斉藤一寛教授・書簡:昭和47年7月13日(木)

《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》

小野文子様
斉藤一寛
謹啓
いよいよ御健勝の御事と推察申上げます
今秋、早稲田大学創立九十年を迎えるに当り、
寸暇を得て小野梓について、若干の記憶を喚び起こすために
次のことについて?しく調べてみました
(1) 梓の言う「学問の独立」の意味
    (「早稲田学報・四六年一〇号」)
(2)著書「国憲汎論」の上表文却下の経緯(「早稲田大学史記要第五号」)
(3)早稲田大学と小野義真との関係(同右、別冊)
(4)東京在住地の確認(同右)
(5)小野家の略系図
以上はすでに発表しましたので、
御高覧を得た方もあると思いますが、
今回(2)の抜刷が出来ましたのでお届けいたします
なお、不備の点など御教示頂ければ幸甚に存じます
敬具
七月十三日
小野文子様
斉藤一寛
※ 昭和47年(1972)7月13日(木)
1斉藤一寛教授・書簡:昭和47年
[小野梓著『国憲汎論』の上表白文について
斉藤一寛
早稲田大学史記要 第五巻 抜刷
四 『上国憲汎論表』について p158-159
筆者は昭和四十六年五月上旬、
宿毛時代の小野梓の生活や小野家の家系などを確かめるために、
彼の故郷宿毛を訪れた。
予定は十日間、折りからの霖雨で行動は拘束され、
小野梓の遺族の方々、土地の古老、遺跡、
墓地などを廻るだけで相当の時間を費した。
幸い宿毛市役所、市教育委員会、公民館、
特に菩提寺清宝寺を守る住職清家省三氏の御尽力により、
遺族および関係者の方々が、
一堂に集会して資料を照合したり、記憶を喚起したり、
古文書の被見、その複写など、作業は徐々に進展した。
梓の生れた宿毛の自然である背景もまた見逃してはならなかった。
「預言者は故郷に入れられない。」
と言われているが梓の場合はそうではなかった。
梓を敬慕する人々の助力によって
辛うじて初期の目標はほぼ達せられた。
五月六日の午後、
清宝寺の庫裡を訪れた際、
清家氏と談たまたま梓の『国憲汎論』に及んだ。
清家氏は別棟の建物から一巻の軸を持って来た。
それは梓の「手写」になる
「上国憲汎論表」を表装したものであった。
天地約一五〇センチメートル、
巾約七〇センチメートルの
古色蒼然とはしているが損傷のない一軸であった。
軸を掲げて清家氏と共その一字一字を拾うようにして読み下した。
それには楷書で次のように書かれていた。
―略―
※ 昭和46年(1971)5月6日(木)
2斉藤一寛教授・書簡:昭和47年