《父、小野梓のこと》小野安:[早稲田學報]昭和30年11月号
小野 梓 特輯 11月號
《父、小野梓のこと》小野安 p5
私の父小野梓が逝くなりまして、はや七十年でございます。
その時はまだ満二年餘の幼兒でございました私には、
父についての思い出が、残っている筈もなく、また残ってもおりませんが、
成年いたしましてから、父がとくに御厄介になりました大隈重信侯や
そのほか父の最も親しくしていただいた方々から、種々お話を伺い、
おぼろげながらも瞼に残る父の俤を慕いつつ、
思い出に連るものをいくらかでも書いて、
紙面を汚すことを先ずおゆるし願いたいと存じます。
父は全く子煩悩な人でございました。
私の姉が(既に八年前に故人となりました)勿論幼い時でございますけれど、
大病を患いました時などつねに執って居りました著述の筆を投げうち、
役所さえも休んで、
十日に近い間を看護に費したこともあったそうでございますし、
また私が誕生いたしました日(明治十六年九月十二日でございますが)
その日は恰度早稲田大學の前身東京専門学校の新築されました講堂で、
父が演説いたしました日でございますが、
その日の日記に、私の誕生を喜んで、郷里の高知県宿毛(現在の宿毛)や
その他あちらこちら通知の手紙を認めた由もみえており、
七夜の名付けの日には、
父自ら庖丁をとって祝いの肴を調理したそうでございます。
それ程、可愛がってくれました父も喀血が激しくなり、
私たち子供は傳染をおそれて
その傍に近よる事を許されなくなりましたので、
父も嘸歯痒い思いをいたしたことだろうと存じますが、
私にいたしましてもそれ以後は、
父の逝くなりますまで
その胸に抱かれることのなかったことを、
いまだに心残りに存じております。
これは餘談になるかとは存じますけれど、
大隈侯から承りましたのでございますが、
父は始終私を抱いては大隈侯邸をお訪ねいたしましたが、
その節、侯御夫妻は特に私を御愛撫下さいまして、
私の排尿のお世話までいただき、
むつきを汚すようなことは絶えてなかった由でございました。
また私が成人いたしました後も、同邸へ伺い、
おいとまをいたします節には、
必ず奥様が『安子さんおしっこは』と御注意下すって、
一入近親感を深くいたしましたが、
これも父へつながる思い出の一つでございませんでしょうか。
また大隈侯は、私が醫師をいたしておりましたものでございますから
『私は國の病を治すから、あなたは人の病を治す天職にはげんで下さい』
と仰有いましたことを附け加えさせていただきます。
父は若くして宇内和世界國家主義を提唱いたしており、
人の和ということを口に酸っぱくして申していましたそうで、また
『どんな人にも必らず何か長所がある。
たとえ盗賊と雖も、どこかにとるべき長所があるものだ』
とつねに口にいたして居りました由を
私は肝に銘じて處世いたして参りました。
最初にも申しましたように、
幼くして父に別れました私には、
淡い思い出さえなく、父の思い出を語ることは
まことにおこがましくは存じましたが、
此度父の七十年の追悼祭を、
早稲田大學で執り行って下さいますのを機に、
本誌へ何か書けとの仰せに、
拙き筆をとりましたことをお許し願いとう存じます。
誌上を拝借いたしまして失禮かとは存じますが、
此度の亡父に対し種々のお催し下さいますことを厚くお禮を申上げます。
<小野梓先生御遺族の連絡先> p11
小野先生次女安氏、安氏嗣子又一氏の御住所は左記の通り。
住所 京都市東山区區清水五ノ三七
奥付 p40
[早稲田學報]
通巻 六百五十五號
復刊 第九巻第九號
定價 五十圓(送料四圓)
昭和三十年十一月 十 日 印刷
昭和三十年十一月十五日 発行
編輯兼發行者 丹尾磯之助
印刷者 安井俊雄
印刷所 早稲田大學印刷所
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
發行所 早稲田大學校友會
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電話(34)二一四〇~九
振替 東京八九八六
投書その他編輯事務廣告一切は左記へ
早稲田學報編輯室 本部二階
電話(34)二一四〇~九
裏表紙
[早稲田學報]
創刊 明治三十年
通巻 六百五十五號
昭和二十二年九月二十七日
第三種郵便物認可
復刊 第九巻 第九號
昭和三十年十一月十五日發行
(毎月十五日一回)
定價 金五十圓
小野 梓
嘉永 5年(1852) 2月20日 生 (新暦3月10日)
明治19年(1886) 1月11日 歿 34歳
小野 墨(松村 墨)
明治11年(1878)10月18日 生
昭和22年(1947) 2月14日 歿 69歳
小野 安
明治16年(1883) 9月12日 生
