村井総長、阿部先生から筆者に挨拶を:斉藤一寛

《村井資長 早稲田大学 第10代総長》
《阿部賢一 早稲田大学 第8代総長》
《斉藤一寛 早稲田大学 名誉教授》

[早稲田学報]1972年12月号

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで p24-28
斉藤一寛
―略―
二 建墓・除幕式 p27-28
―略―
昭和四十七年十月七日 清宝寺 釋省三
この墓地は緩やかであるが斜面になっていて、
多数の人々が一箇所に集まることが出来ないので、
総長の辞の後、焼香を終えた人人はさんさんごご
再び清宝寺の本堂に帰った。
それは精進落を本堂で行うことになっていたからである。
ほぼ三時過ぎ本堂に於ける精進落が始まった。
その前に総長はじめ大学側、親族の方々との相互紹介が行われた。
この時は法要の時と違って、気分が和らいだためか、
親族の方々にとっては
梓が故郷に帰って来たと思っているように窺われた。
施主早稲田大学は、釋省三師の表白文にある通り
「為すべき程の事を為し終えて」
還り来た小野梓を迎えた感じがしたと思う。

村井総長、阿部先生から筆者に
挨拶をするようにと強く言われたので
心なくもマイクの前に立った。
今は何も言うことはない。
大学、市、親族の方々、
その他の多くの人々の御協力があって
今日の日を迎えることが出来たので、ただ
「素志が貫かれて有り難うございました、の
 一語しか申上げる言葉はありません。」と言った時、
胸せまって不覚にも絶句してしまった。
満堂の人々から拍手があったと後で聞いたが、
自分には何も判らなかった。

次いで清家省三師からの挨拶があったのだが、
これも表白文にあるように、
昭和四十二年八月二十日の黄昏時に旅姿の筆者が
小野家の菩提寺清宝寺境内に建てられている
大隈侯篆額の「小野梓君碑」の前に佇んでいたのが、
筆者が梓と至近距離での出会いであった。

その時素衣の端をまくり上げて
境内の落葉を掻き集めている者がいた。
僧かと思えばさに非ず、
さりとて寺男にしては気品が高い。
俗人とも定めかねる人物であった。
この人が清宝寺の住職清家省三師であった。

来意を告げると、彼は衣服を改めて本堂に案内し、
御本尊の前で小野梓の位牌と過去帳とを取り出して、
「よく訪れてくれた」と、
敬意をこめて労ってくれた。
これが、今日このように結実するとは思わなかった、
表白文に「知る人ぞ知る」とある通りである。
次いで清家省三師の挨拶があって、五時前に精進落は終った。
―略―
(昭2仏文・名誉教授)

小野先生の生地を訪ねて p29-31
阿部賢一
創立九十年記念行事の一つとして
小野梓先生八十七回忌法要と墓碑除幕式が先生出生の地
土佐の宿毛市清宝寺で行われた。
その式に参列し、また一般市民に対する講演を頼まれて
村井総長一行に加わって私も出かけた。

土佐は曽遊の地であるが宿毛は始めてである。
時あたかも南方からの台風来の気象予告があったので、
一行諸君より一日早めに
総長、田古島君と羽田から飛び立って高知に行った。
空港では若き校友田村信孝君に迎えられ、
郊外山上の清風荘に落ついた。

台風はどこへいったのか、
ここまでくると大気も海洋も碧く澄みきっている。
名物の鰹のたたき、伊勢エビのさしみなど
味のよささはいうまでもないが、
若き校友の心づくしがうれしかった。
同君はかつての紛争にまきこまれながら
敢然スト反対に立ち上った経験をもつ青年であった。
同君の車でよく舗装された国道を
海風を浴び山並をぬって高知に入り、
桂ヵ浜の渚に立つホテルニュー高知に投じ、
ここで大学から来られた諸君と落合った。
近くにある坂本竜馬の巨像を久しぶりにみて、
同時代に生れ、大望を夢みたにそういない
少年小野梓のことを考えてみた。
―略―
翌朝(七日)早く一行と汽車で中村駅に着、
ここで車をつらねて約一時間で宿毛に行き秋沢別館に投じた。
街はずれの旅館で、
窓を開いて下をみると実る稲穂が無惨に倒れている。
台風通過の跡だと聞いた。
宿毛市は人口二万八千、いとも静かな市で、
その一角に小野先生出生の屋敷があったが、
その跡は全然変っている。

