鈴木国藏:千葉縣印旛郡木下風【新布哇】明治35年1月5日発行
[本官勘合帳 外國官一号]
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村 ※1
《國藏》 廿七 p011
米國出稼
広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て
1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にある
ヒロの町にお店を開きます。
http://hawaiijapanesecenter.com/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95/
【新布哇】明治35年1月5日発行
鈴木国藏君 写真 p416/550
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/416
鈴木国藏 p431/550
千葉縣印旛郡木下風 ※2
布哇島ヒロ市
幼少の時は非常に困難を嘗め屡々他家に奉公せしことありしが
曾て我が居村なる八幡の祠に果なくも一夜を明し
我若し志を成さば必ず禮參をなさんと云ふ迄に零落したることあり
慶應三年四月二十五日 ※3-1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)
独逸人ベレリウテーに雇はれ甘蔗栽培の勞働者として布哇へ渡り
帆船にて三十一日目に到着せり
時に二十二
同行の勞働人 男百五十人 女六人
一ケ月の給料四弗の約束を以てマウイ島の甘蔗耕地に働くこと數年
其言語に慣れず事情に通ぜず勞働は激しく實に困難憂愁云はん方なく
雨に風に幾たびか日本の方に向ひ涙を濺ぎしが
後布哇の内務大臣ドクトルハッチソンのボーイとなり
辛うじて百五十弗の貯金をなし
四十一歳の十月十二日より初めて商店をヒロ市に開き
一膳飯と些少の果物を販賣せしが其頃ヒロも非常に寂寞にて
日本人の商店とては別にこれあらず
存外能く繁昌し遂に支那人の手を經し日本食料品を販賣せり
君は初め土人を妻とせしが故あつて離別し
今は葡人メリアジユリーを妻とし其子女五人あり
而して今日に至り君が商店は日々盛大に赴き
有ゆる雑貨より食料品に至るまで殆んど備はらざるものなく
既に數萬圓の資産をなせり
且つ今日布哇全島に於てクニと手書せし手形あれば
幾萬圓の金も融通さるるの信用あり
故に君も常に云ふ
僕が身を起したのは些少の資本金の爲にあらず全く信用の二字にあり
内外の人皆な國が云ふならば間違なしと信ぜられたるが
今日身を立てし原因である
以上は極めて簡単なる君の經歷なるが猶ほ此に感ずべきは
君は去る明治二十九年即ち國を出でて三十年目に日本に歸りしこととて
日本の進歩と變化は一通りならざるものから
君は實に驚嘆の聲を放ち
先づ其郷里に歸るや殆んど知る人もなく
我家も既に其主人異なりし位なれば今昔の感に堪へず
其郷人を悉く村長の宅に招きて酒肴を供し
貧しき者には金錢を惠み
曾て一夜の宿借りし八幡宮には見上げる計りの巨大の額面を奉納し
且つ其祠堂及不動尊堂其他小學校建築費として二百圓を寄附し又
全國遊覧の途次
藝州宮島に參拜して高さ二丈八尺
之に在布哇國鈴木國藏と銘打てる石燈籠を寄進し
遂に地を東京向島洲崎町に買ひ
此に荘麗なる邸宅を構え他年老を養ふの所とす
夫より君は年に一回づつ品物の仕入旁
歸國するを定例とす
今年方に五十三歳にて身體頗る壮健
業務甚だ勉勵
君の如きは數ある
明治元年の移住民中には實に珍しと云ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/431
明治三十五年一月一日印刷
明治三十五年一月五日発行
著 者 藤井秀五郎
東京市牛込区矢来町九番地
発行者 今井賀照
東京市京橋区加賀町二番地
刷 者 深山一郎
東京市神田区雉子町三十四番地
発行社 文獻社
東京市京橋区加賀町二番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/529
[外國官一号]第473~509号:第332~第377号
【邦人海外発展史】昭和17年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/596/
※1 「下 総 市場郡 木下風村」
※2 「千葉縣 印旛郡 木下風」
C:印旛郡[・下埴生郡](下総国)
1889.4.1
印旛郡 木下町(きおろし)
54.12.1
→印西町
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/12_tiba1.htm
〒 270-1326 千葉県印西市木下(キオロシ)
〒 270-1323 千葉県印西市木下東(キオロシヒガシ)
〒 270-1328 千葉県印西市木下南(キオロシミナミ)
※3
<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せた
