[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)

[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

『米 未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米 此ヨリノ以下四十四名?表ニハ雇?部ヘ記載スp006》

第三百三十二号 『要吉』  未廿三歳      p057
         村山仁平 忰 阿波國?多郡?田
         哇布島出稼人
        《要吉》  廿五 名東縣下 農 p006

第三百三十三号 『吉之助』 未廿三歳      p057
         高木幸之助忰 東京??石原
        《吉之助》 廿五 東京府    p006

第三百三十四号 『松五郎』 未廿五歳      p057
         半兵衛  忰 相模國?甲郡大山町
        《松五郎》 廿七 足柄縣    p006

第三百三十五号 『竹次郎』 未十八歳      p057
         八十八  忰 東京深川冨川町
        《竹次郎》 二十 東京府    p006

第三百三十六号 『友助』  未廿五歳      p057
         利兵衛  倅 信濃國諏訪郡?島
        《友助》  廿七 筑摩縣    p006
         九年 月 日帰朝
         仝年八月廿一日免状返納

第三百三十七号 『繁藏』  未廿八歳      p058
         伊三郎  忰 相模國鎌倉郡
        《繁藏》  三十 足柄縣    p006

第三百三十八号 『定吉』  未廿八歳      p058
         栄藏   忰 加賀國鈴郡扇村
        《定吉》  三十 石川縣    p006

第三百三十九号 『成甫』  未廿二歳      p058
         医師 隆甫倅
        《成甫》  廿四 東京府 医師 p006

第三百四十号  『豊吉』  未廿三歳      p058
         儀右?  忰 東京麹町
        《豊吉》  廿五 東京府    p006

第三百四十一号 『政八』  未廿二歳      p058
         安??  忰 東京赤坂
         十二年十一月七日帰朝
         十三年一月十日 返納
        《政八》  廿四 東京府    p006
         十二年十一月七日帰朝
         十三年一月十日返納

第三百四十二号 『蒹吉』  未廿六歳      p058
         善助   忰 東京?岸島
        《兼吉》  廿八 東京府    p006

第三百四十三号 『市五郎』 未廿二歳      p059
         宗吉   忰 下總國結城郡小森村
        《市五郎》 廿四 印幡縣    p006

第三百四十四号 『清八』  未廿二歳      p059
         三右?  忰 下總國印旛郡佐倉町
        《清八》  廿七 印幡縣    p007

第三百四十五号 『鶴吉』  未廿六歳      p059
         平吉   忰 甲斐國八ツ城郡平井村
        《鶴吉》  山梨縣       p007

第三百四十六号 『徳造』  未二十二歳     p059
         金兵衛  忰 美濃國関?町
         明治八年十二月三十一日返納
        《徳造》  廿四 岐阜縣    p007
         八年十二月三十一日帰朝
         ・・・・免状返納

第三百四十七号 『松五郎』 未二十二歳     p059
         源次郎  忰 東京青山
        《松五郎》 廿二 東京府    p007

第三百四十八号 『徳次郎』 未十八歳      p059
         栄吉   忰 東京神田柳原新地
        《徳次郎》 東京府       p007

第三百四十九号 『貞助』  未廿六歳      p060
         金兵衛  忰 遠江國周知郡水?久保
        《貞助》  廿八 濱松縣    p007

第三百五十号  『金次郎』 未廿五歳      p060
         清兵衛  忰 奥州高木郡川俣宿
        《金次郎》 廿七        p007

第三百五十一号 『鉄五郎』 未廿八歳      p060
         徳兵衛  忰 東京牛込寺町
        《鉄五郎》 三十 東京府    p007

第三百五十二号 『粂吉』  未二十七歳     p060
         粂次郎  忰 東京芝濱松町
        《粂吉》  弐十九 東京府   p007

第三百五十三号 『源助』  未二十四歳     p060
         儀助   忰 東京???町
         明治六年六月十二日
        《源助》  廿六 東京府    p007

第三百五十四号 『常吉』  未廿五歳      p060
         伊三郎  忰 東京浅草今戸町
        《常吉》  廿七 東京府    p007

第三百五十五号 『角次郎』 未廿八歳      p061
         吉五郎  忰 伊豆國賀茂郡下加茂村
        《角次郎》 三十 足柄縣    p007

