[大邊脩:大河内傳次郎の三兄][神戸高等商業]『大河内傳次郎』富士正晴

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)]

『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社 昭和54年1月20日再版
幼少の頃
大河内傳次郎の半生のことを書く。
荒書きである。P5

次の年(明治四十二年)、
マスオ十二歳の二月四日に三兄脩は養子として、
姉ツタの嫁入っている伊藤田家へはいる。P27

それは、大分県の中津中学へ入れるために、
福岡の大辺家より、大分県の伊藤田家へ籍を移したのだというように、
今となっては思われているようだが、
脩はその時すでに十九歳であることを思うと何となく変である。
福岡県の豊津中学にでもいて、入学試験に備えて、
受験校としてもっと高級だったかも知れぬ
大分県立中津中学へ転校させたのかと想像しておくより
(そこまで調べは届かなかった)仕方がない。P28

(明治四十二年)六月二十一日には、四男正十六歳が、
大分県下毛郡中津町一四六八番地の菅野保太へ養子縁組をしている。
これは中津の薬問屋であり、正はのちに東京の薬専へ入る。
この一年に、二組もの養子縁組があって、
息子が二人大辺家の戸籍を離れたということは、
マスオにとってどのような感じのものであったろうかという気がする。P28

そして、(明治四十四年)五月二十三日、
脩は伊藤田七郎の養子であることを
協議離縁により廃し、大辺脩にかえる。P30

大正三年(一九一四)、三兄脩は神戸高商を卒業し(第八回)、
江商株式会社に入社した。P39

大正六年(一九一七)には加来秀介の手紙によると、秀介が中学二年の頃、
インドより帰国した脩(マスオの三兄)が大阪に行くというので、…。P42

昭和二年、大阪商業時代に仲良しであった同級生の藤本準三が
伊藤忠の社員としてインドのカルカッタに出張した。
たまたま大辺脩が江商の支店長で、藤本を一夕招待して宴をひらいた。P135

翌昭和三年、
兵庫県武庫郡精道村へ帰国していた脩が三月二十二日に死亡。P136

大河内傳次郎 一二〇〇円
昭和五十三年十一月二十五日初版
昭和五十四年 一 月 二十日再版
著 者 富士正晴
発行者 高梨 茂
印刷所 三 陽 社
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ八ノ七
    電話(五六一)五九二一
    振替 東京2-34
    検印廃止
    ©一九七八

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)][大邊正・菅野 正]

【大分県人士録】大正3年4月4日発行
大分県立中津中学校卒業生名簿          p258/291
第十一回卒業生(五十七名)明治四十二年
伊藤田 修 下毛三保 神戸高商業        p266/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/266
第十五回卒業生(七十七名)大正二年           p268/291
菅野 正                    p269/291
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/269
大正三年四月四日発行
大分県人士録発行所
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/288

[大邊脩(修)・伊藤田脩(修)]

【神戸高等商業学校一覧】明治42-44年
神戸高等商業学校一覧 自明治四十三年四月 至明治四十四年三月 p84/180
豫科 第一部 九十九人             p139/180
伊藤田 修 大分                p140/180
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812764/140
明治43年11月3日発行

【神戸高等商業学校一覧】明治44-45年
第一年 百三十九人               p58/102
伊藤田改 大邊 修 福岡            p58/102
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812765/58

【神戸高等商業学校一覧】自明治45年至大正2年
第二年 百三十六人               p57/102
伊藤田改 大邊 修 福岡            p58/105
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941090/58

【神戸高等商業学校一覧】大正2年
第三年 百二十九人               p59/101
伊藤田改 大邊 修 福岡            p59/101
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941091/59

【神戸高等商業学校一覧】大正3年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p88/107
大邊 修 福岡 江商合資会社(大阪本店)    p89/107
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941092/89

【神戸高等商業学校一覧】大正4年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p88/107
大邊 修 福岡 大阪、江商合資会社(孟買支店)  p91/107
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941093/91

【神戸高等商業学校一覧】大正5年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p91/117
大邊 修 福岡 大阪、江商合資会社(孟買支店)  p91/117
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941094/91

【神戸高等商業学校一覧】大正6年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/104
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(孟買支店)  p76/104
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941095/76

【神戸高等商業学校一覧】大正7年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p80/113
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(上海支店)  p80/113
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941096/80

【神戸高等商業学校一覧】大正8年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p84/119
大邊 修 福岡 大阪、江商株式会社(上海支店)  p84/119
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941097/84

【神戸高等商業学校一覧】大正9年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p72/110
大邊 修 福岡 江商株式会社(倫敦支店)    p73/110
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941098/73

【神戸高等商業学校一覧】大正10年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/116
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p77/116
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941099/77

【神戸高等商業学校一覧】大正11年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/123
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p77/123
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941100/77

【神戸高等商業学校一覧】大正12年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p82/132
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p84/132
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941101/84

【神戸高等商業学校一覧】大正14年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p90/149
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p92/149
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941102/92

【神戸高等商業学校一覧】大正15年
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p76/143
大邊 修 福岡 江商株式会社(大阪本社)    p78/143
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941103/78

【神戸高等商業学校一覧】昭和3年4月調
大正三年卒業(第八回)百二十二人        p96/159
大邊 修 福岡 昭和三年三月 歿 中津中学  p97/159
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1279457/97

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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「孟買」とは、インド西岸のムンバイ市(旧称ボンベイ)の漢字表記です。
実は、わが国最初の遠洋定期航路が、
明治26(1893)年に神戸-孟買間に開かれていたのです。
これは、当時の殖産興業政策の柱である紡績の原料であった綿花が
インドから大量に輸入されていたためです。
http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/maga-g.html
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