[小野梓先生と冨山房]西村眞次『冨山房五十年』昭和11年10月15日発行
[小野梓先生と冨山房]p236-244
西村眞次
二 p237-239
先づ小野先生の逸話から記さう。
私が先生の傳記を書いてしまった後、
市島春城先生から四五の事實を注意せられた。
第一に小野先生が歸朝後
最も力を入れて居られたのは
共存同衆であるが、
其色々の仕事の中最も顯著なことは、
片務條約の改正に對する努力であった。
一夕、同衆で外國の公使や領事を招待して、
片務條約の非を鳴らし、其改正を促す第一聲を掲げようとした時、
適當な會場がなかったので、
新橋の蓬莱社といふ洋館を借りて會合を開いた。
小野先生は會の肝煎であり、
熱心に場内を斡旋したことはいふまでもない。
さて同衆の主張が濟み、宴會も終って、いざ退散となると、
どうしたことか、
英國公使フレーザア氏のトール・ハットが紛失して見當らない。
公使は無帽で歸ることを餘義なくされたので、
主人側の同衆は大に面目を失し、
小野先生は一同を代表して公使に謝罪した。
後年金子堅太郎伯が此時のことを回想して、
こんな無作法の事があるやうでは、
條約改正はまだ前途遼遠だと、
先生始め一同が歎息したといふことを語られた。
如何にも可笑しい悲しみ、悲しい滑稽である。
次に共存同衆には若干の資金があったが、
同衆解散後はそれを辻新次氏が保管して、
利に利を積んで相當の額に達してゐたので、
辻氏は大内青巒と相談して、
それを小野先生と最も關係の深い
早稲田大學へ寄附しようといふ議が起り、
當時の理事市島春城先生に其旨を話されたが、
京都大學總長菊池大麓男の承諾を得る必要があったので、
市島先生は菊池男を訪ねて辻氏らの申出を語った。
然るに何故か菊池男は同意を表はさなかったので、
其話は其壗立消えの姿となったが、
其金は今どうなってゐるか分らない。
第三に小野先生の歿後、
山田一郎氏が先生の日記「留客齋日記」を材料にして、
先生の小傳を作ったが、其頃はなかなか面倒な時代で、
自由に日誌を抜萃するわけにはいかない、
已むなく多くの材料を割愛し、
斟酌の上にも斟酌を加へて書き、
さて出来上って大隈侯の校閲を請うたら、
侯は豪放の性格にも拘はらず幾個所も削除されたので、
一層骨抜になってしまったのだといふ。
此一事を見ても、小野先生歿後の政治社會が、
如何に暗雲に包まれてゐたかといふことが分る。
第四に小野先生が會計検査院にゐられた時、
検査官が銀行に出張して各省の在金を検査する前、
いつ幾日には某々省の在金検査をするといふ通知を、
豫め出すのが慣はしになってゐた。
そこで銀行ではちゃんと用意して、
必要なだけの金を備へたから、
これではいけないと、
小野先生は或時豫告せずに銀行に出かけて、
各省全部の在金検査をしたところ、
銀行は度を失って大に狼狽した。
小野先生は早速此失態を内閣會議の席で報告に及んだが、
大臣の中には色を失ったものもあるといふことだ。
昭和十一年三月一日印刷
昭和十一年十月十五日發行
『冨山房五十年』非賣品
編輯兼發行者 合資會社 冨山房
東京市神田區神保町一丁目三番地
右代表者 冨山房社長 坂本嘉治馬
印刷者 白井赫太郎
東京市神田區錦町三丁目十一番地
發行所 〔明治十九年三月設立〕
合資會社 冨山房
東京市神田區神保町一丁目三番地
振替 東京 五〇一番
電話 神田(25)自 二、一七一番
至 二、一七八番
[小野梓先生と冨山房]p236-244
西村眞次
二 p237-239
先づ小野先生の逸話から記さう。
私が先生の傳記を書いてしまった後、
市島春城先生から四五の事實を注意せられた。
第一に小野先生が歸朝後
最も力を入れて居られたのは
共存同衆であるが、
其色々の仕事の中最も顯著なことは、
片務條約の改正に對する努力であった。
一夕、同衆で外國の公使や領事を招待して、
片務條約の非を鳴らし、其改正を促す第一聲を掲げようとした時、
適當な會場がなかったので、
新橋の蓬莱社といふ洋館を借りて會合を開いた。
小野先生は會の肝煎であり、
熱心に場内を斡旋したことはいふまでもない。
さて同衆の主張が濟み、宴會も終って、いざ退散となると、
どうしたことか、
英國公使フレーザア氏のトール・ハットが紛失して見當らない。
公使は無帽で歸ることを餘義なくされたので、
主人側の同衆は大に面目を失し、
小野先生は一同を代表して公使に謝罪した。
後年金子堅太郎伯が此時のことを回想して、
こんな無作法の事があるやうでは、
條約改正はまだ前途遼遠だと、
先生始め一同が歎息したといふことを語られた。
如何にも可笑しい悲しみ、悲しい滑稽である。
次に共存同衆には若干の資金があったが、
同衆解散後はそれを辻新次氏が保管して、
利に利を積んで相當の額に達してゐたので、
辻氏は大内青巒と相談して、
それを小野先生と最も關係の深い
早稲田大學へ寄附しようといふ議が起り、
當時の理事市島春城先生に其旨を話されたが、
京都大學總長菊池大麓男の承諾を得る必要があったので、
市島先生は菊池男を訪ねて辻氏らの申出を語った。
然るに何故か菊池男は同意を表はさなかったので、
其話は其壗立消えの姿となったが、
其金は今どうなってゐるか分らない。
第三に小野先生の歿後、
山田一郎氏が先生の日記「留客齋日記」を材料にして、
先生の小傳を作ったが、其頃はなかなか面倒な時代で、
自由に日誌を抜萃するわけにはいかない、
已むなく多くの材料を割愛し、
斟酌の上にも斟酌を加へて書き、
さて出来上って大隈侯の校閲を請うたら、
侯は豪放の性格にも拘はらず幾個所も削除されたので、
一層骨抜になってしまったのだといふ。
此一事を見ても、小野先生歿後の政治社會が、
如何に暗雲に包まれてゐたかといふことが分る。
第四に小野先生が會計検査院にゐられた時、
検査官が銀行に出張して各省の在金を検査する前、
いつ幾日には某々省の在金検査をするといふ通知を、
豫め出すのが慣はしになってゐた。
そこで銀行ではちゃんと用意して、
必要なだけの金を備へたから、
これではいけないと、
小野先生は或時豫告せずに銀行に出かけて、
各省全部の在金検査をしたところ、
銀行は度を失って大に狼狽した。
小野先生は早速此失態を内閣會議の席で報告に及んだが、
大臣の中には色を失ったものもあるといふことだ。
昭和十一年三月一日印刷
昭和十一年十月十五日發行
『冨山房五十年』非賣品
編輯兼發行者 合資會社 冨山房
東京市神田區神保町一丁目三番地
右代表者 冨山房社長 坂本嘉治馬
印刷者 白井赫太郎
東京市神田區錦町三丁目十一番地
發行所 〔明治十九年三月設立〕
合資會社 冨山房
東京市神田區神保町一丁目三番地
振替 東京 五〇一番
電話 神田(25)自 二、一七一番
至 二、一七八番
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
小野梓:会計検査院『冨山房五十年』昭和11年10月15日発行
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2267449.html