[外國官一号]第473~509号:第332~第377号【邦人海外発展史】昭和17年

[本官勘合帳 外國官一号]

[航海人明細鑑3]

『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

『未□□歳 ※明治4年辛未(1871年2月)』
《□□ 明治6年(1873)》
《米國出稼》

ハワイへの日本人集団移民第一号     153名
帰国希望の約40名を日本に帰国     約40名
残る約110名は3年間の就労を終える。 110名
その後、日本に帰国。           11名
それ以外の元年者の半数は、
賃金の高いアメリカ本土へ移住。     約50名
ハワイに残留。              40名強

[本官勘合帳 外國官一号]第473号~第509号(37名)
 哇布島出稼:米國出稼
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/595/

〔ハワイに残留の人達〕

第四百七十七号 『文吉』  未廿九歳      p081
         文藏   忰 東京日本橋数寄屋町
         明治十年七月廿三日帰朝
         ・・・・・・・・・・
         十一年一月十一日届出
        《文吉》  三十一 東京府   p010
         十一年一月十一日免状紛失ノ為
         東京府・届出
※A-1
村田文吉 江戸日本橋数寄屋町生、歸國

第四百七十八号 『忠次郎』 未三十歳      p081
         杉野忠兵衛忰 名古屋藩
        《忠次郎》 三十二 愛知縣   p011
※A-2
忠五郎 江戸市ケ谷町尾張候家僕料理番 杉野忠兵倅、歸國

第四百七十九号 『亀吉』  未廿三歳      p081
         弥助   忰 西京佐原本町
        《亀吉》  廿五 京都府    p011
※A-3
亀吉 京都新左原喜町戎川上ル日和臺 安助倅、  479号
   加哇ワイメアに於て死亡、
   亀吉は三年契約済みの後鍛冶職となる

第四百八十一号 『文次郎』 未二十三歳     p082
         寅次郎  忰 武蔵??郡小塚原町
        《文次郎》 廿五 東京府    p011
※A-4
文治郎 江戸千住小柄原郡生、鳶寅倅、ホノルル在住

第四百八十七号 『國蔵』  未二十五歳     p083
         徳次郎  忰 下総市場郡木下風村
        《國藏》  廿七        p011
※B-1
広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て
1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にある
ヒロの町にお店を開きます。

第四百八十八号 『長吉』  未三十歳      p083
         兵助   忰 下総結城郡結城町
        《長吉》  三十二 印幡縣   p011
※A-5
同六日「厳重の煙草を飲み、長吉は手錠を嵌められ候」

第四百九十号  『金太郎』 未廿九歳      p083
         喜三郎  弟 東京深川佃?場
        《金太郎》 三十一 東京府   p011
第四百九十一号 『とめ』  未十九歳      p083
         金太郎  妻 東京深川佃?場
        《とめ》  廿一 金太郎 妻  p011
※B-2
アメリカで初めての二世弁護士になった小澤健三郎アーサーがいます。
元年者移民小澤金太郎夫妻のハワイ生まれの二世です。

第五百二号   『松五郎』 未廿四歳      p085
         伊三郎  倅 東京深川大崎町
        《松五郎》 廿六 東京府    p012
※B-3
元年者の桑田松五郎の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、
1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。

第五百七号   『新吉』  未廿一歳      p086
         長吉   倅 東京中・南傳馬町
        《新吉》  廿三 東京府    p012
※A-6
新吉  江戸深川字辨大工町生、兼吉倅、ホノルルに於て死亡

[本官勘合帳 外國官一号]第332号~第377号(46名)布哇(ハワイ移民)
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/593/

第三百六十六号 『繁三郎』 未廿七歳      p062
         貢    忰 武蔵國神奈川
        《繁三郎》 廿八 神奈川縣   p008
※A-7
繁三郎 出羽國生、佐々和左門倅平間藤林(醫師)男、ホノルルに於て死亡、
    繁三郎はホノルルに於て手押車を作り、
    水果(原文のまゝ)パン類を商ひし先祖なり

第三百六十七号 『榮蔵』  未二十四歳     p063
         太兵衛  忰 駿河國宇土郡人?町
        《榮藏》  廿六 静岡縣    p008
※A-8
榮藏  武藏國埼玉郡クオク村生、百姓兵左衛門倅、ホノルルに於て死亡

第三百七十号  『勘介』  未二十五歳 p063
         九兵衛  弟 東京本?四丁目
        《勘助》  廿七 東京府    p008
※A-9
勘助 江戸深川相生町生、源太郎倅、
   明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡

第三百七十七号 『太吉』  未二十四歳     p064
         十??  忰 東京?玉ケ池
        《太吉》  廿六 東京府    p009
※A-10
太吉 静岡縣宇土郡伊川町生、清水屋鐡五郎倅、歸國

※A
【邦人海外発展史】昭和17年
船は英國商船サイオト號である。
(明治元年)四月二十五日夜横濱を出帆し、海上三十五日を費して、
五月二日(四月は閏)ホノルルに到着した。
移民の一人佐久間米松は、横浜出帆からホノルル上陸まで、
一日も欠かさず「渡海日誌」を書き續けた。
同六日「厳重の煙草を飲み、長吉は手錠を嵌められ候」 ※A-5 第488号
「・・・元締富三郎様より・・・」
同八日に「七番武助、四番虎吉、・・・」
その總取締が富三郎である。姓を牧野と言つた。 p41/586
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/41

