明治35年[第一回]医術開業試験:後期試験合格者(35名)名簿【官報】(5677号)
小野安:医術開業試験・後期試験合格【官報】明治35年6月9日(5677号)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2260206.html
【官報】第五千六百七十七號 印刷局 p6/9
明治三十五年六月九日 月曜日
廣告
醫術開業試驗及第者
本年第一回 大阪醫術開業試驗ニ及第
去月二十七日 試驗委員長ヨリ
及第證書ヲ授與セシ者
左ノ如シ
明治三十六年 内務省
《前期試驗》
―略―
《後期試驗》
高知県平民 澤田 徳吾
大分県平民 所賀 柳太郎
兵庫県平民 上池 豐治郎
愛知県平民 舟橋 藤治
長崎県士族 一瀬 ?一
広島県平民 佐々木 憲章
兵庫県平民 鈴木 繁太
兵庫県平民 吉積 正雄
高知県平民 和田 永吉
大阪府平民 森田 虎之助
兵庫県平民 沖中 磐根
大阪府平民 今村 寅之助
鹿児島県士族 指宿 貞治
兵庫県士族 田川 恕一郎
兵庫県平民 松尾 八丸
山梨県平民 廣瀬 豐藏
島根県平民 猪股 義譲
大分県平民 渡邊 網彦
徳島県平民 松永 堅太郎
岡山県平民 網島 綾雄
和歌山県平民 樋下 松次郎
香川県平民 藤田 虎之助
広島県平民 有田 辰治
広島県平民 長森 英士
岐阜県平民 矢野 角吉
兵庫県平民 寺田 定一
兵庫県平民 渡邊 良一
岐阜県平民 靑木 千秋
熊本県平民 宇都宮 熊八
岡山県平民 天野 運男
山口県平民 吉田 喜一
山口県士族 淸水 宗介
三重県平民 木下 甚八
高知県平民 [小野 安]
大阪府平民 [幣原 節]
《齒科試驗》
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948980/6
【官報】
明治16(1883)年7月2日の官報創刊日から
昭和27(1952)年4月30日までの官報、
および昭和21(1946)年4月4日から
昭和27(1952)年4月28日の期間のみ刊行されていた
OFFICIAL GAZETTE; ENGLISH EDITION(英文官報)を
インターネットに公開しています
(OFFICIAL GAZETTEは、雑誌の一コンテンツとして公開)。
http://dl.ndl.go.jp/#kanpo
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
[沖中 磐根]
第1話"恩師冲中重雄の実践した道"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長 三輪 史朗
冲中 重雄(おきなか しげお)
医学者。医学博士。1902年(明治35),石川県生まれ。
東京帝国大学医学部医学科卒業。1928年(昭和3)東京帝大副手となり,
1931年欧米に留学。1943年同助教授,1946年教授となり,
1963年までつとめる。
先生の祖父は高知の国学者。陸軍軍人である
父太田米丸の厳格なしつけのもとに育ち,
東大医学部4年の時,親同士の話し合いがあって父のいとこ,
姫路の医者冲中磐根の養子となり,その娘智(さとる)と結婚,
冲中姓となった。
土佐っぽの負けず嫌いで努力家の性格を父から譲りうけ,
第一高等学校時代は寮生活で対人関係を養い教養を深めつつ
学力・体力をつけ,大学医学部学生時代はひたすら書を読み実力をつけた。
http://www.toranomon.gr.jp/site/view/contview.jsp?cateid=23&id=139&page=1
[猪股義譲]
東出雲の偉人
猪股義譲
細菌学者の猪股義譲(いのまた ぎじょう)は、
明治14年出雲郷に生まれました。
明治33年20歳の時に医師開業国家試験に合格し、
当時勃興した細菌学、免疫学を専攻し始めます。
大正8年に朝鮮のコレラ撲滅のために渡鮮、
大正10年にはワクチンの研究を認められ
京都大学医学博士の学位を受領しました。
http://www.kankou-matsue.jp/m-rekisi/hito/page1.html
[猪股義譲]
【日本杏林要覧】日本杏林社 明治42年12月28日発行
猪股義譲 p566/976
試験 三十七年二月
島根平民
明治十四年生
出雲鄕村出雲鄕二三四
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/566
[幣原 節]
