[本官勘合帳 外國官一号]第四十三号~第四十五号
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第四十三号 『井上六三郎』 己歳十七 p008 ※明治2年己巳(1869)
筑前藩
右 改 米國 留学
明治七年八月返納
《井上六三郎》 米 p001
福岡縣 留学 海軍学 官
丁卯七月 ※慶應3年丁卯7月(1867年7月31日)
明治六年廿一 ※明治6年(1873)
第四十四号 『本間英一郎』 己歳十六 p008 ※明治2年己巳(1869)
筑前藩
右 改 米國 留学
明治七年八月返納
《本間英一郎》 米 p001
福岡縣 留学 海軍学 官
明治六年十九 ※明治6年(1873)
第四十五号 『津川良藏』 己歳二十五 p008 ※明治2年己巳(1869)
吉川駿河守家来
右 英國
《津川良藏》 佛 p020
山口縣 留学 官
戊辰冬 ※明治1年戊辰 (1868年10月23日)
明治六年廿九 ※明治6年(1873)
第四十三号 『井上六三郎』
☆西日本新聞夕刊連載
石瀧豊美「ボストンの侍・井上良一」全17回を収録します。
なおこれは【シリーズ九州の歴史群像】の中の一部に当たります。
ボストンの侍◆井上良一
第1回 (2003年1月4日 土曜日 西日本新聞夕刊)
十代の旅立ち 渡航の禁解けた翌年派遣
慶応三年(一八六七)九月十三日(旧暦)午前八時、
ボストン駅に六人の福岡藩士が降り立った。
十一代藩主黒田長溥ながひろが派遣した海外留学生の一行であった。
彼らは「語学修業のため向こう一ヵ年西洋派遣」の命令を受けていた。
もっとも、表向き辞令には「一ヵ年」と書かれていたが、
これは心配する父母親類をあざむくためで、
実際は「三ヵ年」の留学であったという。
長い鎖国が破られて間もないころで、太平洋を越えて渡米するなど、
今で言えば宇宙へ飛び出すような感覚だったにちがいない。
幕府が海外渡航の禁を解いたのは慶応二年四月。
その年の末には、黒田長溥の選抜により、
早くも海外派遣の内命が下っていた。
四十二歳で最年長の平賀磯三郎(義質よしすけ)が留学生の監督役。
次いで青木善平(後の安部忠吉ただよし)が二十九歳。
青木は私費で同行を願い出て、許されたものであった。
おそらく公費留学の選に入るには年齢制限を超えていたのであろう。
本来の留学生は松下嘉一郎(直美なおよし、二十歳)、
船越慶次よしつぐ(十六歳)、
井上六三郎(良一よしかず、十六歳)、
本間英一郎(十五歳)の四人。
数え年なので、松下以下の四人は現在の年齢ではいずれも
中学生・高校生に相当する十代の少年である。
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?itemid=2823
ボストンの侍◆井上良一 補遺
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?itemid=2880&catid=573
第四十四号 『本間英一郎』
本間英一郎[ほんま-ひでいちろう]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
本間英一郎 ほんま-ひでいちろう
1854*-1927 明治-大正時代の官吏,鉄道技術者。
嘉永(かえい)6年12月17日生まれ。
長崎で英学をまなぶ。
明治2年土木学研究のためアメリカに留学。
帰国後は海軍省をへて工部省鉄道局につとめる。
のち総武鉄道,北越鉄道,東武鉄道などの技師長となった。
昭和2年10月29日死去。75歳。
筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。マサチューセッツ工科大卒。
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E9%96%93%E8%8B%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
第四十五号 『津川良藏』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:津川 良蔵
別 名:顕蔵
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php
[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第四十三号 『井上六三郎』 己歳十七 p008 ※明治2年己巳(1869)
筑前藩
右 改 米國 留学
明治七年八月返納
《井上六三郎》 米 p001
福岡縣 留学 海軍学 官
丁卯七月 ※慶應3年丁卯7月(1867年7月31日)
明治六年廿一 ※明治6年(1873)
第四十四号 『本間英一郎』 己歳十六 p008 ※明治2年己巳(1869)
筑前藩
右 改 米國 留学
明治七年八月返納
《本間英一郎》 米 p001
福岡縣 留学 海軍学 官
明治六年十九 ※明治6年(1873)
第四十五号 『津川良藏』 己歳二十五 p008 ※明治2年己巳(1869)
吉川駿河守家来
右 英國
《津川良藏》 佛 p020
山口縣 留学 官
戊辰冬 ※明治1年戊辰 (1868年10月23日)
明治六年廿九 ※明治6年(1873)
第四十三号 『井上六三郎』
☆西日本新聞夕刊連載
石瀧豊美「ボストンの侍・井上良一」全17回を収録します。
なおこれは【シリーズ九州の歴史群像】の中の一部に当たります。
ボストンの侍◆井上良一
第1回 (2003年1月4日 土曜日 西日本新聞夕刊)
十代の旅立ち 渡航の禁解けた翌年派遣
慶応三年(一八六七)九月十三日(旧暦)午前八時、
ボストン駅に六人の福岡藩士が降り立った。
十一代藩主黒田長溥ながひろが派遣した海外留学生の一行であった。
彼らは「語学修業のため向こう一ヵ年西洋派遣」の命令を受けていた。
もっとも、表向き辞令には「一ヵ年」と書かれていたが、
これは心配する父母親類をあざむくためで、
実際は「三ヵ年」の留学であったという。
長い鎖国が破られて間もないころで、太平洋を越えて渡米するなど、
今で言えば宇宙へ飛び出すような感覚だったにちがいない。
幕府が海外渡航の禁を解いたのは慶応二年四月。
その年の末には、黒田長溥の選抜により、
早くも海外派遣の内命が下っていた。
四十二歳で最年長の平賀磯三郎(義質よしすけ)が留学生の監督役。
次いで青木善平(後の安部忠吉ただよし)が二十九歳。
青木は私費で同行を願い出て、許されたものであった。
おそらく公費留学の選に入るには年齢制限を超えていたのであろう。
本来の留学生は松下嘉一郎(直美なおよし、二十歳)、
船越慶次よしつぐ(十六歳)、
井上六三郎(良一よしかず、十六歳)、
本間英一郎(十五歳)の四人。
数え年なので、松下以下の四人は現在の年齢ではいずれも
中学生・高校生に相当する十代の少年である。
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?itemid=2823
ボストンの侍◆井上良一 補遺
http://monokatari.jp/isitaki/file002.php?itemid=2880&catid=573
第四十四号 『本間英一郎』
本間英一郎[ほんま-ひでいちろう]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
本間英一郎 ほんま-ひでいちろう
1854*-1927 明治-大正時代の官吏,鉄道技術者。
嘉永(かえい)6年12月17日生まれ。
長崎で英学をまなぶ。
明治2年土木学研究のためアメリカに留学。
帰国後は海軍省をへて工部省鉄道局につとめる。
のち総武鉄道,北越鉄道,東武鉄道などの技師長となった。
昭和2年10月29日死去。75歳。
筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。マサチューセッツ工科大卒。
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第四十五号 『津川良藏』
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国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:津川 良蔵
別 名:顕蔵
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php