 p72-82
―略―
今回、大正から昭和十八年まで冨山房に勤められた
東京宿毛会の旧会員宮尾和氏が幸いにも
往時を語ってくれる機会をえたのでここに掲載する。
座談日は昭和六十二年九月九日で、本誌編集の兵頭・津野・小野が参加した。
宮尾氏は座談日から三カ月後の昭和六十二年十二月
他界されたことを息子さんから知らされた。
ただただ宮尾さんの冥福を祈るのみである。 兵頭記
―略―
兵頭 坂本嘉治馬さんが冨山房を起す時、一番力になった小野義真さん。
その息子さんで映画の弁士をなさっていた小野十五郎さんが
私に宮尾さんをご紹介して下さったのです。
十五郎さんは私の会社へよく遊びに来てくれました。
宮尾 彼も冨山房へ勤務したことがあります。
兵頭 彼は神田が恋しかったのか三カ月に一ぺん程、
私のところへ電話がかかって来て
「お茶飲みにこんかね。」と呼ばれました。
冨山房のあるすずらん通りのコーヒー店で、
馬場昴太郎さんという80歳位のご老人と一緒でした。
有名な馬場辰猪さんの養子さんで、
三人でよく土佐人の政治談議をしました。
私が一番聞きたかったのは、小野義真さんが、
ものすごい金持なんでどうしてそうなったかが知りたいけど
遂に十五郎さんもわからなかったのか話してもらえなかったです。 p74
※ その息子さんで映画の弁士をなさっていた小野十五郎さん=福地悟朗
※ 十五郎さんは私の会社へよく遊びに来てくれました。
株式会社 日本文芸社 取締役社長 兵頭武郎
東京都千代田区神田神保町1-8
〒101 電話03-434-8454(代表) 広告欄p5
宮尾 兵頭さんは立田という人が明治の二十年代頃に
東京で出版やっていたことを聞いたことがありますか。
兵頭 いいえ。はじめて聞きました。
宮尾 小野梓先生と関係が深かった人のようです。
東洋館書店は小野梓先生が作った本屋ですよね。
その時立田という人もいたのではないでしょうか。
梓先生がなくなってから、東洋館は閉鎖になりますね、
その時独立したのか
嘉治馬さんと一緒にやった後で独立したのかわかりませんが、
立田文会堂といっていたらしいですよ。
津野 それはいつまであったんですか。
宮尾 文会堂は立派な本をだいぶ出版したあと、
しばらくしてつぶれたんでしょう。
或いは合併したのかも知れません。
たとえば立田文会堂の原版(紙型)を使用した本が
よく冨山房刊で売られましたものね。
芳賀矢一先生の「国文学十講」とか「国民性十講」とか。
津野 立田さんは宿毛の方ですか。
宮尾 梓先生の親戚であり、小野義真さんの
いとこかはとこのようなことききました。
そういえば宿毛にいまも立田さんという家があるでしょう。
兵頭 立田の敬二さんという人がいて今、宿毛の商工会議所の会頭ですよ。
私も中村中学校の寄宿舎で一緒、京都の下宿でも一緒に過した人ですよ。
当時からきりっとした貴公子でした。
宮尾 そうですか、たいした名家・名門ですよね。
兵頭 こんど敬二さんに連絡して、その立田文会堂のことを聞いてみましょう。
宮尾 私が冨山房へ入った頃、先輩の噂では
文会堂は嘉治馬さんの気をそこねたと
ちらと聞きました。
小野義真さんも両方のめんどうは見なかったのでしょうか。 p81