[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)哇布島出稼:米國出稼
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米國出稼》
473号~509号 37名
第四百七十三号 『和蔵』 未廿七歳 p080
勘蔵 忰 濃??
哇布島出稼人
《和藏》 廿九 岐阜縣 p010
第四百七十四号 『又吉』 未廿六歳 p080
??? 忰 武蔵川越本町
《又吉》 廿八 入間縣 p010
第四百七十五号 『政吉』 未廿六歳 p081
卯?? 忰 大坂?久太郎町
《政吉》 廿八 大阪府 p010
第四百七十六号 『幸次郎』 未廿七歳 p081
??? 忰 同所博労町
明治六年九月三十日返納
《幸次郎》 廿九 大阪府 p010
第四百七十七号 『文吉』 未廿九歳 p081
文藏 忰 東京日本橋数寄屋町
明治十年七月廿三日帰朝
・・・・・・・・・・
十一年一月十一日届出
《文吉》 三十一 東京府 p010
十一年一月十一日免状紛失ノ為
東京府・届出
第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳 p081
杉野忠兵衛忰 名古屋藩
《忠次郎》 三十二 愛知縣 p011
第四百七十九号 『亀吉』 未廿三歳 p081
弥助 忰 西京佐原本町
《亀吉》 廿五 京都府 p011
第四百八十号 『半七』 未廿四歳 p081
武助 忰 東京浅草田町
《半七》 廿六 東京府 p011
第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳 p082
寅次郎 忰 武蔵??郡小塚原町
《文次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十二号 『米吉』 未三十歳 p082
又右衛門 忰 上総久留里願戸崎村
《米吉》 三十一 木更湊縣 p011
第四百八十三号 『金次郎』 未廿四歳 p082
藤吉 忰 東京深川大工町
《金次郎》 廿六 東京府 p011
第四百八十四号 『豊次郎』 未二十九歳 p082
源吉 忰 武蔵入間郡藤澤村
《豊次郎》 三十一 入間縣 p011
第四百八十五号 『庄兵衛』 未廿八歳 p082
吉右衛門 忰 下総葛飾郡流山村
《庄兵衛》 廿九 印幡縣 p011
第四百八十六号 『竹次郎』 未廿三歳 p082
重太郎 忰 東京浅草南馬道
《竹次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村
《國藏》 廿七 p011
第四百八十八号 『長吉』 未三十歳 p083
兵助 忰 下総結城郡結城町
《長吉》 三十二 印幡縣 p011
第四百八十九号 『豊吉』 未二十九歳 p083
直藏 倅 東京駒込片町
《豊吉》 三十一 東京府 p011
第四百九十号 『金太郎』 未廿九歳 p083
喜三郎 弟 東京深川佃?場
《金太郎》 三十一 東京府 p011
第四百九十一号 『とめ』 未十九歳 p083
金太郎 妻 東京深川佃?場
《とめ》 廿一 金太郎 妻 p011
第四百九十二号 『熊次郎』 未廿五歳 p083
久兵衛 忰 摂津武庫郡西宮
《熊次郎》 廿七 兵庫縣 p011
第四百九十三号 『常吉』 未廿六歳 p084
定次郎 忰 東京本郷追分?町
《常吉》 廿八 東京府 p011
第四百九十四号 『半吉』 未二十四歳 p084
市兵衛 倅 ・・・・・・・・村
《半吉》 廿五 神奈川縣 p012
第四百九十五号 『勝三郎』 未二十五歳 p084
長左衛門 倅 東京芝通新町
《勝三郎》 廿七 東京府 p012
第四百九十六号 『周蔵』 未三十二歳 p084
平三郎 店 東京浅草田町
《周藏》 三十四 東京府 p012
第四百九十七号 『啓助』 未三十一歳 p084
?兵衛 倅 東京田原町
《啓助》 三十四 東京府 p012
第四百九十八号 『政吉』 未二十五歳 p084
喜右衛門 倅 ・・・・郡葛原村
《政吉》 廿七 足柄縣 p012
第四百九十九号 『長次郎』 未廿八歳 p085
廣吉 倅 東京深川扇町
《長次郎》 三十 東京府 p012
第五百号 『藤吉』 未廿七歳 p085
冨五郎 倅 東京浅草今戸町
《藤吉》 廿九 東京府 p012
第五百一号 『市五郎』 未十八歳 p085
林藏 倅 ・・小田原・・橋町
《市五郎》 二十 足柄縣 p012
第五百二号 『松五郎』 未廿四歳 p085
伊三郎 倅 東京深川大崎町
《松五郎》 廿六 東京府 p012
第五百三号 『寅次郎』 未廿八歳 p085
