[小野栄一郎より小野又一へ]手紙-4/4-昭和47年(1972)2月1日

612 京都市伏見区深草正覚寺町九
小野又一奥様
書留 2564 I 610

消印 昭和47年2月2日

270-11
(昭和47年)2月1日
千葉県我孫子市白山一丁目29-11
小野栄一郎
[香典]
御存知の如く手が不自由とて
汚ない字をおゆるし下さい
思いがけなく又一兄の訃報のお電話に唯
絶句するばかりで申し上げる言葉もございませんでした
誠に残念で残念でたまりません
心よりお悔み申しのべますが
も早や あの元気なお声を耳にする事が出来ないかと思うと
人の世の虚しさをひしひしと哀しく感じます
(昭和)14年卒業 お別れして数年間をおき 終戦後お目にかかりましたが
(昭和)23年小生が京都を離れて以来 到々お会い出来ませんでした
手紙にていつも闊達な お言葉で 明るく勵まして頂き
精神的な より所と さしてもらっていましただけに
又一兄の逝去は全く鉄棒で頭の芯をガンと搞きのめされた思いです。
数年来 激しく心身を使われている御様子なので
内心どうか元気でいて下さるよう案じて居りました処
ノートルダム学院の仕事にタッチなされていると承り
同じくお忙しいにしても若い人を相手に気分転換になり良かった
一度その内 お目にかかり ゆっくり
心ゆくばかり語り合いたいと考えて居りました所とて
全く寂寥の感に堪えません
又一兄には京大三ヶ年親しくして頂き
私の方が年上の筈なのに 人間的に又
社会学的に多くの事を教えて頂きました
当時の想い出は数限りなく
今もはっきり目に浮かぶように残って居ります
私としては又一兄のあの卓抜した鬼才、活力をもっともっと
縦横無尽に発揮される余地があったように思はれる事を口惜しく感じますが
すべて人の世の定めとて致し方ありません
年の暮に京名産 京菜を送って頂き 大切に口に運ばせて頂き
(1月)31日も頂戴している最中に お電話がありました
1月6日付のお便りの中に 70才まで生きるとして80%は過ぎた
あと20% 互に大切に生きようとの 又一兄のお言葉でしたのに
訃報のあと すぐ東京の諏訪部兄に電話しました所 土曜日 退院予定とか
諏訪部君の奥さんのお話では
又一兄はずっと病床におられた由
当方全く知りませんでしたので
お見舞いも出さず失礼しました
身体の都合で 京都へ参ること出来ません
どうか 又一兄の御霊によろしくお伝え下さい
小生 現代の転変はげしい世の中に
悪い身体で生き長らえたくありませんが
又一兄の思いもよらぬ早逝の悲報に接し
その想い 一入です
(昭和47年)2月1日   小野栄一郎
小野奥様
※ ( )小野一雄
1[小野栄一郎より小野又一へ]手紙-4
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6[小野栄一郎より小野又一へ]手紙-4
7[小野栄一郎より小野又一へ]手紙-4

[NOTRE DAME TIMES] 第35号 1972.3.27
発行者 ノートルダム女学院高等学校
    社会部新聞印刷部発行班
    京都市左京区鹿ケ谷桜谷町110
印刷所 森岡印刷所
    大津市中央2丁目
    TEL 大津(23)0574
《小野先生》
本校主事小野又一先生は一月三十一日御逝去された。
二月一日修道院で告別式が行われた。
二月一日。
朝から降り続いていた小雨が止み上がってきた午後三時、
全校生徒の見守る中を小野先生の出棺がしめやかに行われた。
前日の一月三十一日、静かに永眠された小野先生の御遺体は
本校会議室に安置され通夜を過ごされた。
私達生徒にとっては、直接に接することのなかった先生であったが、
あのどっしりとした大きな先生の体が目に浮かぶのは、
やはり影ながらに私達の成長を眺められていたためであろうか。
とにかく私達の心にも惜しい先生を失ったという感が強い。
あるクラスでは、宗教の授業中に会議室に安置されている先生に祈りを捧げてきたり、
また帰りのH・Rでも残された遺族の方々のために黙礼などをしたが、
それが私達のできる範囲内での先生に対する心の表現であったと思う。
小野先生にとっては短いノートルダム生活であられたが、
私達生徒やノートルダムに何かを残していってくださったと思われる。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176736.html

[清流]第24号《小野先生を偲ぶ》『シスター メリー キャサリン』p4
《小野先生を偲ぶ》
『シスター メリー キャサリン』
小野先生の御病気中と御死去に際しまして
みなさまからお寄せいただきましたお祈り、
献血などの御厚意本当に有難うございました。
故人と御遺族にかわりまして心からお礼申し上げます。
小野先生がノートルダムにおいでになったのは、昨年八月でした。
在職期間わずか五か月間でしたが、
私共職員一人一人の心に深いつながりを残された方でした。
小野先生は学校のあらゆる面に関心と興味を示され、
一日も早くノートルダムを理解するよう努めてられました。
―略―
ノートルダムを真に愛された先生は、
これからは天国から見守ってくださることと信じております。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176742.html

[清流]第24号 昭和47年(1972)2月26日
ノートルダム女学院 父母の会
「いと高き所には 神に栄光 地には善意の人々に平和」
(ルカ2章14節)
[清流]第24号:《弔辞》椹木義一 p3
《弔辞》
謹んで今は亡き親友小野又一君の御霊に捧げます。
君と私がはてしない大きな希望と夢に胸をふくらませてあこがれの
第三高等学校の門をくぐったのは四十年前のことです。
―略―
でわ小野君、安らかに永遠にお眠り下さい。
昭和四十七年二月一日
椹木義一
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2176741.html