別府賢吉【帝国大学出身名鑑】昭和7年:昭和9年
【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和7年12月16日発行
[別府賢吉] p807/1005
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子 明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博 大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり
現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/807
※ 明治十六年三月生。
正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄
【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和9年11月25日発行
[別府賢吉] p786/990
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子 明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博 大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280156/786
※ 明治十六年三月生。
正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄
別府隆彦:元明治大野球部監督
生 大正15年(1926)
歿 平成22年(2010)12月25日
[明治大学野球部]
別府体制のスタート
7季目で宙に舞う別府監督
田中が連盟2千本目の記念アーチ
島岡―別府体制でスタートした明大。
昭和天皇の崩御で昭和から平成に代わった、
明大も春のリーグ戦の第1週(早明戦)が終わった後の4月11日、
島岡吉郎総監督が亡くなった。享年78歳。
昭和27年1月1日、明大助監督兼明治高校の監督とはいえ、
学生時代は応援団長だった異色の存在だけに球界に大きな波紋を呼び、
主力選手の集団退部で社会問題にまでなったが、
平成元年に亡くなるまで42年間野球部の指導的地位にあって
明大野球部を隆盛に導いた功績は大きい。
カリスマ的存在であった島岡総監督の死去は、
野球部にとってなにものにもかえられない損失だったが、
幸い島岡総監督に旧制明治中学の監督のころから支えて来た、
別府隆彦氏が前年秋に監督になっていたので、
大きな波乱もなく、スムーズなバトンタッチがきた。
春のリーグ戦は第1週が伝統の早明戦。明大は1回戦が舟山の好投で、
2回戦は東瀬―赤羽根のリレーで連勝。
その翌日島岡総監督の訃報に接した。
生前島岡総監督は「打倒早慶」を旗印に、
部員を叱咤激励してきただけに、
早明戦の連勝は亡き島岡総監督へのなによりの“はなむけ”になった。
―略―
http://homepage3.nifty.com/meijibbc/history/history/history11.html
[別府隆彦氏死去 元明治大野球部監督]
別府 隆彦氏(べっぷ・たかひこ=元明治大野球部監督)
(平成22年12月)25日午後4時9分、
間質性肺炎のため東京都新宿区の病院で死去、84歳。
北海道旭川市出身。
葬儀・告別式は29日午前10時半から東京都杉並区永福1の8の1、
築地本願寺和田堀廟所で。
喪主は長男寛隆(ひろたか)氏。
明大では名物監督だった島岡吉郎氏の後を継いで
89年から95年まで監督を務め、
東京六大学リーグで優勝4度。
95年は明治神宮大会で優勝した。
監督退任後は総監督も務めた。
2010/12/26 10:34 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122601000074.html
【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和7年12月16日発行
[別府賢吉] p807/1005
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子 明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博 大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり
現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465969/807
※ 明治十六年三月生。
正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄
【帝国大学出身名鑑】校友調査会 昭和9年11月25日発行
[別府賢吉] p786/990
旭川市会議員・旭川商工会議所顧問・旭川市弁護士会会長
旭川市育児院理事・旭川市信用組合長・救護会理事・弁護士
妻 哲子 明治二三年生・栃木県 小林織吉三女・宇都宮高女卒
男 隆博 大正九年生
女 八重子 明治四四年生 旭川高女卒
君は福岡県別府又十郎の五男。別府祐六の兄。
明治十六年三月福岡県築上郡三毛村に生れ明治三十六年分家す。
五高を経て明治四十一年東京帝大法科獨法科を卒業。
明治四十年東京市に於て弁護士を開業。
幾許ならずして之を廃し、やまと新聞社に入り政治部記者たりしが、
明治四十四年現住地に於て再び弁護士となり現に前掲諸職に在り。
宗教 真宗 趣味 読書
家族は尚、
二女喜多子(大正三年生)三女恵美子(大正五年生)四女道子(大正十一年生)
二男隆彦(大正十五年生)あり。
旭川市四条通一二左三 電話 旭川二一三五
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280156/786
※ 明治十六年三月生。
正しくは、明治16年10月1日生。 小野一雄
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[追記]
二男 別府隆彦(大正十五年生)別府隆彦:元明治大野球部監督
生 大正15年(1926)
歿 平成22年(2010)12月25日
[明治大学野球部]
別府体制のスタート
7季目で宙に舞う別府監督
田中が連盟2千本目の記念アーチ
島岡―別府体制でスタートした明大。
昭和天皇の崩御で昭和から平成に代わった、
明大も春のリーグ戦の第1週(早明戦)が終わった後の4月11日、
島岡吉郎総監督が亡くなった。享年78歳。
昭和27年1月1日、明大助監督兼明治高校の監督とはいえ、
学生時代は応援団長だった異色の存在だけに球界に大きな波紋を呼び、
主力選手の集団退部で社会問題にまでなったが、
平成元年に亡くなるまで42年間野球部の指導的地位にあって
明大野球部を隆盛に導いた功績は大きい。
カリスマ的存在であった島岡総監督の死去は、
野球部にとってなにものにもかえられない損失だったが、
幸い島岡総監督に旧制明治中学の監督のころから支えて来た、
別府隆彦氏が前年秋に監督になっていたので、
大きな波乱もなく、スムーズなバトンタッチがきた。
春のリーグ戦は第1週が伝統の早明戦。明大は1回戦が舟山の好投で、
2回戦は東瀬―赤羽根のリレーで連勝。
その翌日島岡総監督の訃報に接した。
生前島岡総監督は「打倒早慶」を旗印に、
部員を叱咤激励してきただけに、
早明戦の連勝は亡き島岡総監督へのなによりの“はなむけ”になった。
―略―
http://homepage3.nifty.com/meijibbc/history/history/history11.html
[別府隆彦氏死去 元明治大野球部監督]
別府 隆彦氏(べっぷ・たかひこ=元明治大野球部監督)
(平成22年12月)25日午後4時9分、
間質性肺炎のため東京都新宿区の病院で死去、84歳。
北海道旭川市出身。
葬儀・告別式は29日午前10時半から東京都杉並区永福1の8の1、
築地本願寺和田堀廟所で。
喪主は長男寛隆(ひろたか)氏。
明大では名物監督だった島岡吉郎氏の後を継いで
89年から95年まで監督を務め、
東京六大学リーグで優勝4度。
95年は明治神宮大会で優勝した。
監督退任後は総監督も務めた。
2010/12/26 10:34 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122601000074.html
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