寅五郎 倅 武州・・・・・・
《寅次郎》 三十 神奈川縣 p012
第五百四号 『辰次郎』 未三十歳 p085
仲右衛門 倅 武州埼玉郡・・・
《辰次郎》 三十二 嵜玉縣 p012
第五百五号 『冨太郎』 未廿八歳 p086
文市郎 倅 ・・八代郡市川村
《冨太郎》 三十 山梨縣 p012
第五百六号 『熊吉』 未二十歳 p086
傳右衛門 倅 越後蒲原郡小仲川村
《熊吉》 廿二 新潟縣 p012
第五百七号 『新吉』 未廿一歳 p086
長吉 倅 東京中・南傳馬町
《新吉》 廿三 東京府 p012
第五百八号 『重蔵』 未廿五歳 p086
傳右衛門 倅 駿河・・郡静岡上横田町
《重藏》 廿七 静岡縣 p012
第五百九号 『竹次郎』 未三十六歳 p086
直左衛門 倅 甲州巨摩郡三ノ輪村
《竹次郎》 三十八 山梨縣 p012
本稿[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)
ハワイに残留の人達か? 小野一雄
ハワイへの日本人集団移民第一号 153名
帰国希望の約40名を日本に帰国 約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。 11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。 約50名
ハワイに残留。 40名強
[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/
[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)布哇島出稼:ハワイ出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/594/
【邦人海外発展史】昭和17年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461457/46
前掲「渡海日誌」の筆者佐久間米松が、
後年加哇島リフェ耕地就働者十一名の出身地及び
それらのものが後にどうなつたかを記してゐる。
それを見ると元年渡航者の出身地が、
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
詳細は、別稿に記載。 小野一雄
第四百七十七号 『文吉』 未廿九歳 p081
文藏 忰 東京日本橋数寄屋町
明治十年七月廿三日帰朝
・・・・・・・・・・
十一年一月十一日届出
《文吉》 三十一 東京府 p010
十一年一月十一日免状紛失ノ為
東京府・届出
第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳 p081
杉野忠兵衛忰 名古屋藩
《忠次郎》 三十二 愛知縣 p011
第四百七十九号 『亀吉』 未廿三歳 p081
弥助 忰 西京佐原本町
《亀吉》 廿五 京都府 p011
第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳 p082
寅次郎 忰 武蔵??郡小塚原町
《文次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村
《國藏》 廿七 p011
第四百八十八号 『長吉』 未三十歳 p083
兵助 忰 下総結城郡結城町
《長吉》 三十二 印幡縣 p011
第四百九十号 『金太郎』 未廿九歳 p083
喜三郎 弟 東京深川佃?場
《金太郎》 三十一 東京府 p011
第四百九十一号 『とめ』 未十九歳 p083
金太郎 妻 東京深川佃?場
《とめ》 廿一 金太郎 妻 p011
第五百二号 『松五郎』 未廿四歳 p085
伊三郎 倅 東京深川大崎町
《松五郎》 廿六 東京府 p012
<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せたサイオト号が、
ホノルルに到着しました。
1869年12月(明治2年己巳10月28日)に民部監督正という役職にあった
上野景範がハワイに到着し、
ハワイ政府に移民の送還と、バンリードの処罰を求めました。
交渉は難航しましたが、上野特使が調査した結果、
日本人移民の不満の多くが生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる
誤解などによるものが多く、
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような
