小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》
[早稲田学報]1972年12月号
小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
一 八十七回忌法要
昭和四十七年十月七日、
宿毛は朝から晴れ上がった爽やかな日を迎えた。
この日は標題に示した通り、
小野梓の故郷高知県宿毛市において、
梓の八十七回忌法要を営み、
かつ建墓・除幕式の行われる日であった。
周知の通り早稲田大学は本年建学九十周年を迎えた。
この九十周年を記念するためにいろいろの行事が催されたが、
建学の母ともいうべき小野梓の墓を、小野家の墓地内の、
彼の遺髪の埋葬されている跡に建立することが
記念事業の一つとして企画された。
この企画は昭和四十六年五月から着手され、
村井総長の指示で浜田総長室長、元施設部長の杉浦巴氏、
それに筆者が現地に赴いてつぶさに現場を視察し綿密な計画が進められた。
筆者はさらに旬日を重ね宿毛に滞在して、
小野梓の系図を、親族をはじめ、土地の古老、郷土史家、
図書館などで若干の資料を得て、
「小野家略系図」の作成に当り、
本年三月未定稿として刊行した。
爾来一年五か月にして、
この年、この月、この日に建墓・除幕式が行われることになったのである。
墓は左に父義與、母助野の墓石、
右に養子義実(梓の義兄)の墓石の間の中央、
少しく後方に下った個所に建てられた。
墓石はスウェーデン産のブルー・パールblue pearl と呼ばれるもの、
白味がかった地に薄い青色を掃いた、高貴、純潔な色調を帯びている。
墓の高さ八一センチ、幅八五センチの横墓で、
表面には横書きで「東洋小野梓之墓」、
裏側には梓の信念を表わした彼の銘句
一国の独立は国民の独立
に基し、国民の独立はその
精神の独立に根ざす 而して
国民精神の独立は実に
学問の独立に由る
早稲田大学総長 村井資長書
と刻まれている。〔以下字配りによらず〕
向って右側面には
「早稲田大学創立九十周年の歳
昭和四十七年十月 早稲田大学 建立」
と刻まれ、
左側面には
「収遺髪 願入院釋東洋居士
嘉永五年二月二十日生 明治十九年一月十一日歿
行年三十五才」
と彫られている。
これらの文字は村井資長総長自らの揮毫になるものである。
式に先立って午後一時、
小野家の菩提寺清宝寺本堂で八十七回忌の法要が営まれた。
参列者約八十五名、
むろん梓の直系、
第三代の一雄氏、
故二代又一(昭和四十七年一月三十一日歿)の未亡人文子夫人、
次男の雄二氏はじめ親族の方々、
近県から馳せ参じた校友、知人、
それに大学側村井総長、阿部元総長、
増田・清水両常任理事、浜田総長室長以下十二名が着座した。
型の如く開会の辞から、清家省三師が導師となり読経に入る。
嗚咽がそこかしこから聞える。
同氏は次のような表白文を読み上げる。
表白文
末燈鈔に曰く。
「ちかいのやうは、無上仏にならしめんと、ちかい給えるなり。
無上仏と申すは、かたちなくまします。
かたちましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。
かたちましますとしめすは、無上涅槃とは申さず。
かたちましまさぬやうをしらしめんとて、はじめて弥陀仏と申す」
恭々しくおもんみれば、阿弥陀如来は、罪劫深重の凡夫を救わんがために、
他力廻向の本願を成就し給い、釋迦如来出世の本懐を顕わして、
弥陀の本願を説き給う。
宗祖親鸞聖人、これを教行信証に顕わして、浄土真宗と名づけ、
弥陀仏の誓いの要を、末燈鈔に示し給う。
われ今、聖人の化導によって真実の教を聞き、大悲の衿哀を蒙って、
真の仏弟子となる。
しかれば、現生には、仏祖の宏恩を仰いで報謝の大道を歩み、
当来には往生の素懐をとげて涅槃の妙果を証せん。
本日、早稲田大学は、学祖東洋小野梓、法名、願入院釋東洋居士の、