第三百五十六号 『兼吉』  未廿三歳      p061
         長吉   忰 武蔵國多摩郡小安村
        《兼吉》  廿四        p007

第三百五十七号 『惣吉』  未廿五歳      p061
         惣??  忰 越中國新川郡魚津宿
        《惣吉》  廿七 新川縣    p007

第三百五十八号 『長吉』  未廿四歳      p061
         仁左?  忰 越後古志郡長岡呉服町
        《長吉》  廿六 柏嵜縣    p007

第三百五十九号 『三代吉』 未廿五歳      p061
         小助   忰 三河國志多羅郡河内村
        《三代吉》 廿七 額田縣    p007

第三百六十号  『清次郎』 未廿六歳      p061
         吉兵衛  忰 信濃國松本今町
        《清次郎》 廿八 筑摩縣    p008

第三百六十一号 『平兵衛』 未廿七歳      p062
         半兵衛  忰 下総國相馬郡取手宿
        《平兵衛》 廿九 印幡縣    p008

第三百六十二号 『鉄五郎』 未廿三歳      p062
         元次郎  忰 東京浅草七軒堀
        《鉄五郎》 廿五 東京府    p008

第三百六十三号 『吉兵衛』 未廿六歳      p062
         幸吉   忰 東京人形町
         明治六年七月?日返納
        《吉兵衛》 廿八 東京府    p008

第三百六十四号 『清吉』  未廿五歳      p062
         久右馬  忰 下総國九十九里
        《清吉》  廿七        p008

第三百六十五号 『久吉』  未廿三歳      p062
         惣吉   忰 相模國小田原筋??
        《久吉》  廿五 足柄縣    p008

第三百六十六号 『繁三郎』 未廿七歳      p062
         貢    忰 武蔵國神奈川
        《繁三郎》 廿八 神奈川縣   p008

第三百六十七号 『榮蔵』  未二十四歳     p063
         太兵衛  忰 駿河國宇土郡人?町
        《榮藏》  廿六 静岡縣    p008

第三百六十八号 『房吉』  未二十三歳     p063
         重兵衛  忰 東京芝田町
        《房吉》  廿五 東京府    p008

第三百六十九号 『源吉』  未二十四歳     p063
         源兵衛  忰 紀伊國和歌山本町
        《源吉》  廿六 和歌山縣   p008

第三百七十号  『勘介』  未二十五歳     p063
         九兵衛  弟 東京本?四丁目
        《勘助》  廿七 東京府    p008

第三百七十一号 『松五郎』 未二十八歳     p063
         藤兵衛  弟 東京松島町
        《松五郎》 廿九 東京府    p008

第三百七十二号 『菊次郎』 未二十六歳     p063
         萬藏   忰 讃岐國金毘羅門
        《菊二郎》 廿八 香川縣    p008

第三百七十三号 『龍之助』 未二十四歳     p064
         藤藏   忰 越後國蒲原郡???
        《龍之助》 廿五        p008

第三百七十四号 『拾一郎』 未廿三歳      p064
         ???  忰 越前國敦賀新田村
        《拾一郎》 廿五 敦賀縣    p008

第三百七十五号 『幾松』  未二十三歳     p064
         源七   忰 東京今戸町
        《幾松》  廿五 東京府    p008

第三百七十六号 『已之助』 未二十三歳     p064
         善之助  忰 東京西ノ久保
        《已之助》 二十五 東京府   p009

第三百七十七号 『太吉』  未二十四歳     p064
         十??  忰 東京?玉ケ池
        《太吉》  廿六 東京府    p009

本稿[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)
別稿[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)
   布哇島出稼:ハワイ出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/594/

上記の多くの人達は、アメリカ本土に移住か? 小野一雄

ハワイへの日本人集団移民第一号     153名
帰国希望の約40名を日本に帰国     約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。           11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。     約50名
ハワイに残留。              40名強

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)哇布島出稼:米國出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/595/

