『後藤英輔:浜口庫之助の思い出 p28-33』
庫ちゃんはたった二つ違いの兄弟分だが、
今振りかえって見ると大先輩のような感じで
私に得難い貴重な思い出を沢山のこしてくれた。
亡くなって十年近くなるのでヒット曲だけは
今でもひとり歩きして歌われているが、
「浜口庫之助」の名は忘れかけている。
―略―
庫ちゃんは大正六年神戸で
宿毛出身者で実業界の立志伝中の一人の裕福な家庭に生まれた。
七人兄弟姉妹の下から二番の子で、
ハイカラな洋館の家の応接間には当時珍しいグランドピアノが置かれて
家族全員で楽器を弾いて合奏しあうような音楽一家の中で育った。
彼は文字通りゼロ才から音楽教育をうけて大きくなったので
五つの頃から楽譜が読めたそうだ。
―略―
東京府立四中(現在の戸山高校)卒業後、
早稲田の建築科に入学したが中退し、
音楽でかせいだり、一時神戸製鋼で工員生活したりしたが
遅くなって青山学院に入り直した。
戦争中はインドネシアのコーヒー栽培会社で働いていたが、
音楽の才と芸が身を助けてそちらの面で活躍していたそうだ。
―略―
またお父さんが帝国ホテルの社長だった犬丸一郎さんや
その仲間とジャズバンドを結成して
ホテル、進駐軍のクラブ等で大いにかせぎまくっていた。
その後彼は、にわかに華やかな歌手、演奏家の活動をやめて
音楽の道をもう一度一からやり直して出直そうと大決心した。
昭和三十一年コロンビアの専属の作曲家として再出発した。
私の勤め先である公取も
その当時内幸町の古色蒼然たる第二大蔵ビルで
コロンビア本社と同居しており、
私の部屋はその宣伝部とすぐ隣り合わせだった。
戦後彼とは、始め東京宿毛会で会って再会が始まったが、
それ以来附き合いは頻繁となり身近なものとなった。
その上彼は自由で公正な民主的経済社会づくりを目指す独禁法、
公取に興味をもって私の仕事のこともよく理解してくれた。
そんなことからも二人の交友は
芸能界と役人社会という全くちがった世界だったが
深く親しくなっていった。
お互いの持つ異質な友人関係はやがて
いもづるのようにもつれ合って
彼のヒット曲にちなんだ「サクランボ会」という
当時政官財芸能界で活躍している大小さまざまの人達が群れ集る会が生まれた。
帝国ホテルで犬丸さんの肝入りで役人の吉国一郎、二郎兄弟等が中心となって
何の意味も目的もなく、飲んで食べて語って歌って楽しく遊ぶ会が続いた。
興がのれば彼は自らギターを弾き低い絶妙な浜庫調で
お弟子さん達とともに歌ってくれたものだった。
そんな折、彼が歌った歌のいくつかにも
私には色んな思い出がのこっている。
―略―
「鉛筆が一本」
毎日新聞をやめて自分の新聞を作った大森実さん、文芸春秋の田川博一さん、
そして庫ちゃんと四人でゴルフをしたあとある酒場に集まった夜のことだった。
大森さんの若い部下がベトナムの戦争の取材に行き、
戦場で地雷を踏んで死んだことを涙ぐんで話していた。
庫ちゃんは黙って聞いていたが
やって来た演歌師からギターを借りて軽く奏でながら低い声で
この曲を考え考え歌い始めた。
それは赤と白との戦のなかにエンピツ一本を武器に飛びこんで行った
