藤原銀次郎閣下の航空機緊急増産命令に基づく査察<1/3>
[満洲飛行機の思い出]昭和57年


満洲国政府並に関東軍司令部の特命による
日本の前軍需大臣藤原銀次郎閣下の
航空機緊急増産命令に基づく査察を受けた状況
 武田智泉

大東亜戦争が益々激烈化し
米国B-29爆撃機の日本本土空襲は
主要都市を次々と爆撃して、
内地の飛行機生産工場は壊滅的な打撃を受けて
急拠地下工場に移り
緊急生産を行わざるを得ない情況に立ち到っていた。

この情況下で満洲飛行機製造株式会社は
機体発動機共に自家生産する唯一の会社として
日満両従業員が増産に懸命の努力を重ねて
月産一〇〇機を完成する成果を挙げていたのであるが、
遂に昭和十九年十二月七日米空軍B-29の爆撃を受け

 blog[小野一雄のルーツ]改訂版
 運命の爆撃(奉天)1/4
 昭和19年12月8日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

機体工場は全滅し整備工場の一部にも被害を受け、
工場隣接の東社宅も甚大なる被害を受けたのである。

会社はこの爆撃で一時生産を中止せざるの已むなきに至り
犠牲者の処置や不発弾の発掘、
爆撃跡の整理等に日夜日満全従業員共に活躍して
漸く跡片付も終ったかと思われるとき
再び十二月二十一日B-29の空襲を受けたのである。

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 運命の爆撃(奉天)4/4
 昭和19年12月23日[追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年

この時は滑走路に主として投弾され
飛行場に避難した満人工員には
機銃弾を受けたものが相当にあったが、
奉天駅を中心とする市街地には
相当大きな被害を受けたようであった。

この二回の米国B-29の爆撃により生産を停止するの
やむなきに至った為
軍の命令により公主嶺及びハルピンの陸軍施設を利用して
工場を疎開することとなり、
次の通り夫々生産機種による
現存の機械設備冶具部品及び材料並に
関係従業員を移動せしむることとなった。

1、「キ-84」戦闘機々体の製造作業の全部を
  ハルピンの孫家へ

2、「ハ十三甲」発動機の機械作業及び組立作業を
  ハルピン馬家溝と孫家

3、「ハ十三甲」発動機の機械作業の一部及
 「キ-27」戦闘機の組立作業の一部を
  公主嶺へ
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[満洲飛行機の思い出]p294
〔画像〕[満洲飛行機の思い出]p294

4、奉天本社工場は「キ-27」戦闘機の組立作業のみ、
  となったのである。

この工場疎開に先だち会社は十二月二十五日に
組織並に職制変更を発表した。

ハルピンは北機械製作処
 処長 武石喜三氏 副処長 富永五郎氏 同 松尾四郎氏

公主嶺は中機械製作処
 処長 西村源興茂氏 ※西村源與茂

奉天は南機械製作処
 処長 畠村 易氏 副処長 多田敬由氏

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 会社の疎開と思い出4/4
 [追憶の曠野]小西達四郎・昭和34年
 昭和十九年十二月二十五日、
 会社は機構の大改革を発表した。

 「ハルビン」は北機械製作処、
 公主嶺は「中機械製作処」
 奉天は「南機械製作処」と名称が変つた。

 北機械製作処には武石喜三氏が処長として転じ、
 富永五郎氏が副処長となつた。

 中機械製作処には西村源与茂氏が処長として転じ、
 南機械製作処は畠村易氏が処長に、
 多田敬由氏が副処長となつた。

工場疎開は昭和二十年一月の厳寒期中にもかかわらず
輸送指揮者の迅速適切な統轄指揮のもとに
満鉄の協力を得て、
機器冶具各種部品等を発送し
据付従業員も移動して夫々疎開先での
生産態勢がほぼ整ったのは二月中旬であった。

この間従業員は只管一日でも早く
一機でも一台でも早く生産をと願って
懸命に努力した献身振りは大変なものであった。

従って宿舎などはまことに不備不自由なものであったが、
誰も不平を言わず
私が調書作成の為現地を訪れた時
頭が下がる思いをした。

厳寒の中にも三製作処共に夫々
生産実績を向上すべく稼働率を上げ、
一方三地区へ分散の苦労に耐えて
機器の整備や各種部品の入手にも努力し
漸くその実績を挙げつつあった内にも、
飛行機の緊急増産の要請はいよいよきびしくなり
満洲飛行機に対しても緊急増産命令が下り、
之が実現の為に
昭和二十年四月に
藤原銀次郎閣下を特命査察使として
三菱重工業(株)の後藤常務取締役を首席随員として、
 ※後藤直太
 【日本全国銀行会社録. 第47回(昭和14年)】
 三菱重工業(株) p256/1374
 取締役 後藤直太
 名古屋航空機製作所 所長(兼)

外専門権威者数名を随員とし
航空本部、関東軍司令部並に会社駐在監督官等の
関係者十数名が立会って査察を受けることになったのである。

この特命査察に際し事前に満洲飛行機会社としての
増産計画並に調査報告書の提出を要求されたのであるが
その内容は
一、月別生産計画 機種別 工場別
二、会社の組織並に職制、従業員の構成及びその稼働状況
 (当時は日本人約五千名 満人六千名位と記憶している)
三、各工場別機械設備及び組立冶具の状況とその稼働状況
四、各種部品の生産及び入手状況並に貯蔵量
五、協力工場の生産並に能力状況
六、各工場別宿舎並に福祉設備状況
七、増産達成の為の満洲飛行機会社としての要望事項等であった。

この調査報告書の作成については企画部が主管し、
沢柳部長が各関係部箇所長より資料の提出を求めて
※沢柳誠四郎
その内容を検討し、
取纏めて決済を受けたものを印刷して
報告書とすることになっていたのであるが、
各箇所長よりの資料の提出が遅れ(て困っていたようである。)
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[満洲飛行機の思い出]p295
〔画像〕[満洲飛行機の思い出]p295
続く<2/3>
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