[本官勘合帳 外國官一号]第六十九号~第百号
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第六十七號ヨリ第百號迄 東京運上所 江 廻置?事 p012附箋
第六十七号 『前田弘庵』 己歳二十一 p012 ※明治2年己巳(1869)
第六十八号 『石川權五郎』 p012
第六十九号~第百号 氏名記載なし(32名分)
第六十九号~第七十二号 p012
第七十三号~第七十八号 p013
第七十九号~第八十四号 p014
第八十五号~第九十号 p015
第九十一号~第九十六号 p016
第九十七号~第百号 p017
第百一号 『旭 小太郎』 午二十一才 p017 ※明治3年庚午(1870年)
〔明治二年(千八百六十九年)独逸人スネールと稱する者、
我が農民約四十名をば渡米せしめたり。〕
【在米日本人人名辞典】
第三 明治初年より廿年迄 p10/380
(イ) 移民の先驅
明治初年より二十五年頃までは
學生時代と稱するを妥當とすれども
而かも此間日本移民の米國に渡りたる記録あり。
明治二年(千八百六十九年)独逸人スネールと稱する者、
我が農民約四十名をば渡米せしめたり。
スネールは徳川幕府の末路幕府倒壊せるに由りて望を失ひ、
功名施す處なきに煩悶し、
遥かに北米加州に拓殖の志を起し、
八年間の勞働契約を以て前記の日本人を汽船チャイナ號にて
此歳の二月及十月の二回に桑港に上陸せしめたり。
是れ實に北米に於ける我日本人移民の先驅なり。
スネールは和蘭船に乗りて来航せる故
蘭人なりと信ずる人あれど然らず。
彼れは會津公より松平武兵衛の名を賜り、
會津及荘内藩に軍器を供給し、
傍ら砲術を教へたり。(荘内藩士水野重壽實話)
スネールは地をヱルドラド郡ゴールドヒルに卜し、
山林を開いて金鑛採掘の傍ら茶の栽培を始めしが、
此當時は加州至る處瘴癘の気に満ち、
熱病に斃るるもの多く
三十餘名の移民は不安に堪へず
或者は他に走り或者は當時の桑港帝國名譽領事
チャーレス・ワルコフト・ブルークスに訴へて救助を乞ふものあり、
斯くして第一回の移民は失敗に歸せり。
此一行中に信州人柳澤佐吉、大工國之助なるものあり、
柳澤は其後桑港にレストランを開業し、
日本より妻女を迎へて女子を産み、
國之助は黒人を妻として數兒を擧げ
久しくサクラメント市に住めり。
茲に哀れを止めたるはプラサビルの丘陵にあるオケイの墓標なり、
オケイは十八歳の妙齢を以て第一期移民の中に加はりて渡米せり、
山又山の奥に此妙齢の大和撫子が一花、
遥かに入日の跡をながめて慕郷の念に沈みしならん。
編者は此墓標に刻める
(MEMORY of OKEI, Japanese Girl, Age. 19, 1870)
とあるに對し萬斛の涙を惜む能はず。
嗚呼日本人移民としての婦人の祖先、
我等は後代に傳へ以て彼女をして女神的に美化されんことを祈る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978632/10
千九百二十二年十一月二十五日 印刷
千九百二十二年十一月二十八日 発行 ※1922年(大正11年)11月28日
編纂発行所 日米新聞社
650 Ellis St., San Francisco, Cal., U.S.A
印刷所 日米社印刷部
桑港ヱリス街六五四
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978632/376
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
[カリフォルニアおけい]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 嘉永6? (1853)
没年: 明治4 (1871)
明治初年,北米への初の日本移民中唯一の女性。
会津(または庄内)藩の人。姓不明。
初期移民哀史のシンボル的存在。
横浜で輸入商を営み,会津・庄内藩に武器を売り,
砲術師範もした松平武兵衛の名を持つ
E.W.スネルが維新に敗れた会津人を率い,
明治2(1869)年カリフォルニア州エルドラド郡ゴールドヒルに
「ワカマツ」植民地を建設しようとしたとき,
自家の子守として同伴させたと伝えられる。
資金不足・疫病などで植民は挫折,移民は四散,スネル失踪のあと,
隣家のアメリカ人家族に愛され,欧米風家事・料理を学ぶが,
風土病で19歳で死没。「おけいの墓」で有名。
(前山隆)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
http://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%91%E3%81%84
[若松コロニー]
Wakamatsu Tea and Silk Colony
松平氏23万石の城下町、
会津若松から遠くアメリカへと旅立った40人(諸説あり*1)も
その逃亡組である。
註;(*1)実際に何人の日本人がこのコロニーに居住したのか、
はっきりしたことはわかっていない。
正規の移民でなかったためか、
船の搭乗リストにも
シュネルとその家族および
子守の娘(おけいのことか)しか記載がないのである。
40人という数字は一般に言われているもので、根拠は明らかでない。
http://www.pioneerhonor.jp/pioneer/us/waka.html
[運上所跡 東京税関発祥の地]
江戸幕府は、慶応三年(1867年)に、
江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、
この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。
これが、東京税関の始まりです。
