大久保慶藏先生:布津紋吉翁【宇佐郡人物大鑑】上巻:大正12年
[君は年十五歳にして扇城に遊び
碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、]
《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》
【宇佐郡人物大鑑】上巻:大正12年
[布津紋吉翁]多額納税者 p4/54
『一志能く貫かんと欲せば、
須らく百折不撓の大精神を以て勇往邁進せよ、
然らんには何物かを?ちえむ』
と是古哲の金言にして
萬人の以て箴とする金科玉条にあらずして何ぞ
君は宇佐郡天津村の人、
布津家は父祖累代、布津部の名門として知られ、
祖父甚右衛門翁の頃から
専ら米穀を商ひ傍ら清酒、醤油の醸造を業とし
傍ら質商を営んで繁昌近郷に並ぶものがなかった、
祖父甚右衛門翁歿後は父甚蔵翁家業を継いで
営々孜々家業を精励し家運彌が上にも富み栄えた。
君は年十五歳にして扇城に遊び
碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、
後十八歳の時笈を負ふて烏城(岡山)は赴き
備前の洪儒の旦海先生の雲蒸学舎に入り漢籍の蘊奥を極め、
詩文の才、超凡し旦海先生をして驚嘆せしめたほどの鬼才であった。
君夙に天稟聡明、不屈不撓の大精神を以て一貫し
胸奥才気煥発、稀に見る人物として春秋の将来を嘱望された、
斯て雲蒸学舎に学ぶこと一年有餘
学成り錦衣を郷關に飾って、
翌十九歳、父甚蔵翁の後を承け家系を継いで
名門布津家の當主となった。
―略―
最後に尚逸することの出来ぬのは、
君の令息純一君は曩に優等の成績を以て
東京帝国大学法科を卒業し法学士の称号を?ちえて
大日本麦酒株式会社に入り枢要な位置を占めていたが後
東京啓成社に轉し現に専務取締役に挙げられ同社経営の衝に當り
超凡の手腕と卓抜せる経綸の才を揮って東都実業界に活躍し
新進の花形として春秋の将来を有している、
二男立一君及び三男の両令息は現に早稲田大学に在学し
秀才の誉が高い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922043/4
大正十二年六月?日印刷納本
大正十二年六月十日発行
著作兼発行人 網中幸義
大分県宇佐郡長洲町三〇八番地
印刷人 温泉タイムス社印刷部
大分県速見郡別府町七〇〇番地
植木栄助
発行所 長洲新聞社
大分県宇佐郡長洲町
電話 一三二番 一三九番(次)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922043/53
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2210772.html
【大分県紳士録】明治37年
[布津紋吉君]宇佐郡天津村住
文久3年(1863) 7月生 p296/457
十五才の時より十七才の時迄
中津町大久保先生に就て漢学を修め
十八才の時更に岡山に赴き
平松淡海先生の私塾に入りて同じく漢学を修む
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/296
明治37年(1904)5月2日印刷
明治37年(1904)5月5日発行
発行兼著作者 大悟法雄太郎
大分県下毛郡大幡村239番地
印刷者 石川金太郎
東京市京橋区西紺屋町267番地
印刷所 株式会社秀英舎
東京市京橋区西紺屋町267番地
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/446
[君は年十五歳にして扇城に遊び
碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、]
《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》
【宇佐郡人物大鑑】上巻:大正12年
[布津紋吉翁]多額納税者 p4/54
『一志能く貫かんと欲せば、
須らく百折不撓の大精神を以て勇往邁進せよ、
然らんには何物かを?ちえむ』
と是古哲の金言にして
萬人の以て箴とする金科玉条にあらずして何ぞ
君は宇佐郡天津村の人、
布津家は父祖累代、布津部の名門として知られ、
祖父甚右衛門翁の頃から
専ら米穀を商ひ傍ら清酒、醤油の醸造を業とし
傍ら質商を営んで繁昌近郷に並ぶものがなかった、
祖父甚右衛門翁歿後は父甚蔵翁家業を継いで
営々孜々家業を精励し家運彌が上にも富み栄えた。
君は年十五歳にして扇城に遊び
碩儒大久保慶藏先生の門に入り漢学を修め、
後十八歳の時笈を負ふて烏城(岡山)は赴き
備前の洪儒の旦海先生の雲蒸学舎に入り漢籍の蘊奥を極め、
詩文の才、超凡し旦海先生をして驚嘆せしめたほどの鬼才であった。
君夙に天稟聡明、不屈不撓の大精神を以て一貫し
胸奥才気煥発、稀に見る人物として春秋の将来を嘱望された、
斯て雲蒸学舎に学ぶこと一年有餘
学成り錦衣を郷關に飾って、
翌十九歳、父甚蔵翁の後を承け家系を継いで
名門布津家の當主となった。
―略―
最後に尚逸することの出来ぬのは、
君の令息純一君は曩に優等の成績を以て
東京帝国大学法科を卒業し法学士の称号を?ちえて
大日本麦酒株式会社に入り枢要な位置を占めていたが後
東京啓成社に轉し現に専務取締役に挙げられ同社経営の衝に當り
超凡の手腕と卓抜せる経綸の才を揮って東都実業界に活躍し
新進の花形として春秋の将来を有している、
二男立一君及び三男の両令息は現に早稲田大学に在学し
秀才の誉が高い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922043/4
大正十二年六月?日印刷納本
大正十二年六月十日発行
著作兼発行人 網中幸義
大分県宇佐郡長洲町三〇八番地
印刷人 温泉タイムス社印刷部
大分県速見郡別府町七〇〇番地
植木栄助
発行所 長洲新聞社
大分県宇佐郡長洲町
電話 一三二番 一三九番(次)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922043/53
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
《大久保麑山(徑三・經三・逕三・逕造)先生と師弟達》
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2210772.html
【大分県紳士録】明治37年
[布津紋吉君]宇佐郡天津村住
文久3年(1863) 7月生 p296/457
十五才の時より十七才の時迄
中津町大久保先生に就て漢学を修め
十八才の時更に岡山に赴き
平松淡海先生の私塾に入りて同じく漢学を修む
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/296
明治37年(1904)5月2日印刷
明治37年(1904)5月5日発行
発行兼著作者 大悟法雄太郎
大分県下毛郡大幡村239番地
印刷者 石川金太郎
東京市京橋区西紺屋町267番地
印刷所 株式会社秀英舎
東京市京橋区西紺屋町267番地
http://dl.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779093/446
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
布津紋吉翁[長男・布津純一:東京帝国大学][二男・布津立一:早稲田大学]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2258779.html布津紋吉翁[長男・布津純一:東京帝国大学][二男・布津立一:早稲田大学]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