なにわ人物伝 -光彩を放つ-
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)(1)
門真出身の総理大臣
2008/02/02
三善 貞司
大阪府門真市出身の第四十四代総理大臣。
終戦直後の崩壊した日本の政治体制再建を目指してスタートさせた功績は、
誠に大きい。
喜重郎は明治五(一八七二)年八月、
門真一番下村の幣原新治郎・シヅ(静)夫婦の二男に生まれた。
幣原家は同村の百姓代(後の庄屋)を務めた富農の家柄で、
正徳四(一七一四)年の資料に「持高(私有米)七十九石」とある。
これはかなりの財産持ちだ。当
然、この時代の庄屋は利貸しの収入も得ているはずだから、
生活面ではいたって恵まれていた。
―略―
さてこんな両親に育てられた四人の兄妹はどのような人生を歩いたか、
喜重郎を除いて三人を簡記しておく。
幣原 坦-明治三(一八七〇)年生まれ。
父新治郎は『論語』の
「君子坦蕩蕩(立派な人物の心は穏やかで果てしなく広い)」から命名する。
東京帝国大学文学部を卒業、山梨県立中学校長、
東京高等師範学校教授から文部省視学官を勤めた後、
台北帝国大学総長に就任した。
終戦後は枢密院(すうみついん)(天皇の最高諮問機関)の顧問官。
諸外国の法制に明るく、
弟喜重郎が戦後日本国憲法草案に苦慮したおり、全面的に援助。
幣原 操-明治十一年生まれ。
大阪高等医学校(現大阪大学医学部)卒業。
養子文二を迎え、門真で「幣原医院」を開き、地域の医療に力を入れた。
しかし夫文二が早世したため、医院経営のかたわら妹節の協力を得て、
「財団法人祥樹保育園」を開き、
農村にはなかった保育・社会事業に大きく貢献する。
幣原 節-明治十七年生まれ。
あちこちの学問所で勉強、
十八歳で大変な難関だった「医師国家試験」に合格。
日本で初めての産婦人科専門医院「緒方産婦人科医院」に勤務し、
院長緒方正清の薫陶(くんとう)を受ける。
後に姉の幣原医院の別棟に産婦人科病棟を建て経営。
社会事業にも尽力した。
俳句が趣味で「焼跡に白菊咲きて母想ふ」
「貧乏医と聞かされ強盗あてはづれ」などがある。(地域史研究者)
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa080202.html
小野安:医術開業試験・後期試験合格【官報】明治35年6月9日(5677号)
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2260206.html
【官報】第五千六百七十七號 印刷局 p6/9
明治三十五年六月九日 月曜日
廣告
醫術開業試驗及第者
本年第一回 大阪醫術開業試驗ニ及第
去月二十七日 試驗委員長ヨリ
及第證書ヲ授與セシ者
左ノ如シ
明治三十六年 内務省
《前期試驗》
―略―
《後期試驗》
高知県平民 澤田 徳吾
大分県平民 所賀 柳太郎
兵庫県平民 上池 豐治郎
愛知県平民 舟橋 藤治
長崎県士族 一瀬 ?一
広島県平民 佐々木 憲章
兵庫県平民 鈴木 繁太
兵庫県平民 吉積 正雄
高知県平民 和田 永吉
大阪府平民 森田 虎之助
兵庫県平民 沖中 磐根
大阪府平民 今村 寅之助
鹿児島県士族 指宿 貞治
兵庫県士族 田川 恕一郎
兵庫県平民 松尾 八丸
山梨県平民 廣瀬 豐藏
島根県平民 猪股 義譲
大分県平民 渡邊 網彦
徳島県平民 松永 堅太郎
岡山県平民 網島 綾雄
和歌山県平民 樋下 松次郎
香川県平民 藤田 虎之助
広島県平民 有田 辰治
広島県平民 長森 英士
岐阜県平民 矢野 角吉
兵庫県平民 寺田 定一
兵庫県平民 渡邊 良一
岐阜県平民 靑木 千秋
熊本県平民 宇都宮 熊八
岡山県平民 天野 運男
山口県平民 吉田 喜一
山口県士族 淸水 宗介
三重県平民 木下 甚八
高知県平民 [小野 安]
大阪府平民 [幣原 節]
《齒科試驗》
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948980/6
【官報】
明治16(1883)年7月2日の官報創刊日から
昭和27(1952)年4月30日までの官報、
および昭和21(1946)年4月4日から
昭和27(1952)年4月28日の期間のみ刊行されていた
OFFICIAL GAZETTE; ENGLISH EDITION(英文官報)を
インターネットに公開しています
(OFFICIAL GAZETTEは、雑誌の一コンテンツとして公開)。