状況ではないことが明らかになってきました。
特に、日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者がこのまま就労を続けたいという希望であることも分かってきました。
結果的には、ハワイ政府がバンリードの総領事罷免を確約したことから、
上野は帰国希望の約40名を日本に帰国させて
日本とハワイの交渉は一応、解決しました。
残る約110名は無事に3年間の就労を終えましたが、
その後、日本に帰ったのは、わずかに11名だったといいます。
それ以外の元年者の半数は、賃金の高いアメリカ本土へ移住し、
ハワイに残留したのは40名強だったようです。
ハワイに残留した元年者のほとんどは、
ハワイアンの女性と結婚し、
本当のハワイ移住民となりました。
そして、上野特使派遣後の
1871年8月(明治4年辛未6月15日)、日本ハワイ修好条約が結ばれ、
バンリードは条約締結に奔走した功績が認められ、
日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任します。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/
<アロハ Web カワラ版>
官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼
日本政府の強い要求により
駐在ハワイ公使を一時辞任していたバンリードの活躍もあって、
1871年(明治4年辛未)に「日本ハワイ修好通商条約」が締結され、
元年者移民問題を平和裏に解決したことから、
日本政府はアメリカ本土への移動を希望する元年者に旅券を交付しました。
しかも、ハワイ駐在アメリカ公使ピアースに
日本労働監督官を委嘱することさえしました。
これによって、出稼ぎであれ、移民であれ、
日本人のハワイ渡航は法的には可能になったのですが、
実際はそう簡単にはいかなかったのです。
ハワイ側も元年者に続く、新しい日本人の出稼ぎ者の送出を
再三にわたって日本側に要請しましたが、
結局、日本政府は一向に認めようとはしなかったのです。
1885年(明治18年)に日本ハワイ労働移民条約が締結され、
官約移民が実現するまで、事実上、移民の空白期間が続くことになります。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040506/
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米國出稼》
473号~509号 37名
第四百七十三号 『和蔵』 未廿七歳 p080
勘蔵 忰 濃??
哇布島出稼人
《和藏》 廿九 岐阜縣 p010
第四百七十四号 『又吉』 未廿六歳 p080
??? 忰 武蔵川越本町
《又吉》 廿八 入間縣 p010
第四百七十五号 『政吉』 未廿六歳 p081
卯?? 忰 大坂?久太郎町
《政吉》 廿八 大阪府 p010
第四百七十六号 『幸次郎』 未廿七歳 p081
??? 忰 同所博労町
明治六年九月三十日返納
《幸次郎》 廿九 大阪府 p010
第四百七十七号 『文吉』 未廿九歳 p081
文藏 忰 東京日本橋数寄屋町
明治十年七月廿三日帰朝
・・・・・・・・・・
十一年一月十一日届出
《文吉》 三十一 東京府 p010
十一年一月十一日免状紛失ノ為
東京府・届出
第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳 p081
杉野忠兵衛忰 名古屋藩
《忠次郎》 三十二 愛知縣 p011
第四百七十九号 『亀吉』 未廿三歳 p081
弥助 忰 西京佐原本町
《亀吉》 廿五 京都府 p011
第四百八十号 『半七』 未廿四歳 p081
武助 忰 東京浅草田町
《半七》 廿六 東京府 p011
第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳 p082
寅次郎 忰 武蔵??郡小塚原町
《文次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十二号 『米吉』 未三十歳 p082
又右衛門 忰 上総久留里願戸崎村
《米吉》 三十一 木更湊縣 p011
第四百八十三号 『金次郎』 未廿四歳 p082
藤吉 忰 東京深川大工町
《金次郎》 廿六 東京府 p011
第四百八十四号 『豊次郎』 未二十九歳 p082
源吉 忰 武蔵入間郡藤澤村
《豊次郎》 三十一 入間縣 p011
第四百八十五号 『庄兵衛』 未廿八歳 p082