昼食後、清宝寺に行く。
門内に一歩はいると木犀の芳香が漂うている。
秋晴の境内で洗心の境に在るの感じがした。
式場に行く。
式その他の催について
心ゆくばかり細かな配慮をしてくれた
清宝寺住職清家導師や
京都から来られた小野家の遺族の方々に会う。

式は本堂で行われた。
祭壇には小野先生の遺影を中心として花が飾られ、
遺族と大学側が向いあって席が設けられ、
満堂粛然として読経の中に式次第が進められた。
清家導師が表白文で先生の略伝と遺業をたたえ、
村井総長は大学として先生に
大学今日あるは一に先生の献身的努力に由ることを
切々と感謝をこめて申上げた。
さわやかな秋風につれて流れこんでくる木犀の香りをかぎながら
私は瞑目して思考に沈んだ。
次いで遺族はじめ大学側の焼香、会衆一同の焼香が行われた。

次いで寺内裏山の小野家墓地に一同登り、
新たに大学建立の「小野梓先生墓碑」の除幕式に臨んだ。
先生父君の墓石より低きをよしとした墓碑で、
形は小さいが感銘深い永遠の生命をもつ墓碑である。
読経の中に一同焼香して先生を偲んだ。

式一切はかくて終り、山を下って本堂に帰り
いわゆる精進落のくだけた会合となった。
なごやかな話が数氏から行われたが、

ご本人が躊躇したのを無理に引出して挨拶してもらったのは
斉藤一寛君であった。
同君は教育学部教授当時から
小野先生の魅力に引かれたか格別の感興を覚え、
しばしば宿毛に旅して先生の旧跡を尋ね、
縁者を尋ねて旧縁古話を探り、
その成果を数々のパンフレットにして知友間に報告されている。
自然清家導師とも親しくなり、
今度の行事万端について陰で苦心してくれている。

同君の熱心な小野先生崇拝と探究心が、
先生の法要と墓碑建立を実現させた大きい推進力であったことを
忘れてはならぬと私は思うている。

そんな因縁をもつ斉藤君だから、
この機会に一言挨拶あって然るべきものと
総長と私も考えて無理に引出した。

控え目の同君も已むをえず立ったが、
感慨無量で最初はいささか絶句したようだが
淡々として小野先生にひかれた自己を少しく語り、
清家導師との出合いの面白さを話し、
導師の熱心な配慮を感謝したが、
これに応じて導師も立って丁重な感謝をこめて話された。

その夕刻四時半から宿毛市と早稲田大学主催の
小野先生記念の文化講演会が中央公民館で行われた。
かたくるしいこの種の会にどの位の人が集まるだろう、
と思うたが、
講堂は満員で三百名以上ということであった。
公民館の方の挨拶があって
宿毛市史編纂委員長橋田庫欣氏が幻灯を用いて
小野家の系譜を綿密に説明され、
前もって用意して渡されていた系譜と照らしながら拝聴して
私はさすがによく調べられているものと敬服した。
―略―
私は「小野梓先生の教育思想」という題で講話をした。
―略―
小野先生の高邁卓識さをみると
真に明治時代最高の知識人である。
その教育思想はいまは誰も彼も容易に口にする。
しかし、実践は容易ではない。
混沌としている現在のわが教育界にとって
最も斬新かつ緊要な問題である。

それを九十年以前に教育の指針として説かれた先生こそ
一大先覚者といわねばならぬ。
早稲田学園は先生を師と仰ぐことを誇りとする。
先生を生んだ宿毛の市民各位も誇りをもって
永く先生を追憶されるだろう、と述べた。
―略―
翌朝早く宿毛を立って海岸沿いに車を駆って宇和島に、
そこで電車に乗りかえて松山に、
そこから空路帰京した。
今度の旅は天候に恵まれ、
海山の秋晴をほしいままに楽しむことができた。
これも小野先生につながるご縁で感謝の旅であった。
(十月二十八日)
早稲田学報
通 巻 八百二十七号
復 刊 二十六巻第十号
定 価 八十円(送料十六円)
昭和四十七年十二月 十日印刷
昭和四十七年十二月十五日発行
編集者 渡部辰巳
発行者 野島寿平
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 早稲田大学校友会
郵便番号 一六〇
東京都新宿区戸塚町一ノ八〇
電 話 二〇三・四一四一
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小野梓87回忌法要 建墓・除幕式
平成47年(1972)10月7日(土)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2200286.html

小野梓 八十七回忌法要 建墓・除幕式に臨んで:斉藤一寛
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