http://dl.ndl.go.jp/#kanpo
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
[沖中 磐根]
第1話"恩師冲中重雄の実践した道"
東京大学名誉教授/冲中記念成人病研究所理事長 三輪 史朗
冲中 重雄(おきなか しげお)
医学者。医学博士。1902年(明治35),石川県生まれ。
東京帝国大学医学部医学科卒業。1928年(昭和3)東京帝大副手となり,
1931年欧米に留学。1943年同助教授,1946年教授となり,
1963年までつとめる。
先生の祖父は高知の国学者。陸軍軍人である
父太田米丸の厳格なしつけのもとに育ち,
東大医学部4年の時,親同士の話し合いがあって父のいとこ,
姫路の医者冲中磐根の養子となり,その娘智(さとる)と結婚,
冲中姓となった。
土佐っぽの負けず嫌いで努力家の性格を父から譲りうけ,
第一高等学校時代は寮生活で対人関係を養い教養を深めつつ
学力・体力をつけ,大学医学部学生時代はひたすら書を読み実力をつけた。
http://www.toranomon.gr.jp/site/view/contview.jsp?cateid=23&id=139&page=1
[猪股義譲]
東出雲の偉人
猪股義譲
細菌学者の猪股義譲(いのまた ぎじょう)は、
明治14年出雲郷に生まれました。
明治33年20歳の時に医師開業国家試験に合格し、
当時勃興した細菌学、免疫学を専攻し始めます。
大正8年に朝鮮のコレラ撲滅のために渡鮮、
大正10年にはワクチンの研究を認められ
京都大学医学博士の学位を受領しました。
http://www.kankou-matsue.jp/m-rekisi/hito/page1.html
[猪股義譲]
【日本杏林要覧】日本杏林社 明治42年12月28日発行
猪股義譲 p566/976
試験 三十七年二月
島根平民
明治十四年生
出雲鄕村出雲鄕二三四
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/566
[幣原 節]
なにわ人物伝 -光彩を放つ-
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)(1)
門真出身の総理大臣
2008/02/02
三善 貞司
大阪府門真市出身の第四十四代総理大臣。
終戦直後の崩壊した日本の政治体制再建を目指してスタートさせた功績は、
誠に大きい。
喜重郎は明治五(一八七二)年八月、
門真一番下村の幣原新治郎・シヅ(静)夫婦の二男に生まれた。
幣原家は同村の百姓代(後の庄屋)を務めた富農の家柄で、
正徳四(一七一四)年の資料に「持高(私有米)七十九石」とある。
これはかなりの財産持ちだ。当
然、この時代の庄屋は利貸しの収入も得ているはずだから、
生活面ではいたって恵まれていた。
―略―
さてこんな両親に育てられた四人の兄妹はどのような人生を歩いたか、
喜重郎を除いて三人を簡記しておく。
幣原 坦-明治三(一八七〇)年生まれ。
父新治郎は『論語』の
「君子坦蕩蕩(立派な人物の心は穏やかで果てしなく広い)」から命名する。
東京帝国大学文学部を卒業、山梨県立中学校長、
東京高等師範学校教授から文部省視学官を勤めた後、
台北帝国大学総長に就任した。
終戦後は枢密院(すうみついん)(天皇の最高諮問機関)の顧問官。
諸外国の法制に明るく、
弟喜重郎が戦後日本国憲法草案に苦慮したおり、全面的に援助。
幣原 操-明治十一年生まれ。
大阪高等医学校(現大阪大学医学部)卒業。
養子文二を迎え、門真で「幣原医院」を開き、地域の医療に力を入れた。
しかし夫文二が早世したため、医院経営のかたわら妹節の協力を得て、
「財団法人祥樹保育園」を開き、
農村にはなかった保育・社会事業に大きく貢献する。
幣原 節-明治十七年生まれ。
あちこちの学問所で勉強、
十八歳で大変な難関だった「医師国家試験」に合格。
日本で初めての産婦人科専門医院「緒方産婦人科医院」に勤務し、
院長緒方正清の薫陶(くんとう)を受ける。
後に姉の幣原医院の別棟に産婦人科病棟を建て経営。
社会事業にも尽力した。
俳句が趣味で「焼跡に白菊咲きて母想ふ」
「貧乏医と聞かされ強盗あてはづれ」などがある。(地域史研究者)
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa080202.html