《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の伯父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、※
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、 (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、 (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
翌年(1883)文部省より特別功勞者として六國史及び硯石を賜與せらる、
明治十八年(1885)八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治廿二年(1889)門人相議して資を募り豐碑を公園地に建つ。
その撰文は中村正直なり、
麑山、人と爲り溫厚篤實親に事(つか)へて至孝なり、
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ、
其の子弟に接するや、常に溫顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く、
子弟深く麑山の學徳に服せり、
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、長恂は早死し、次愼次家を繼ぎ新聞業を營めり。
※叔父⇒伯父:平成26年4月9日 小野一雄
[豊前人物志]
定價 金 五圓
郵税 金 三十錢
昭和十四年三月 十日 印刷
昭和十四年三月二十五日發行
著作兼發行者 山崎有信
旭川市六條通八丁目左十號
振替口座 小樽一四九七〇番
印刷者 早坂善太郎
東京市牛込區榎町七番地
發行所 山崎有信
旭川市六條通八丁目左十號
電話二〇八三番
振替 小樽一四九七〇番
[豊前人物志](復刻版)
昭和四十八年三月一日発行
頒価 一、二〇〇円
著 者 山崎有信
発行者 友石孝之
発行所 美夜古文化懇話会
福岡県行橋市行事出店町
井本清美 方
電話(○九三〇二)②○一三二
振替(下関)一五九六
印 刷 株式会社 文信堂印刷所行橋工場
行橋市神田町四五七
中津及中津人 p12-14/134
(一)緒論…福翁…麑山…照山…自然美
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、
今日の吾中津人を爲せる三大恩人たらずんばあらず、
彼の三大恩人が百年の身血を人材の事に盡す、
中津は普く啓發せられ頴才を出したる處、
尊敬に價すべく是れ疑ひなき事實として、
何人も否まざるべし、
此の光榮ある過去の歴史は今日の吾中津人を養成せり、
照山派の學徳、
慶應派の學徳、
麑山派の學徳、
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2150318.html
≪近代日本人の肖像≫[国立国会図書館]
[中村正直]なかむら まさなお
天保3年5月26日~明治24年6月7日(1832~1891)
号・別称等 敬宇(けいう)
東京生まれ。教育家。父は幕府の同心。
昌平坂学問所に学び、
安政2年(1855)学問所教授、
文久2年(1862)幕府の儒官となる。
慶応2年(1866)幕府遣英留学生の監督として渡英。
維新で帰国し静岡に移り、
『西国立志編』『自由之理』を翻訳刊行、ベストセラーとなる。
明治5年(1872)上京し、大蔵省に出仕。
6年(1873)家塾同人社を開設。
7年(1874)明六社に参加。
キリスト教にも関心を持ち受洗。
女子教育・盲唖教育にも尽力した。
14年(1881)東京大学教授、19年(1886)元老院議官。文学博士。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
[豊前人物志]
《大久保麑山(げいざん)》p386-387
大久保麑山諱は敎之(のりゆき)字は子誨、通稱を逕三と云へり、
麑山は其の號、中津侯の世臣なり、
考諱は敎連(のりつら)、
文政八年十二月十一日を以て生る、 (1826年1月18日)
麑山幼より慧敏、
學を好み業を其の伯父野本白巌に宇佐郡白岩村の家塾に受け、※
其の愛養する所となり、夙成を以って名あり、又劍馬槍弓の術を習ふ。
文久元年(1861)藩黌の鎗務と爲り、 (1861年3月29日)
翌年陣道具奉行に昇り、 (1862年1月30日)
三年江戸に出役し、 (1863年2月18日)
四年六月考敎連歿し麑山匇々國に歸る。(1864年7月4日)
此の時に當り幕府諸藩に命じて毛利氏を伐たしむ、
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
翌年(1883)文部省より特別功勞者として六國史及び硯石を賜與せらる、
明治十八年(1885)八月十八日病で家に歿す、
享年六十一、中津大法寺に葬る。
明治廿二年(1889)門人相議して資を募り豐碑を公園地に建つ。
その撰文は中村正直なり、
麑山、人と爲り溫厚篤實親に事(つか)へて至孝なり、
家甚だ貧なりしかども、
父翁の酒を嗜みたれば供張曾て一日も缺きたることなしと云ふ、
其の子弟に接するや、常に溫顔にして疾言せず、
能く諄々として誦讀を授く、
子弟深く麑山の學徳に服せり、
又友情に厚く屡々其の窮乏を救へりといふ。
三男六女あり、長恂は早死し、次愼次家を繼ぎ新聞業を營めり。
※叔父⇒伯父:平成26年4月9日 小野一雄
[豊前人物志]
定價 金 五圓
郵税 金 三十錢
昭和十四年三月 十日 印刷
昭和十四年三月二十五日發行
著作兼發行者 山崎有信
旭川市六條通八丁目左十號
振替口座 小樽一四九七〇番
印刷者 早坂善太郎
東京市牛込區榎町七番地
發行所 山崎有信
旭川市六條通八丁目左十號
電話二〇八三番
振替 小樽一四九七〇番
[豊前人物志](復刻版)
昭和四十八年三月一日発行
頒価 一、二〇〇円
著 者 山崎有信
発行者 友石孝之
発行所 美夜古文化懇話会
福岡県行橋市行事出店町
井本清美 方
電話(○九三〇二)②○一三二
振替(下関)一五九六
印 刷 株式会社 文信堂印刷所行橋工場
行橋市神田町四五七
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[福翁・白石照山・大久保麑山の三大紀念碑]【中津及中津人】淸原蘇子著中津及中津人 p12-14/134
(一)緒論…福翁…麑山…照山…自然美
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906363/12
福翁の紀念碑と、
白石照山の紀念碑と、
大久保麑山の三大紀念碑とが、
公園地櫻花爛熳たる處に起立せらる、
今日の吾中津人を爲せる三大恩人たらずんばあらず、
彼の三大恩人が百年の身血を人材の事に盡す、
中津は普く啓發せられ頴才を出したる處、
尊敬に價すべく是れ疑ひなき事實として、
何人も否まざるべし、
此の光榮ある過去の歴史は今日の吾中津人を養成せり、
照山派の學徳、
慶應派の學徳、
麑山派の學徳、
―略―
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2150318.html
≪近代日本人の肖像≫[国立国会図書館]
[中村正直]なかむら まさなお
天保3年5月26日~明治24年6月7日(1832~1891)
号・別称等 敬宇(けいう)
東京生まれ。教育家。父は幕府の同心。
昌平坂学問所に学び、
安政2年(1855)学問所教授、
文久2年(1862)幕府の儒官となる。
慶応2年(1866)幕府遣英留学生の監督として渡英。
維新で帰国し静岡に移り、
『西国立志編』『自由之理』を翻訳刊行、ベストセラーとなる。
明治5年(1872)上京し、大蔵省に出仕。
6年(1873)家塾同人社を開設。
7年(1874)明六社に参加。
キリスト教にも関心を持ち受洗。
女子教育・盲唖教育にも尽力した。
14年(1881)東京大学教授、19年(1886)元老院議官。文学博士。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
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