東福寺山の旧墓を改修して、新たに一基を建立す。
村井総長自ら揮毫し、梓の辞を誌して、墓碑銘となす。
よって、有縁の人々相集まり、
梓八十七回忌法要、並びに墓碑除幕の儀を厳修す。
昭和四十二年八月二十日の黄昏時、当山の境内、小野梓の記念碑の前に、
学匠一人佇みてあり、齢、耳順うのころか、
長躯蓬髪、全身汗にぬるるも、あたかも、
遠きより慈父のもとに還り来たれるが如し。
早稲田大学教授斉藤一寛と知らる。
この日、この時、斉藤一寛の胸に、今日の盛儀を期して、
一つの念願、その火花をちらせしや、否や、知る人ぞ知る。
又、早稲田大学と縁深かりし小野義真の一寄進になる当山本堂に於て、
義真の最も愛厚かりし梓の法要を営む事を得たり。
われらの喜びこれに過ぐるものあらにゃ。
仏かねて知ろしめして、われらがために、
往く者、送くる者、来たる者、
皆倶に一処に相集う。
即ち、倶会一処の喜びを誓い給えり。
今日の盛儀、
これを倶会一処と言わずして何をもって仏の誓いとなす。
われら今、茲に、尊前を荘厳し、懇ろに聖教を読誦して、
大悲あまねき仏意に添いたてまつらん事を期す。
願くば、三宝哀愍して納受し給え。
昭和四十七年十月七日
清宝寺 釋省三
導師の表白文につづいて、早稲田大学総長が次のような辞を述べた。
早稲田大学総長 村井資長の辞
小野梓先生、
先生は早稲田大学の前身東京専門学校の創立から草創の期に、
その全身全霊を捧げて短い生涯を燃やし尽されました。
―略―
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定価八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
振 替 東京 八九八六
小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html
《斉藤一寛 早稲田大学名誉教授》
[早稲田学報]1972年12月号
小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
一 八十七回忌法要
昭和四十七年十月七日、
宿毛は朝から晴れ上がった爽やかな日を迎えた。
この日は標題に示した通り、
小野梓の故郷高知県宿毛市において、
梓の八十七回忌法要を営み、
かつ建墓・除幕式の行われる日であった。
周知の通り早稲田大学は本年建学九十周年を迎えた。
この九十周年を記念するためにいろいろの行事が催されたが、
建学の母ともいうべき小野梓の墓を、小野家の墓地内の、
彼の遺髪の埋葬されている跡に建立することが
記念事業の一つとして企画された。
この企画は昭和四十六年五月から着手され、
村井総長の指示で浜田総長室長、元施設部長の杉浦巴氏、
それに筆者が現地に赴いてつぶさに現場を視察し綿密な計画が進められた。
筆者はさらに旬日を重ね宿毛に滞在して、
小野梓の系図を、親族をはじめ、土地の古老、郷土史家、
図書館などで若干の資料を得て、
「小野家略系図」の作成に当り、
本年三月未定稿として刊行した。
爾来一年五か月にして、
この年、この月、この日に建墓・除幕式が行われることになったのである。
墓は左に父義與、母助野の墓石、
右に養子義実(梓の義兄)の墓石の間の中央、
少しく後方に下った個所に建てられた。
墓石はスウェーデン産のブルー・パールblue pearl と呼ばれるもの、
白味がかった地に薄い青色を掃いた、高貴、純潔な色調を帯びている。
墓の高さ八一センチ、幅八五センチの横墓で、
表面には横書きで「東洋小野梓之墓」、
裏側には梓の信念を表わした彼の銘句
一国の独立は国民の独立
に基し、国民の独立はその
精神の独立に根ざす 而して
国民精神の独立は実に
学問の独立に由る
早稲田大学総長 村井資長書
と刻まれている。〔以下字配りによらず〕
向って右側面には
「早稲田大学創立九十周年の歳
昭和四十七年十月 早稲田大学 建立」