ジャーナリストの心を見事にあらわしていた。
あの時の状景が今も目に耳にのこっている。
「夜霧よ今夜も有難う」
何時だったか山中湖のゴルフ場で
私の友人で当時山梨県警本部長の丸山昂さんと
庫ちゃんと三人でゴルフをしていた。
後ろから二回もボールを打ち込んで来る失礼なプレーヤーがいた。
注意しようとして見たらなんと石原裕次郎だ。
スキーで足を折り、大分良くなってリハビリでゴルフを始めたという。
途中から一緒にプレーをする道々
彼は庫ちゃんに
「骨折で長い間仕事ができなかったため税金がガボッときて参ってしまった。
先生、何とか良い曲をつくってくれませんか」とたのんでいた。
「税金で困っているんじゃ他人事ではない。何とか考えよう」
と彼もいっていた。
大分経ってある時、狸穴の彼のマンションにいったら
庫ちゃんはピアノ弾きながら
「ゴルフの時たのまれたのはこの歌だよ」と、
この「夜霧よ今夜も有難う」をきかせてくれた。
その時
「裕次郎は一寸音痴のところがあるからこのくらいの曲がいいんだ」
と云った彼の言葉が何故か印象に残っている。
あとでこの曲の他に「粋な別れ」もこの時一緒に
裕次郎の税金のためにつくったんだということをきいた。
これもヒットした。
―略―
その後庫ちゃんは長い独身生活にふん切りをつけて
二七才も違う若い女優の渚真弓さんと結婚した。
私は妙な縁で仲人をつとめたが
これは彼は多分年の違いが照れくさかったのだろうと思った。
二人は新婚旅行に両方の里帰りをした。
宿毛に来た時高知から車で七時間以上もかかったので
真弓さんは日本にまだこんな地の果てのような処があるのかしらと
自分の故郷の寒い雪の秋田を見直していた。
しかし片島の国民宿舎の前にあったロッジに泊まって始めて
真弓さんは宿毛の海山川の自然の美しさと
新鮮な魚のおいしさに都会では得られない
そして雪国の秋田とは全くちがう
温かい南国の良さを知ったようだった。
―略―
二月五日、私は、その昔二人の縁結びの仲人をした同じ富士見町教会で
今度は彼の葬儀委員長をせざるをえなくなった。
「庫ちゃんはソユーズのあとを追って天国にいった。
ソユーズはやがて地球に戻って秋山記者も地上に生還するでしょう。
だが庫ちゃんはもう戻って来ない。
しかし彼がのこした四千の歌は今もそして
これからも長く歌われ続けられるでしょう。
この歌と共に彼は私達の心に生きつづけるだろう」
会葬して下さった皆さんに私はこういって御挨拶をした。
彼との縁は宿毛、中学校、仲人、葬儀委員長そして歌と心。
私にとっては彼とは今でも切っても切れない仏縁で結ばれている。
(ごとう えいすけ 全国公正取引協議会連合会副会長)
[土佐すくも人]第15号(1999年版) 平成11年4月9日発行
非売品
編集・発行 三元社
〒165-0027 東京都中野区野方1-56-2
津野輔猷方
編集委員 伊賀三省・後藤英輔・兵頭武郎・津野輔猷・加藤剛清・小野信哉
印刷 株式会社アイガー
大森実と「エンピツが一本」
<< 作成日時 : 2010/03/28 05:52 >>
Kita, WHO?