昭和41年(1966) 4月 1日 歿 83歳
小野 梓 特輯 11月號
《父、小野梓のこと》小野安 p5
私の父小野梓が逝くなりまして、はや七十年でございます。
その時はまだ満二年餘の幼兒でございました私には、
父についての思い出が、残っている筈もなく、また残ってもおりませんが、
成年いたしましてから、父がとくに御厄介になりました大隈重信侯や
そのほか父の最も親しくしていただいた方々から、種々お話を伺い、
おぼろげながらも瞼に残る父の俤を慕いつつ、
思い出に連るものをいくらかでも書いて、
紙面を汚すことを先ずおゆるし願いたいと存じます。
父は全く子煩悩な人でございました。
私の姉が(既に八年前に故人となりました)勿論幼い時でございますけれど、
大病を患いました時などつねに執って居りました著述の筆を投げうち、
役所さえも休んで、
十日に近い間を看護に費したこともあったそうでございますし、
また私が誕生いたしました日(明治十六年九月十二日でございますが)
その日は恰度早稲田大學の前身東京専門学校の新築されました講堂で、
父が演説いたしました日でございますが、
その日の日記に、私の誕生を喜んで、郷里の高知県宿毛(現在の宿毛)や
その他あちらこちら通知の手紙を認めた由もみえており、
七夜の名付けの日には、
父自ら庖丁をとって祝いの肴を調理したそうでございます。
それ程、可愛がってくれました父も喀血が激しくなり、
私たち子供は傳染をおそれて
その傍に近よる事を許されなくなりましたので、
父も嘸歯痒い思いをいたしたことだろうと存じますが、
私にいたしましてもそれ以後は、
父の逝くなりますまで
その胸に抱かれることのなかったことを、
いまだに心残りに存じております。
これは餘談になるかとは存じますけれど、
大隈侯から承りましたのでございますが、
父は始終私を抱いては大隈侯邸をお訪ねいたしましたが、
その節、侯御夫妻は特に私を御愛撫下さいまして、
私の排尿のお世話までいただき、
むつきを汚すようなことは絶えてなかった由でございました。
また私が成人いたしました後も、同邸へ伺い、
おいとまをいたします節には、
必ず奥様が『安子さんおしっこは』と御注意下すって、
一入近親感を深くいたしましたが、
これも父へつながる思い出の一つでございませんでしょうか。
また大隈侯は、私が醫師をいたしておりましたものでございますから
『私は國の病を治すから、あなたは人の病を治す天職にはげんで下さい』
と仰有いましたことを附け加えさせていただきます。
父は若くして宇内和世界國家主義を提唱いたしており、
人の和ということを口に酸っぱくして申していましたそうで、また
『どんな人にも必らず何か長所がある。
たとえ盗賊と雖も、どこかにとるべき長所があるものだ』
とつねに口にいたして居りました由を
私は肝に銘じて處世いたして参りました。
最初にも申しましたように、
幼くして父に別れました私には、
淡い思い出さえなく、父の思い出を語ることは
まことにおこがましくは存じましたが、
此度父の七十年の追悼祭を、
早稲田大學で執り行って下さいますのを機に、
本誌へ何か書けとの仰せに、
拙き筆をとりましたことをお許し願いとう存じます。
誌上を拝借いたしまして失禮かとは存じますが、
此度の亡父に対し種々のお催し下さいますことを厚くお禮を申上げます。
<小野梓先生御遺族の連絡先> p11
小野先生次女安氏、安氏嗣子又一氏の御住所は左記の通り。
住所 京都市東山区區清水五ノ三七
奥付 p40
[早稲田學報]
通巻 六百五十五號
復刊 第九巻第九號
定價 五十圓(送料四圓)
昭和三十年十一月 十 日 印刷
昭和三十年十一月十五日 発行
編輯兼發行者 丹尾磯之助
印刷者 安井俊雄
印刷所 早稲田大學印刷所
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
發行所 早稲田大學校友會
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電話(34)二一四〇~九
振替 東京八九八六
投書その他編輯事務廣告一切は左記へ
早稲田學報編輯室 本部二階
電話(34)二一四〇~九
裏表紙
[早稲田學報]
創刊 明治三十年
通巻 六百五十五號
昭和二十二年九月二十七日
第三種郵便物認可
復刊 第九巻 第九號
昭和三十年十一月十五日發行
(毎月十五日一回)
定價 金五十圓
小野 梓
嘉永 5年(1852) 2月20日 生 (新暦3月10日)
明治19年(1886) 1月11日 歿 34歳
小野 墨(松村 墨)
明治11年(1878)10月18日 生
昭和22年(1947) 2月14日 歿 69歳
小野 安
明治16年(1883) 9月12日 生
昭和41年(1966) 4月 1日 歿 83歳