大久保麑山:学校長『大河内傳次郎』富士正晴 昭和54年1月20日再版
《学校長(主長タル者・首座教員)大久保逕三》明治11年~17年
片端中學校
片端學校
中津中學校
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257817.html
『大河内傳次郎』著者 富士正晴 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5
アキは安政六年(一八五九)大久保逕三の四女として生れているが、
この大久保逕三は中津藩士で、
「蘭学は福沢諭吉、漢学は大久保逕三」と並び称せられた儒者であるらしく
(とにかく大辺の家のものはそういう)、
その娘を迎えた大辺家も
それに適しい家格の家と考えた方がよさそうである。P11
中津市の公園の中にこれも現在たっている
「大久保麑山先生紀念碑文」というのを筆写して送ってもらった。
一方「中津市史」を国会図書館から借り出して複写してもらって眺めてみたが、
戦後作られたものらしく、
福沢諭吉などの洋学者には多くの頁をさいているが、
漢学者などほぼ出てこない。
麑山の子孫の間では、
漢学は大久保麑山、
洋学は福沢諭吉と並び称せられたものであったそうなと
いうことになっているが、
その名は勿論、この碑文についても触れられていない。
それは戦後当時の史学の風俗だから致し方ないかも知れないし、
子孫の身びいきほどは麑山が他国へも名のとどろくような儒者でなく、
中津藩の中でのみ有名であったのかも知れない。P13
しかし、この碑文を撰した中村敬宇という人は
「広辞苑」に次のようにのっているから、
この方は大有名人であった。
なかむら けいう【中村敬宇】⇒なかむら まさなお(中村正直)。
なかむら まさなお【中村正直】洋学者・教育家。文博。
号は敬宇。東京の人。
佐藤一斎に学び、慶応二年渡英。明六社を組織し、新文化の興隆に努力。
学士院会員・東大教授。貴族院議員。
「西国立志編」「自由之理」などの訳書がある。(一八三二~一八九一)
こういう華々しい人と、
地味な藩儒であったらしい麑山との関係はよく判らない。
あるいは麑山の江戸詰時代に少々の付合いがあったのであろうか。
麑山は敬宇より七つほど年上であるが、
中津中学三等教諭に終っている。
とにかく、その「碑文」を見てみる。P14
明治六年、小中学校教授補となり、
十五年中津中学三等教諭となり、
職務を怠らず、老いてますます精勤だった。
十六年、文部省から教育功労者として六国史と硯箱を賞賜された。
十八年八月十八日、病歿した。享年六十一。中津の大法寺に葬った。P16
大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
東京都中央区京橋二ノ八ノ七
電話(五六一)五九二一
振替 東京2-34
検印廃止
©一九七八
《学校長(主長タル者・首座教員)大久保逕三》明治11年~17年
片端中學校
片端學校
中津中學校
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257817.html
『大河内傳次郎』著者 富士正晴 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5
アキは安政六年(一八五九)大久保逕三の四女として生れているが、
この大久保逕三は中津藩士で、
「蘭学は福沢諭吉、漢学は大久保逕三」と並び称せられた儒者であるらしく
(とにかく大辺の家のものはそういう)、
その娘を迎えた大辺家も
それに適しい家格の家と考えた方がよさそうである。P11
中津市の公園の中にこれも現在たっている
「大久保麑山先生紀念碑文」というのを筆写して送ってもらった。
一方「中津市史」を国会図書館から借り出して複写してもらって眺めてみたが、
戦後作られたものらしく、
福沢諭吉などの洋学者には多くの頁をさいているが、
漢学者などほぼ出てこない。
麑山の子孫の間では、
漢学は大久保麑山、
洋学は福沢諭吉と並び称せられたものであったそうなと
いうことになっているが、
その名は勿論、この碑文についても触れられていない。
それは戦後当時の史学の風俗だから致し方ないかも知れないし、
子孫の身びいきほどは麑山が他国へも名のとどろくような儒者でなく、
中津藩の中でのみ有名であったのかも知れない。P13
しかし、この碑文を撰した中村敬宇という人は
「広辞苑」に次のようにのっているから、
この方は大有名人であった。
なかむら けいう【中村敬宇】⇒なかむら まさなお(中村正直)。
なかむら まさなお【中村正直】洋学者・教育家。文博。
号は敬宇。東京の人。
佐藤一斎に学び、慶応二年渡英。明六社を組織し、新文化の興隆に努力。
学士院会員・東大教授。貴族院議員。
「西国立志編」「自由之理」などの訳書がある。(一八三二~一八九一)
こういう華々しい人と、
地味な藩儒であったらしい麑山との関係はよく判らない。
あるいは麑山の江戸詰時代に少々の付合いがあったのであろうか。
麑山は敬宇より七つほど年上であるが、
中津中学三等教諭に終っている。
とにかく、その「碑文」を見てみる。P14
明治六年、小中学校教授補となり、
十五年中津中学三等教諭となり、
職務を怠らず、老いてますます精勤だった。
十六年、文部省から教育功労者として六国史と硯箱を賞賜された。
十八年八月十八日、病歿した。享年六十一。中津の大法寺に葬った。P16
大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
東京都中央区京橋二ノ八ノ七
電話(五六一)五九二一
振替 東京2-34
検印廃止
©一九七八
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