1948年大阪生まれ。
38年勤務した新聞社を2010年6月退職。
趣味は渓流釣り、映画、音楽(クラシック、特にモーツアルト)鑑賞。
58歳から漢字書道を始め、2010年11月、北海書人社認定の師範。
号は景泉。孫娘2人。
キタの手元に一冊の本があります。
「エンピツ一本」(講談社刊) 大森実70歳の著作。
―略―
なお、浜口庫之助作詞、作曲、坂本九歌の「えんぴつが一本」は
不遇の時代にいる大森を励ますためにハマクラが作ったとされています。
上記著作「エンピツ一本」上を買ったまま、きちんと読まず、
下も買っていないのはなぜだろう。
上をいまあらためて読み始めています。
若いころは、大先輩の能書きを読むより、
自分のやっていることで精一杯だったのかもしれません。
もっと謙虚に先輩の足跡を参考にしていたら、
もう少し違った記者生活をおくったのかもしれません。
もう後の祭りです。
http://makanangin.at.webry.info/201003/article_43.html
庫ちゃんはたった二つ違いの兄弟分だが、
今振りかえって見ると大先輩のような感じで
私に得難い貴重な思い出を沢山のこしてくれた。
亡くなって十年近くなるのでヒット曲だけは
今でもひとり歩きして歌われているが、
「浜口庫之助」の名は忘れかけている。
―略―
庫ちゃんは大正六年神戸で
宿毛出身者で実業界の立志伝中の一人の裕福な家庭に生まれた。
七人兄弟姉妹の下から二番の子で、
ハイカラな洋館の家の応接間には当時珍しいグランドピアノが置かれて
家族全員で楽器を弾いて合奏しあうような音楽一家の中で育った。
彼は文字通りゼロ才から音楽教育をうけて大きくなったので
五つの頃から楽譜が読めたそうだ。
―略―
東京府立四中(現在の戸山高校)卒業後、
早稲田の建築科に入学したが中退し、
音楽でかせいだり、一時神戸製鋼で工員生活したりしたが
遅くなって青山学院に入り直した。
戦争中はインドネシアのコーヒー栽培会社で働いていたが、
音楽の才と芸が身を助けてそちらの面で活躍していたそうだ。
―略―
またお父さんが帝国ホテルの社長だった犬丸一郎さんや
その仲間とジャズバンドを結成して
ホテル、進駐軍のクラブ等で大いにかせぎまくっていた。
その後彼は、にわかに華やかな歌手、演奏家の活動をやめて
音楽の道をもう一度一からやり直して出直そうと大決心した。
昭和三十一年コロンビアの専属の作曲家として再出発した。
私の勤め先である公取も
その当時内幸町の古色蒼然たる第二大蔵ビルで
コロンビア本社と同居しており、
私の部屋はその宣伝部とすぐ隣り合わせだった。
戦後彼とは、始め東京宿毛会で会って再会が始まったが、
それ以来附き合いは頻繁となり身近なものとなった。
その上彼は自由で公正な民主的経済社会づくりを目指す独禁法、
公取に興味をもって私の仕事のこともよく理解してくれた。
そんなことからも二人の交友は
芸能界と役人社会という全くちがった世界だったが
深く親しくなっていった。
お互いの持つ異質な友人関係はやがて
いもづるのようにもつれ合って
彼のヒット曲にちなんだ「サクランボ会」という
当時政官財芸能界で活躍している大小さまざまの人達が群れ集る会が生まれた。
帝国ホテルで犬丸さんの肝入りで役人の吉国一郎、二郎兄弟等が中心となって
何の意味も目的もなく、飲んで食べて語って歌って楽しく遊ぶ会が続いた。
興がのれば彼は自らギターを弾き低い絶妙な浜庫調で
お弟子さん達とともに歌ってくれたものだった。
そんな折、彼が歌った歌のいくつかにも
私には色んな思い出がのこっている。
―略―
「鉛筆が一本」
毎日新聞をやめて自分の新聞を作った大森実さん、文芸春秋の田川博一さん、
そして庫ちゃんと四人でゴルフをしたあとある酒場に集まった夜のことだった。
大森さんの若い部下がベトナムの戦争の取材に行き、
戦場で地雷を踏んで死んだことを涙ぐんで話していた。
庫ちゃんは黙って聞いていたが
やって来た演歌師からギターを借りて軽く奏でながら低い声で
この曲を考え考え歌い始めた。
それは赤と白との戦のなかにエンピツ一本を武器に飛びこんで行った
ジャーナリストの心を見事にあらわしていた。