吉右衛門 忰 下総葛飾郡流山村
《庄兵衛》 廿九 印幡縣 p011
第四百八十六号 『竹次郎』 未廿三歳 p082
重太郎 忰 東京浅草南馬道
《竹次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村
《國藏》 廿七 p011
第四百八十八号 『長吉』 未三十歳 p083
兵助 忰 下総結城郡結城町
《長吉》 三十二 印幡縣 p011
第四百八十九号 『豊吉』 未二十九歳 p083
直藏 倅 東京駒込片町
《豊吉》 三十一 東京府 p011
第四百九十号 『金太郎』 未廿九歳 p083
喜三郎 弟 東京深川佃?場
《金太郎》 三十一 東京府 p011
第四百九十一号 『とめ』 未十九歳 p083
金太郎 妻 東京深川佃?場
《とめ》 廿一 金太郎 妻 p011
第四百九十二号 『熊次郎』 未廿五歳 p083
久兵衛 忰 摂津武庫郡西宮
《熊次郎》 廿七 兵庫縣 p011
第四百九十三号 『常吉』 未廿六歳 p084
定次郎 忰 東京本郷追分?町
《常吉》 廿八 東京府 p011
第四百九十四号 『半吉』 未二十四歳 p084
市兵衛 倅 ・・・・・・・・村
《半吉》 廿五 神奈川縣 p012
第四百九十五号 『勝三郎』 未二十五歳 p084
長左衛門 倅 東京芝通新町
《勝三郎》 廿七 東京府 p012
第四百九十六号 『周蔵』 未三十二歳 p084
平三郎 店 東京浅草田町
《周藏》 三十四 東京府 p012
第四百九十七号 『啓助』 未三十一歳 p084
?兵衛 倅 東京田原町
《啓助》 三十四 東京府 p012
第四百九十八号 『政吉』 未二十五歳 p084
喜右衛門 倅 ・・・・郡葛原村
《政吉》 廿七 足柄縣 p012
第四百九十九号 『長次郎』 未廿八歳 p085
廣吉 倅 東京深川扇町
《長次郎》 三十 東京府 p012
第五百号 『藤吉』 未廿七歳 p085
冨五郎 倅 東京浅草今戸町
《藤吉》 廿九 東京府 p012
第五百一号 『市五郎』 未十八歳 p085
林藏 倅 ・・小田原・・橋町
《市五郎》 二十 足柄縣 p012
第五百二号 『松五郎』 未廿四歳 p085
伊三郎 倅 東京深川大崎町
《松五郎》 廿六 東京府 p012
第五百三号 『寅次郎』 未廿八歳 p085
寅五郎 倅 武州・・・・・・
《寅次郎》 三十 神奈川縣 p012
第五百四号 『辰次郎』 未三十歳 p085
仲右衛門 倅 武州埼玉郡・・・
《辰次郎》 三十二 嵜玉縣 p012
第五百五号 『冨太郎』 未廿八歳 p086
文市郎 倅 ・・八代郡市川村
《冨太郎》 三十 山梨縣 p012
第五百六号 『熊吉』 未二十歳 p086
傳右衛門 倅 越後蒲原郡小仲川村
《熊吉》 廿二 新潟縣 p012
第五百七号 『新吉』 未廿一歳 p086
長吉 倅 東京中・南傳馬町
《新吉》 廿三 東京府 p012
第五百八号 『重蔵』 未廿五歳 p086
傳右衛門 倅 駿河・・郡静岡上横田町
《重藏》 廿七 静岡縣 p012
第五百九号 『竹次郎』 未三十六歳 p086
直左衛門 倅 甲州巨摩郡三ノ輪村
《竹次郎》 三十八 山梨縣 p012
本稿[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)
ハワイに残留の人達か? 小野一雄
ハワイへの日本人集団移民第一号 153名
帰国希望の約40名を日本に帰国 約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。 11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。 約50名
ハワイに残留。 40名強
[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/
[本官勘合帳 外國官一号]第538号~第543号(6名)布哇島出稼:ハワイ出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/594/
【邦人海外発展史】昭和17年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461457/46
前掲「渡海日誌」の筆者佐久間米松が、
後年加哇島リフェ耕地就働者十一名の出身地及び
それらのものが後にどうなつたかを記してゐる。
それを見ると元年渡航者の出身地が、
【 】『国立国会図書館・近代デジタルライブラリー』より
詳細は、別稿に記載。 小野一雄
第四百七十七号 『文吉』 未廿九歳 p081
