[本官勘合帳 外國官一号]第三十八号~第四十二号

[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第三十八号 『清水金之助』 己歳二十五 p007 ※明治2年己巳(1869)
       前田宰相中将家来
       右 佛國
       明治七年二月返納
      《清水金之助》 佛 p028
       石川縣 留学 五ヶ年 官
       明治二年己巳四月 ※明治2年己巳4月(1869年5月12日)
       明治六年廿九   ※明治6年(1873)

第三十九号 『岡田丈太郎』 己歳十三  p007 ※明治2年己巳(1869)
       前田宰相中将家来
       右 佛國
       明治七年六月十八日免状返納
      《岡田丈太郎》 佛 p028
       石川縣 留学 五ヶ年 官
       明治二年己巳四月 ※明治2年己巳4月(1869年5月12日)
       明治六年十七   ※明治6年(1873)

第四十号  『伊達守之助』 己歳二十三 p007 ※明治2年己巳(1869)
       大村丹後守家来
       辛未九月十四日免状返納 ※明治4年辛未9月14日
                    (1871年10月27日)
       航海執行ノ為 英國プレース舩・・・
       外國・・・

第四十一号 『鈴木貫一』  己歳三十二 p007 ※明治2年己巳(1869)
       井伊中将家来
       右 米國 語学修業
      《鈴木貫一》 米 p019
       井伊中将家来 語学
       明治六年三十六 ※明治6年(1873)

第四十二号 『  深藏』  己歳二十三 p007 ※明治2年己巳(1869)
       大村?下 町人
       右 米國
      《  深藏》 米 p001
       長嵜縣管下町人 航海修行 米舩乗組 自
       明治六年廿七

第三十八号 『清水金之助』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:清水 誠
別 名:嶺,愛之,金之助
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

[国産マッチ創始者、清水 誠の功績]
そこで国産マッチの開祖、清水 誠なる人物のマッチ製造に至る足跡を述べてみよう。
金沢藩士であった清水 誠は慶応元(1865)年、20歳の時、洋学修業のため、
藩の選抜で長崎、横浜へ派遣され、
明治元(1868)年に横浜でフランスから招いたお雇い外国人、
ヴェルニ(F. L. Verny)から器械学、造船学を学んでいる。
そして、明治2(1869)年にフランス留学を果たし、ヴェルニ塾に学び、
明治6(1873)年にはパリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)で
理工科系科目を習得し、ここで身につけたことが
のちのちマッチの開発に役立つことになる。
ただ、この時点では当人にとってはマッチ事業を始めるとは思いもよらないことだっただろう。
ちなみに、このフランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の
5月12日を『マッチの日』としている。
さて、これからがマッチの本題に入るのだが、
明治7(1874)年、たまたまフランス外遊でパリに来た
宮内次官、吉井友実卿と同席する機会があり、
そこでマッチの国産化をはかるため、
是非ともマッチ製造事業を興してほしいと懇願されてしまったのである。
清水 誠にとっては大学で化学も学んだとはいっても
本来、器械学、造船学に専念していたのに、
エーッ!そんなぁ~、という心境だったかもしれない。
しかし、とにかく国のため、という気概で承諾し、
明治7年10月3日横浜に帰国するのだが、
清水 誠の凄いところは、国産マッチ製造に携わるだけでなく、
学んだ才能を活かしてフランス金星観測隊員として帰国後12月、
神戸で星学士ジャンサンとともに通訳兼写真儀担当として金星観測に加わり、
また本来の目的であった造船学の技術も横須賀造船所勤務で果たしている。
http://www.match.or.jp/column/column02.html

第三十九号 『岡田丈太郎』
岡田 棣(おかだ なろう)
(天保6年12月21日(1836年2月7日) - 明治30年(1897年)8月17日)は
幕末期における加賀藩前田家の家臣である。
幕末において藩の軍艦頭取を勤め明治初年に参政に登用され参事・大参事を勤めた。
その後幕府の命によりアメリカ・ヨーロッパを視察した。
帰国後前田家の家扶を勤め晩年にかけて将棋に関する書籍を収集。
没後、将棋に関する蔵書を遺言により帝国図書館、現在の国立国会図書館へ寄贈した。
長男の岡田丈太郎は明治2年(1869年)に
加賀藩の清水誠とフランス人技師のレオンス・ヴェルニーに同行しフランスへ渡る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E6%A3%A3

[ウエルニー]
【御雇外国人一覧】明治5年3月発行
造船寮 p26/36
佛 ウエルニー
月給 八百三十三元三十三セント
千八六五、九月一日ヨリ ※1865年9月1日(慶應1年乙丑7月12日)
首長
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995036/26
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より

第四十号  『伊達守之助』

[大村 純熈]大村丹後守
官位 従五位下、従三位、丹後守、贈従二位
大村 純熈(おおむら すみひろ)は、
肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。
岩倉使節団に長崎県出身の長岡治三郎(物理学者の長岡半太郎の父)、
朝永甚次郎(ノーベル物理学者・朝永振一郎の祖父)と共に留学参加した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%86%88

第四十一号 『鈴木貫一』
さて、そんな鈴木家の幕末の当主は七代目になる
鈴木貫一(重恭)という人物でした。
貫一は幕末に江戸で洋学を学んだ後にアメリカ留学を果たします。
そして、明治維新の時に彦根藩の藩主だった井伊直憲
彦根藩内での洋学校の必要性を説き、直憲の許しを得ますが、
直憲が洋学校の候補地を貫一に提示する事が出来なかった為に
明治4(1871)年1月に貫一は自らの屋敷に
“彦根藩立洋学校”を設立したのです。
彦根藩立洋学校では、外国語や西洋文化を教えていましたが、
4月19日にはアメリカ商人ウィルレム・グードメンを講師に招くなど、
今の外国人講師の教える英会話塾のような形を準備したのです。
翌年には洋学校を息子の省三に任せて貫一は
フランスに渡って公使館の職員になる事を日本政府から任ぜられました。
やがてその仕事振りや人間性からフランス公使館一等書記官になり、
当時のフランス公使・鮫島尚信の死によって代理公使の役に就いたのです。
代理公使として大いに働き、フランスからも認められた貫一でしたが、
公使館内の財政問題の責任を負うという形で退官したのでした。
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/782bd13f9243968c67a2ae1d37e16d63

第四十二号 『  深藏』