あの時の状景が今も目に耳にのこっている。
「夜霧よ今夜も有難う」
何時だったか山中湖のゴルフ場で
私の友人で当時山梨県警本部長の丸山昂さんと
庫ちゃんと三人でゴルフをしていた。
後ろから二回もボールを打ち込んで来る失礼なプレーヤーがいた。
注意しようとして見たらなんと石原裕次郎だ。
スキーで足を折り、大分良くなってリハビリでゴルフを始めたという。
途中から一緒にプレーをする道々
彼は庫ちゃんに
「骨折で長い間仕事ができなかったため税金がガボッときて参ってしまった。
先生、何とか良い曲をつくってくれませんか」とたのんでいた。
「税金で困っているんじゃ他人事ではない。何とか考えよう」
と彼もいっていた。
大分経ってある時、狸穴の彼のマンションにいったら
庫ちゃんはピアノ弾きながら
「ゴルフの時たのまれたのはこの歌だよ」と、
この「夜霧よ今夜も有難う」をきかせてくれた。
その時
「裕次郎は一寸音痴のところがあるからこのくらいの曲がいいんだ」
と云った彼の言葉が何故か印象に残っている。
あとでこの曲の他に「粋な別れ」もこの時一緒に
裕次郎の税金のためにつくったんだということをきいた。
これもヒットした。
―略―
その後庫ちゃんは長い独身生活にふん切りをつけて
二七才も違う若い女優の渚真弓さんと結婚した。
私は妙な縁で仲人をつとめたが
これは彼は多分年の違いが照れくさかったのだろうと思った。
二人は新婚旅行に両方の里帰りをした。
宿毛に来た時高知から車で七時間以上もかかったので
真弓さんは日本にまだこんな地の果てのような処があるのかしらと
自分の故郷の寒い雪の秋田を見直していた。
しかし片島の国民宿舎の前にあったロッジに泊まって始めて
真弓さんは宿毛の海山川の自然の美しさと
新鮮な魚のおいしさに都会では得られない
そして雪国の秋田とは全くちがう
温かい南国の良さを知ったようだった。
―略―
二月五日、私は、その昔二人の縁結びの仲人をした同じ富士見町教会で
今度は彼の葬儀委員長をせざるをえなくなった。
「庫ちゃんはソユーズのあとを追って天国にいった。
ソユーズはやがて地球に戻って秋山記者も地上に生還するでしょう。
だが庫ちゃんはもう戻って来ない。
しかし彼がのこした四千の歌は今もそして
これからも長く歌われ続けられるでしょう。
この歌と共に彼は私達の心に生きつづけるだろう」
会葬して下さった皆さんに私はこういって御挨拶をした。
彼との縁は宿毛、中学校、仲人、葬儀委員長そして歌と心。
私にとっては彼とは今でも切っても切れない仏縁で結ばれている。
(ごとう えいすけ 全国公正取引協議会連合会副会長)
[土佐すくも人]第15号(1999年版) 平成11年4月9日発行
非売品
編集・発行 三元社
〒165-0027 東京都中野区野方1-56-2
津野輔猷方
編集委員 伊賀三省・後藤英輔・兵頭武郎・津野輔猷・加藤剛清・小野信哉
印刷 株式会社アイガー
大森実と「エンピツが一本」
<< 作成日時 : 2010/03/28 05:52 >>
Kita, WHO?
1948年大阪生まれ。
38年勤務した新聞社を2010年6月退職。
趣味は渓流釣り、映画、音楽(クラシック、特にモーツアルト)鑑賞。
58歳から漢字書道を始め、2010年11月、北海書人社認定の師範。
号は景泉。孫娘2人。
キタの手元に一冊の本があります。
「エンピツ一本」(講談社刊) 大森実70歳の著作。
―略―
なお、浜口庫之助作詞、作曲、坂本九歌の「えんぴつが一本」は
不遇の時代にいる大森を励ますためにハマクラが作ったとされています。
上記著作「エンピツ一本」上を買ったまま、きちんと読まず、
下も買っていないのはなぜだろう。
上をいまあらためて読み始めています。
若いころは、大先輩の能書きを読むより、
自分のやっていることで精一杯だったのかもしれません。
もっと謙虚に先輩の足跡を参考にしていたら、
もう少し違った記者生活をおくったのかもしれません。
もう後の祭りです。
http://makanangin.at.webry.info/201003/article_43.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