文藏 忰 東京日本橋数寄屋町
明治十年七月廿三日帰朝
・・・・・・・・・・
十一年一月十一日届出
《文吉》 三十一 東京府 p010
十一年一月十一日免状紛失ノ為
東京府・届出
第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳 p081
杉野忠兵衛忰 名古屋藩
《忠次郎》 三十二 愛知縣 p011
第四百七十九号 『亀吉』 未廿三歳 p081
弥助 忰 西京佐原本町
《亀吉》 廿五 京都府 p011
第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳 p082
寅次郎 忰 武蔵??郡小塚原町
《文次郎》 廿五 東京府 p011
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村
《國藏》 廿七 p011
第四百八十八号 『長吉』 未三十歳 p083
兵助 忰 下総結城郡結城町
《長吉》 三十二 印幡縣 p011
第四百九十号 『金太郎』 未廿九歳 p083
喜三郎 弟 東京深川佃?場
《金太郎》 三十一 東京府 p011
第四百九十一号 『とめ』 未十九歳 p083
金太郎 妻 東京深川佃?場
《とめ》 廿一 金太郎 妻 p011
第五百二号 『松五郎』 未廿四歳 p085
伊三郎 倅 東京深川大崎町
《松五郎》 廿六 東京府 p012
<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せたサイオト号が、
ホノルルに到着しました。
1869年12月(明治2年己巳10月28日)に民部監督正という役職にあった
上野景範がハワイに到着し、
ハワイ政府に移民の送還と、バンリードの処罰を求めました。
交渉は難航しましたが、上野特使が調査した結果、
日本人移民の不満の多くが生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる
誤解などによるものが多く、
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような
状況ではないことが明らかになってきました。
特に、日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者がこのまま就労を続けたいという希望であることも分かってきました。
結果的には、ハワイ政府がバンリードの総領事罷免を確約したことから、
上野は帰国希望の約40名を日本に帰国させて
日本とハワイの交渉は一応、解決しました。
残る約110名は無事に3年間の就労を終えましたが、
その後、日本に帰ったのは、わずかに11名だったといいます。
それ以外の元年者の半数は、賃金の高いアメリカ本土へ移住し、
ハワイに残留したのは40名強だったようです。
ハワイに残留した元年者のほとんどは、
ハワイアンの女性と結婚し、
本当のハワイ移住民となりました。
そして、上野特使派遣後の
1871年8月(明治4年辛未6月15日)、日本ハワイ修好条約が結ばれ、
バンリードは条約締結に奔走した功績が認められ、
日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任します。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/
<アロハ Web カワラ版>
官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼
日本政府の強い要求により
駐在ハワイ公使を一時辞任していたバンリードの活躍もあって、
1871年(明治4年辛未)に「日本ハワイ修好通商条約」が締結され、
元年者移民問題を平和裏に解決したことから、
日本政府はアメリカ本土への移動を希望する元年者に旅券を交付しました。
しかも、ハワイ駐在アメリカ公使ピアースに
日本労働監督官を委嘱することさえしました。
これによって、出稼ぎであれ、移民であれ、
日本人のハワイ渡航は法的には可能になったのですが、
実際はそう簡単にはいかなかったのです。
ハワイ側も元年者に続く、新しい日本人の出稼ぎ者の送出を
再三にわたって日本側に要請しましたが、
結局、日本政府は一向に認めようとはしなかったのです。
1885年(明治18年)に日本ハワイ労働移民条約が締結され、
官約移民が実現するまで、事実上、移民の空白期間が続くことになります。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040506/