<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せたサイオト号が、
ホノルルに到着しました。
1869年12月(明治2年己巳10月28日)に民部監督正という役職にあった
上野景範がハワイに到着し、
ハワイ政府に移民の送還と、バンリードの処罰を求めました。
交渉は難航しましたが、上野特使が調査した結果、
日本人移民の不満の多くが生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる
誤解などによるものが多く、
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような
状況ではないことが明らかになってきました。
特に、日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者がこのまま就労を続けたいという希望であることも分かってきました。
結果的には、ハワイ政府がバンリードの総領事罷免を確約したことから、
上野は帰国希望の約40名を日本に帰国させて
日本とハワイの交渉は一応、解決しました。
残る約110名は無事に3年間の就労を終えましたが、
その後、日本に帰ったのは、わずかに11名だったといいます。
それ以外の元年者の半数は、賃金の高いアメリカ本土へ移住し、
ハワイに残留したのは40名強だったようです。
ハワイに残留した元年者のほとんどは、ハワイアンの女性と結婚し、
本当のハワイ移住民となりました。
そして、上野特使派遣後の
1871年8月(明治4年辛未6月15日)、日本ハワイ修好条約が結ばれ、
バンリードは条約締結に奔走した功績が認められ、
日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任します。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/

<アロハ Web カワラ版>
官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼
日本政府の強い要求により
駐在ハワイ公使を一時辞任していたバンリードの活躍もあって、
1871年(明治4年辛未)に「日本ハワイ修好通商条約」が締結され、
元年者移民問題を平和裏に解決したことから、
日本政府はアメリカ本土への移動を希望する元年者に旅券を交付しました。
しかも、ハワイ駐在アメリカ公使ピアースに
日本労働監督官を委嘱することさえしました。
これによって、出稼ぎであれ、移民であれ、
日本人のハワイ渡航は法的には可能になったのですが、
実際はそう簡単にはいかなかったのです。
ハワイ側も元年者に続く、新しい日本人の出稼ぎ者の送出を
再三にわたって日本側に要請しましたが、
結局、日本政府は一向に認めようとはしなかったのです。
1885年(明治18年)に日本ハワイ労働移民条約が締結され、
官約移民が実現するまで、事実上、移民の空白期間が続くことになります。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040506/

<参考>
次いで、千八百六十九年(明治二年)
在日本布哇領事イヴジーンヴァンリード氏の斡旋で、
又もや四十八人の日本人が布哇に渡った。
之は第二回の布哇移民であるが、

【海外活動之日本人】明治39年10月発行
四 布哇移民の小歷史 p88/139
本稿を終るに當り、布哇移民の小歷史を掲げやう。
之は外務省發行の「通商彚纂」、「今日の布哇」、
其の他國際雑誌に出た倉知法學士の説に依つたのである。
  ▲布哇移民の濫觴
その溜觴に溯ると、遥然(ずつと)明治の初年に端緒が開かれた。
或移民通の言に依ると、明治元年、米國人のベンリュといふ者が、
何でも日本に遣つて来て、横濱商人の木村某といふ男を語らへ、
百五十名の人數を募つて、布哇に送つた、
之ぞ日本人が移民として布哇の地に足を着けた最初で、
今から思ふと此の木村某は所謂移民會社の仕事を遣つたのだ、
即ち明治維新と共に、
海外發展の隨一たる移民業が開かれたものといつても可からう、
但し當時此の木村某は、幾何の手數料を取つたものか判らぬ。 p88/139
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800865/88

現時ホノルル市で、コックの教習所を開いてゐる
石村市五郎と云ふ男は、丁度此時布哇に渡つた一人であるといふ。 p89/139

次いで、千八百六十九年 ― 明治二年、
在日本布哇領事イヴジーンヴァンリード氏の斡旋で、
又もや四十八人の日本人が布哇に渡った。
之は第二回の布哇移民であるが、
此の二回の移民があつたのを段落として、
爾来十六年間、即ち明治十七年に至る迄は、
頓と布哇に出るものもなければ、
また之に力を盡す者もなかつた、
否當時の日本國は、自由民権を稱ふることは知つてゐたが、
世界的事業たる移民業に眼を注ぐやうな活眼者は、
藥にしたくても無かつたので。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800865/89

明治三十九年十月九日 印刷
明治三十九年十月十三日発行
著作兼発行者 横山源之助
       小石川区指ケ谷町百三十番地
印刷者    白土幸力
       神田区美土代町二丁目一番地
印刷所    三光堂
       神田区美土代町二丁目一番地
発行所    松華堂
       神田区錦町十二番地
大賣捌所   清水書店
       神田区今川小路二丁目
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800865/134

【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より