と刻まれ、
左側面には
「収遺髪 願入院釋東洋居士
嘉永五年二月二十日生 明治十九年一月十一日歿
行年三十五才」
と彫られている。
これらの文字は村井資長総長自らの揮毫になるものである。
式に先立って午後一時、
小野家の菩提寺清宝寺本堂で八十七回忌の法要が営まれた。
参列者約八十五名、
むろん梓の直系、
第三代の一雄氏、
故二代又一(昭和四十七年一月三十一日歿)の未亡人文子夫人、
次男の雄二氏はじめ親族の方々、
近県から馳せ参じた校友、知人、
それに大学側村井総長、阿部元総長、
増田・清水両常任理事、浜田総長室長以下十二名が着座した。
型の如く開会の辞から、清家省三師が導師となり読経に入る。
嗚咽がそこかしこから聞える。
同氏は次のような表白文を読み上げる。
表白文
末燈鈔に曰く。
「ちかいのやうは、無上仏にならしめんと、ちかい給えるなり。
無上仏と申すは、かたちなくまします。
かたちましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。
かたちましますとしめすは、無上涅槃とは申さず。
かたちましまさぬやうをしらしめんとて、はじめて弥陀仏と申す」
恭々しくおもんみれば、阿弥陀如来は、罪劫深重の凡夫を救わんがために、
他力廻向の本願を成就し給い、釋迦如来出世の本懐を顕わして、
弥陀の本願を説き給う。
宗祖親鸞聖人、これを教行信証に顕わして、浄土真宗と名づけ、
弥陀仏の誓いの要を、末燈鈔に示し給う。
われ今、聖人の化導によって真実の教を聞き、大悲の衿哀を蒙って、
真の仏弟子となる。
しかれば、現生には、仏祖の宏恩を仰いで報謝の大道を歩み、
当来には往生の素懐をとげて涅槃の妙果を証せん。
本日、早稲田大学は、学祖東洋小野梓、法名、願入院釋東洋居士の、
東福寺山の旧墓を改修して、新たに一基を建立す。
村井総長自ら揮毫し、梓の辞を誌して、墓碑銘となす。
よって、有縁の人々相集まり、
梓八十七回忌法要、並びに墓碑除幕の儀を厳修す。
昭和四十二年八月二十日の黄昏時、当山の境内、小野梓の記念碑の前に、
学匠一人佇みてあり、齢、耳順うのころか、
長躯蓬髪、全身汗にぬるるも、あたかも、
遠きより慈父のもとに還り来たれるが如し。
早稲田大学教授斉藤一寛と知らる。
この日、この時、斉藤一寛の胸に、今日の盛儀を期して、
一つの念願、その火花をちらせしや、否や、知る人ぞ知る。
又、早稲田大学と縁深かりし小野義真の一寄進になる当山本堂に於て、
義真の最も愛厚かりし梓の法要を営む事を得たり。
われらの喜びこれに過ぐるものあらにゃ。
仏かねて知ろしめして、われらがために、
往く者、送くる者、来たる者、
皆倶に一処に相集う。
即ち、倶会一処の喜びを誓い給えり。
今日の盛儀、
これを倶会一処と言わずして何をもって仏の誓いとなす。
われら今、茲に、尊前を荘厳し、懇ろに聖教を読誦して、
大悲あまねき仏意に添いたてまつらん事を期す。
願くば、三宝哀愍して納受し給え。
昭和四十七年十月七日
清宝寺 釋省三
導師の表白文につづいて、早稲田大学総長が次のような辞を述べた。
早稲田大学総長 村井資長の辞
小野梓先生、
先生は早稲田大学の前身東京専門学校の創立から草創の期に、
その全身全霊を捧げて短い生涯を燃やし尽されました。
―略―
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
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編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
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小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html