明治四年には黒田萬次郎なるものが、
一臺の古馬車を買って、乗合馬車屋を開業した。
これハワイに於ける乗合馬車の元祖だとある。  p46/586

前掲「渡海日誌」の筆者佐久間米松が、
後年加哇島リフェ耕地就働者十一名の出身地及び
それらのものが後にどうなつたかを記してゐる。
それを見ると元年渡航者の出身地が、
廣く各地に亘つてゐることが判るし、
またその全體の落着どころが大體想像出来ると思ふ。
一 千代松  河内國錦郡生、左官友吉の男、加哇リフェ耕地に於て死亡
一 繁三郎  出羽國生、佐々和左門倅平間藤林(醫師)男、
       ホノルルに於て死亡、
       繁三郎はホノルルに於て手押車を作り、
       水果(原文のまゝ)パン類を商ひし先祖なり ※A-7  第336号
一 新吉   江戸深川字辨大工町生、兼吉倅、
       ホノルルに於て死亡            ※A-6  第507号
一 榮藏   武藏國埼玉郡クオク村生、百姓兵左衛門倅、
       ホノルルに於て死亡            ※A-8  第367号
一 文治郎  江戸千住小柄原郡生、鳶寅倅、ホノルル在住 ※A-4  第481号
       明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡
一 勘助   江戸深川相生町生、源太郎倅、       ※A-9  第370号
       明治三十八年加哇リフェ耕地に於て死亡
一 村田文吉 江戸日本橋数寄屋町生、歸國         ※A-1  第477号
一 惣平   美濃國カニヱ郡下海道池田塾生、百姓彌作倅、歸國
一 太吉   静岡縣宇土郡伊川町生、清水屋鐡五郎倅、歸國※A-10 第377号
一 忠五郎  江戸市ケ谷町尾張候家僕料理番
       杉野忠兵倅、歸國             ※A-2  第478号
一 亀吉   京都新左原喜町戎川上ル日和臺 安助倅、  ※A-3  第479号
       加哇ワイメアに於て死亡、
       亀吉は三年契約済みの後鍛冶職となる
       (前出「布哇五十年史」) p46/586

米松がこれを記したのは何時のことだか判らない。
しかし三十八年死亡のことが書いてある位だから、
それ以後であることは明かだ。
渡航後少なくとも四十年近くを過してからの記録である。
従つてその出身地の如きは誤記があるかも知れない。
ホノルルに於て死亡とあるのは、耕地労働をやめて、
同地で何かの商賣に従事してゐたものと見てよい。
歸國とあるのも、契約期限後すぐに歸國したものと見るべきでなく、
なほしばらくハワイに止つて活動し後に歸國したと取るべきであらう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/46

昭和十七年十一月三十日印刷
昭和十七年十二月五日 発行
著作者 入江寅次
発行者 井田宗一
    東京市神田区錦町一ノ二三
印刷者 栗原光三
    東京市下谷区上野山下町一ノ二
配給元 日本出版配給株式会社
    東京市神田区淡路町二ノ九
発行所 株式会社 井田書店
    東京市神田区錦町一ノ二三
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461457/1/582
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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注記B
[布哇日系人会館]
ハワイへ日本民族の大移動
明治の日本人が作ったハワイに学ぶ (第一話)
布哇ジャパニーズセンター長 本田正文
今は、明日がわからない不安な時代と言う人もいますが、
実は、現代の日本人は「現在」がどうやってできてきたかを知らないから、
よりよき「明日」をどう作ったらいいのかわからいのかもしれません。
ハワイで見えてくる明治の日本人による日本の国際化と
人間や町作りを知ることで、
現在がもっとはっきりと見えてくるのではないでしょうか。
ヒロの町 B.J.Baker撮影 1924年
ハワイには、現在を作った日本の過去が残っています。
1868年、140年くらい前に153人が、
明治維新の前にハワイへと鎖国の日本から海外へと旅立ったのです。
たった153人の日本人先駆者達も、
日本、ハワイ、アメリカを変える力となっていきます。
例えば、
広島出身の鈴木国蔵(※B-1 別稿に記載)は二度目の妻として
オランダ人と結婚して資金を得て1880年代に
ハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にあるヒロの町にお店を開きます。
そこへ1885年から始まるハワイ王朝政府と明治政府の協定によって始まった
官約移民が毎年何千人も押しかけてきてヒロを近代的な町にしてしまいます。
ハワイ全島では、明治27年までに29、139人がハワイに渡ってきました。
ホノルルより前に、当時の横浜にも負けない
港町がハワイ島のヒロにできてしまいます。
そこで稼いだ鈴木国蔵は広島に大金を持って帰ります。
今でも宮島に大きな鈴木国蔵の灯篭が
当時のハワイからの経済援助の大きさを物語っています。
実は、日本はこれまでにハワイに行った明治の移民たちから
かなりの経済援助を受けてきたことは、
明治、大正、昭和の移民の歴史を調べればわかります。
ハワイの先駆者たちはお金だけでなく、現代のアメリカや日本を変え、
日米共存を可能にした戦前と戦後支えた「知恵」も残していきました。
元年者の子供、二世、にアメリカで初めての二世弁護士になった
小澤健三郎アーサーがいます。
元年者移民小澤金太郎夫妻(※B-2)のハワイ生まれの二世です。
1907年日本はやっと日露戦争で勝ち、
世界の列強たちに仲間入りしたばかりのころに、
すでに大国だったアメリカの弁護士になったのです。
更に、元年者の桑田松五郎(※B-3)の孫、三世、は、ハワイ島郡長になり、
1963年にハワイ島と伊豆大島との姉妹島提携しに努力しました。
日米間の町で増えている姉妹都市の魁も
明治のハワイへの開拓者たちの子孫なのです。
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