http://www.viva-edo.com/kinenhi/tukiji2/unjousyo.html
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第六十七號ヨリ第百號迄 東京運上所 江 廻置?事 p012附箋
第六十七号 『前田弘庵』 己歳二十一 p012 ※明治2年己巳(1869)
第六十八号 『石川權五郎』 p012
第六十九号~第百号 氏名記載なし(32名分)
第六十九号~第七十二号 p012
第七十三号~第七十八号 p013
第七十九号~第八十四号 p014
第八十五号~第九十号 p015
第九十一号~第九十六号 p016
第九十七号~第百号 p017
第百一号 『旭 小太郎』 午二十一才 p017 ※明治3年庚午(1870年)
〔明治二年(千八百六十九年)独逸人スネールと稱する者、
我が農民約四十名をば渡米せしめたり。〕
【在米日本人人名辞典】
第三 明治初年より廿年迄 p10/380
(イ) 移民の先驅
明治初年より二十五年頃までは
學生時代と稱するを妥當とすれども
而かも此間日本移民の米國に渡りたる記録あり。
明治二年(千八百六十九年)独逸人スネールと稱する者、
我が農民約四十名をば渡米せしめたり。
スネールは徳川幕府の末路幕府倒壊せるに由りて望を失ひ、
功名施す處なきに煩悶し、
遥かに北米加州に拓殖の志を起し、
八年間の勞働契約を以て前記の日本人を汽船チャイナ號にて
此歳の二月及十月の二回に桑港に上陸せしめたり。
是れ實に北米に於ける我日本人移民の先驅なり。
スネールは和蘭船に乗りて来航せる故
蘭人なりと信ずる人あれど然らず。
彼れは會津公より松平武兵衛の名を賜り、
會津及荘内藩に軍器を供給し、
傍ら砲術を教へたり。(荘内藩士水野重壽實話)
スネールは地をヱルドラド郡ゴールドヒルに卜し、
山林を開いて金鑛採掘の傍ら茶の栽培を始めしが、
此當時は加州至る處瘴癘の気に満ち、
熱病に斃るるもの多く
三十餘名の移民は不安に堪へず
或者は他に走り或者は當時の桑港帝國名譽領事
チャーレス・ワルコフト・ブルークスに訴へて救助を乞ふものあり、
斯くして第一回の移民は失敗に歸せり。
此一行中に信州人柳澤佐吉、大工國之助なるものあり、
柳澤は其後桑港にレストランを開業し、
日本より妻女を迎へて女子を産み、
國之助は黒人を妻として數兒を擧げ
久しくサクラメント市に住めり。
茲に哀れを止めたるはプラサビルの丘陵にあるオケイの墓標なり、
オケイは十八歳の妙齢を以て第一期移民の中に加はりて渡米せり、
山又山の奥に此妙齢の大和撫子が一花、
遥かに入日の跡をながめて慕郷の念に沈みしならん。
編者は此墓標に刻める
(MEMORY of OKEI, Japanese Girl, Age. 19, 1870)
とあるに對し萬斛の涙を惜む能はず。
嗚呼日本人移民としての婦人の祖先、
我等は後代に傳へ以て彼女をして女神的に美化されんことを祈る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978632/10
千九百二十二年十一月二十五日 印刷
千九百二十二年十一月二十八日 発行 ※1922年(大正11年)11月28日
編纂発行所 日米新聞社
650 Ellis St., San Francisco, Cal., U.S.A
印刷所 日米社印刷部
桑港ヱリス街六五四
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978632/376
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
[カリフォルニアおけい]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 嘉永6? (1853)
没年: 明治4 (1871)
明治初年,北米への初の日本移民中唯一の女性。
会津(または庄内)藩の人。姓不明。
初期移民哀史のシンボル的存在。
横浜で輸入商を営み,会津・庄内藩に武器を売り,
砲術師範もした松平武兵衛の名を持つ
E.W.スネルが維新に敗れた会津人を率い,
明治2(1869)年カリフォルニア州エルドラド郡ゴールドヒルに
「ワカマツ」植民地を建設しようとしたとき,
自家の子守として同伴させたと伝えられる。
資金不足・疫病などで植民は挫折,移民は四散,スネル失踪のあと,
隣家のアメリカ人家族に愛され,欧米風家事・料理を学ぶが,
風土病で19歳で死没。「おけいの墓」で有名。
(前山隆)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
http://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%91%E3%81%84
[若松コロニー]
Wakamatsu Tea and Silk Colony
松平氏23万石の城下町、
会津若松から遠くアメリカへと旅立った40人(諸説あり*1)も
その逃亡組である。
註;(*1)実際に何人の日本人がこのコロニーに居住したのか、
はっきりしたことはわかっていない。
正規の移民でなかったためか、
船の搭乗リストにも
シュネルとその家族および
子守の娘(おけいのことか)しか記載がないのである。
40人という数字は一般に言われているもので、根拠は明らかでない。
http://www.pioneerhonor.jp/pioneer/us/waka.html
[運上所跡 東京税関発祥の地]
江戸幕府は、慶応三年(1867年)に、
江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、
この地に税関業務等を行う運上所を設置しました。
これが、東京税関の始まりです。
http://www.viva-edo.com/kinenhi/tukiji2/unjousyo.html