中津藩儒《大久保麑山》の主宰する私塾【下毛郡誌】昭和二年七月二十日納本
【下毛郡誌】
[下毛郡教育の概説] p293/466
第一節 維新前の教育(学制頒布迄)
一 藩立学校 p293/466
二 山川塾 p294/466
三 野本塾 p294/466
中津町に在り、
野本雪巖の子 白巌(眞城)の主宰する所
従学者甚だ多し、後 宇佐郡白岩村に隠棲せしが
藩の子弟亦従ひて村塾に入り学ぶ者ありしと云ふ。
(人物篇参照)p370/466
四 手島塾 p294/466
五 白石塾 p294/466
中津北門通に在り、晩香堂と称す、
白石照山の家塾なり、照山
天保年中一且家塾を開きしも事を以て国を出で
臼杵藩に客儒たり、後帰藩し
明治初年地を北門通に賜はる、
因て再び家塾を開きしなり、
従学者遠近より到り
他年名士を出す少なからず、
凡そ漢学塾にして晩香堂の如く盛んなりしは
曾て多く聞かざりしなり。
(人物篇参照)p374/466
六 大久保塾 p294/466
初めは船場町に在り、後ち片端町に移れり、
中津藩儒大久保麑山の主宰する私塾なり、
学制頒布以来
麑山激職に従事する
多年其餘暇を以て子弟の教養に勉む、
従学者亦多し。
(人物篇参照)p375/466
七 寺子屋教育 p294/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/294
[中等教育] p299/466
一 中津市学校 p299/466
二 中津片端中学校 及 養成校 p299/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/299
三 白石塾 p300/466
学制頒布により一時塾舎を閉ぢ、
塾主照山は一且片端中学校の教師となりしも、
幾ならずし之を辞し、
當時漢学復興の兆あるを察し、再び塾舎を開き
寄宿舎の如き大觀又二樓を新築したれども、
猶ほ全部を収容するに足らず、
其の勢熖は却て公立中学を壓したり、
かくて照山は明治十六年十月歿せしより之を閉ぢたり。
四 橋本塾 p300/466
五 大久保塾 p300/466
此塾も学制頒布により一時閉鎖し、
塾主麑山は白石、橋本、二老と共に出でて
片端中学校の教師となり、
傍ら復家塾を開きて子弟を教授す、
従学者亦多し、
當時中津町には白石、橋本、大久保の三漢学塾ありて、
各々門戸を張り鼎足の勢をなし、
一時漢文学の全盛を極めたるが、
麑山明治十八年六月を以て歿せしより終に塾舎を閉ぢたり。
六 村上塾 p300/466
七 扇城学舎 豊州学館 p300/466
中津の人 山田小太郎(後 大分中学校教師)の私塾にして、
明治十七年の頃より中津町に設けられ、
英書国漢等を教授せしが、同二十三年に閉舎し、
同年更に豊州学館と改称し、
同二十六年中津中学校設立まで存在せり。
八 私立 留心学校 p300/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/300
九 大分県立 中津中学校 p301/466
十 扇城高等女学校 p303/466
十一 大分県立 中津高等女学校 p303/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/303
十二 中津商業学校 p304/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/304
昭和二年七月十五日印刷
昭和二年七月二十日納本
編纂兼発行者 社団法人 大分県下毛郡教育会
印刷者 安倍 豊
東京市本郷区曙町三番地
印刷所 一番館印刷所
東京市神田区今川小路一丁目三番地
発行所 社団法人 大分県下毛郡教育会
大分県下毛郡中津町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/462
【学校幼稚園書籍館博物館一覧表. 明治14年】
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1810/
【下毛郡誌】
[下毛郡教育の概説] p293/466
第一節 維新前の教育(学制頒布迄)
一 藩立学校 p293/466
二 山川塾 p294/466
三 野本塾 p294/466
中津町に在り、
野本雪巖の子 白巌(眞城)の主宰する所
従学者甚だ多し、後 宇佐郡白岩村に隠棲せしが
藩の子弟亦従ひて村塾に入り学ぶ者ありしと云ふ。
(人物篇参照)p370/466
四 手島塾 p294/466
五 白石塾 p294/466
中津北門通に在り、晩香堂と称す、
白石照山の家塾なり、照山
天保年中一且家塾を開きしも事を以て国を出で
臼杵藩に客儒たり、後帰藩し
明治初年地を北門通に賜はる、
因て再び家塾を開きしなり、
従学者遠近より到り
他年名士を出す少なからず、
凡そ漢学塾にして晩香堂の如く盛んなりしは
曾て多く聞かざりしなり。
(人物篇参照)p374/466
六 大久保塾 p294/466
初めは船場町に在り、後ち片端町に移れり、
中津藩儒大久保麑山の主宰する私塾なり、
学制頒布以来
麑山激職に従事する
多年其餘暇を以て子弟の教養に勉む、
従学者亦多し。
(人物篇参照)p375/466
七 寺子屋教育 p294/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/294
[中等教育] p299/466
一 中津市学校 p299/466
二 中津片端中学校 及 養成校 p299/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/299
三 白石塾 p300/466
学制頒布により一時塾舎を閉ぢ、
塾主照山は一且片端中学校の教師となりしも、
幾ならずし之を辞し、
當時漢学復興の兆あるを察し、再び塾舎を開き
寄宿舎の如き大觀又二樓を新築したれども、
猶ほ全部を収容するに足らず、
其の勢熖は却て公立中学を壓したり、
かくて照山は明治十六年十月歿せしより之を閉ぢたり。
四 橋本塾 p300/466
五 大久保塾 p300/466
此塾も学制頒布により一時閉鎖し、
塾主麑山は白石、橋本、二老と共に出でて
片端中学校の教師となり、
傍ら復家塾を開きて子弟を教授す、
従学者亦多し、
當時中津町には白石、橋本、大久保の三漢学塾ありて、
各々門戸を張り鼎足の勢をなし、
一時漢文学の全盛を極めたるが、
麑山明治十八年六月を以て歿せしより終に塾舎を閉ぢたり。
六 村上塾 p300/466
七 扇城学舎 豊州学館 p300/466
中津の人 山田小太郎(後 大分中学校教師)の私塾にして、
明治十七年の頃より中津町に設けられ、
英書国漢等を教授せしが、同二十三年に閉舎し、
同年更に豊州学館と改称し、
同二十六年中津中学校設立まで存在せり。
八 私立 留心学校 p300/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/300
九 大分県立 中津中学校 p301/466
十 扇城高等女学校 p303/466
十一 大分県立 中津高等女学校 p303/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/303
十二 中津商業学校 p304/466
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/304
昭和二年七月十五日印刷
昭和二年七月二十日納本
編纂兼発行者 社団法人 大分県下毛郡教育会
印刷者 安倍 豊
東京市本郷区曙町三番地
印刷所 一番館印刷所
東京市神田区今川小路一丁目三番地
発行所 社団法人 大分県下毛郡教育会
大分県下毛郡中津町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/462
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
【学校幼稚園書籍館博物館一覧表. 明治14年】
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1810/