《小野梓先生七十周年:記念祭 記》[早稲田學報]昭和30年12月号

本年は小野先生逝去七十年にあたるので、
學園においては十一月十七、八、九の三日間盛大な記念祭をおこなった。
以下はその概況である。

小野梓先生の記念祭の準備なった十一月十六日夜、
今回の祭典にまねかれた先生の次女にあたる安子女史と、
女史の嗣子又一氏が京都より上京、
丹尾理事が東京驛に迎え宿舎にあてられた校友會館に案内した。

翌十六(※十七)日より祭典の行事がくりひろげられた。
この日午前十一時、學園當局を代表する各理事、部課長、遺族、
梓先生とゆかりの深い冨山房の代表者、
さらに學生を代表する雄辯會會員など
約三十名が、六臺の自動車をつらね梓先生が眠る谷中の墓地へ向った。
墓地は静寂そのものである。
雲のあいまからうす日が差し、
石碑や墓標や立木が淡いかげをつくって佇立するなかを一行は進んでいった。
おもいだすように街の喧噪が、この静かな空氣をふるわしている。
やがて一行は先生の墓の前にたった。
墓碑に刻まれている「東洋小野梓墓」の號と名前は
よくされた先生の直筆であるという。
香の紫の煙が石碑をつたってゆらゆらと立ちのぼる。
敬虔な祈りを捧げ、凝然と立つ人びとの脳裡に去来したものは
一體何んであったろうか。
暫時ののち記念寫眞をとり、一行が歸校したのは十二時過ぎであった。

十八日、九時半から始まる記念祭式典に先立ち、
大隈庭園で梓先生の胸像禮拝式がおこなわれた。
大隈講堂を背にし、立木に囲まれた胸像の両側には花輪がかざられ、
禮拝者は早朝から庭園につめかけた。

禮拝式がおわるころ、式場にあてられた共通教室の講堂は
教職員、學生でもう立錐の餘地さえなかった。

やがて安子女史、又一氏、學園各理事、林譲治氏らが中央に祭壇をしつらえ
梓先生の肖像をかざった檀上の席につき、ただちに式典に入った。
式は大塚庶務部長の開式の辭にひきつづき同氏の司會で、
全員起立の上、梓先生の業績に對して感謝の禮拝がおこなわれ、
次ぎに總長式辭に移ったが、總長の歸朝がおくれたため阿部常任理事が代理で
「學園にとっては大恩人である梓先生、先生も月日とともに忘れられていくが、
大學としてはことごとに先生を想い起し、みずからを鞭打たねばならない」と語り、
つぎに小野安子女史が
「このたびは思いがけないみなさまのおぼしめしによって、
このように盛んな祭典が催され、地下の靈はもちろんのことでありましょうが、
遺族のよろこびはこの上なく、お禮の申しようもありません」
とくりかえし感謝の言葉を述べた。

ついで衆議院議員林譲治氏と文部大臣松村謙三氏の記念講演に移り、
林氏は
「梓先生とは郷里が同じであるばかりではなく、多少緣がある。
先生の幼少の頃、若き日の俤」
を話してみたいと冒頭に述べ、さまざまなエピソードを話した。

松村氏は氏が大隈老候づきの記者であったころの思い出を淡々と語り、
話は老候と梓先生の關係また老候と梓先生の遺族の關係などに及んだ。

ついで校歌を齋唱し十二時十五分前式を閉じた。

正午から尾崎士郎原作の映畫「早稲田大學」が上演され、
人びとは畫面を通じてありし日の梓先生を偲んだ。

當日はまた演劇「小野梓」が二時より二回上演され多大な感銘を與えた。
劇の梗概については先月號の本誌に紹介しているので、
ここではスタッフを記するに止める。
製 作  河竹繁俊
作    野澤英一
演 出  加藤長治
装 置  遠山静雄
照 明  小川昇
舞臺監督 稲垣勝
出 演  加藤精一
     近代劇場
     早大藝術科學生
―略―
(落合 記) p21-23

[早稲田學報]昭和30年12月号
1《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
3《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
谷中墓地 小野安子 小野又一
4《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
小野梓胸像前 前列右から四人目 林譲治衆議院議員
5《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
大隈重信銅像前 中央 松村謙三文部大臣
6《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
總長代理 阿部常任理事
7《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
小野安子(小野梓 次女)
8《小野梓先生七十周年:記念祭 記》
松村謙三文部大臣
9《小野梓先生七十周年:記念祭 記》