サイオト号が、ホノルルに到着しました。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/
[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一
【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295033.html
[千葉県印旛郡木下:町長]
《伊藤市平》
【職員録】明治28年~明治29年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2572384.html
[本官勘合帳 外國官一号]
第四百八十七号 『國蔵』 未二十五歳 p083
徳次郎 忰 下総市場郡木下風村 ※1
《國藏》 廿七 p011
米國出稼
広島出身の鈴木国蔵は二度目の妻としてオランダ人と結婚して資金を得て
1880年代にハワイ島(ハワイ州で一番大きい島)にある
ヒロの町にお店を開きます。
http://hawaiijapanesecenter.com/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95/
【新布哇】明治35年1月5日発行
鈴木国藏君 写真 p416/550
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/416
鈴木国藏 p431/550
千葉縣印旛郡木下風 ※2
布哇島ヒロ市
幼少の時は非常に困難を嘗め屡々他家に奉公せしことありしが
曾て我が居村なる八幡の祠に果なくも一夜を明し
我若し志を成さば必ず禮參をなさんと云ふ迄に零落したることあり
慶應三年四月二十五日 ※3-1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)
独逸人ベレリウテーに雇はれ甘蔗栽培の勞働者として布哇へ渡り
帆船にて三十一日目に到着せり
時に二十二
同行の勞働人 男百五十人 女六人
一ケ月の給料四弗の約束を以てマウイ島の甘蔗耕地に働くこと數年
其言語に慣れず事情に通ぜず勞働は激しく實に困難憂愁云はん方なく
雨に風に幾たびか日本の方に向ひ涙を濺ぎしが
後布哇の内務大臣ドクトルハッチソンのボーイとなり
辛うじて百五十弗の貯金をなし
四十一歳の十月十二日より初めて商店をヒロ市に開き
一膳飯と些少の果物を販賣せしが其頃ヒロも非常に寂寞にて
日本人の商店とては別にこれあらず
存外能く繁昌し遂に支那人の手を經し日本食料品を販賣せり
君は初め土人を妻とせしが故あつて離別し
今は葡人メリアジユリーを妻とし其子女五人あり
而して今日に至り君が商店は日々盛大に赴き
有ゆる雑貨より食料品に至るまで殆んど備はらざるものなく
既に數萬圓の資産をなせり
且つ今日布哇全島に於てクニと手書せし手形あれば
幾萬圓の金も融通さるるの信用あり
故に君も常に云ふ
僕が身を起したのは些少の資本金の爲にあらず全く信用の二字にあり
内外の人皆な國が云ふならば間違なしと信ぜられたるが
今日身を立てし原因である
以上は極めて簡単なる君の經歷なるが猶ほ此に感ずべきは
君は去る明治二十九年即ち國を出でて三十年目に日本に歸りしこととて
日本の進歩と變化は一通りならざるものから
君は實に驚嘆の聲を放ち
先づ其郷里に歸るや殆んど知る人もなく
我家も既に其主人異なりし位なれば今昔の感に堪へず
其郷人を悉く村長の宅に招きて酒肴を供し
貧しき者には金錢を惠み
曾て一夜の宿借りし八幡宮には見上げる計りの巨大の額面を奉納し
且つ其祠堂及不動尊堂其他小學校建築費として二百圓を寄附し又
全國遊覧の途次
藝州宮島に參拜して高さ二丈八尺
之に在布哇國鈴木國藏と銘打てる石燈籠を寄進し
遂に地を東京向島洲崎町に買ひ
此に荘麗なる邸宅を構え他年老を養ふの所とす
夫より君は年に一回づつ品物の仕入旁
歸國するを定例とす
今年方に五十三歳にて身體頗る壮健
業務甚だ勉勵
君の如きは數ある
明治元年の移住民中には實に珍しと云ふ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/431
明治三十五年一月一日印刷
明治三十五年一月五日発行
著 者 藤井秀五郎
東京市牛込区矢来町九番地
発行者 今井賀照
東京市京橋区加賀町二番地
刷 者 深山一郎
東京市神田区雉子町三十四番地
発行社 文獻社
東京市京橋区加賀町二番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767371/529
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[外國官一号]第473~509号:第332~第377号
【邦人海外発展史】昭和17年
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/596/
※1 「下 総 市場郡 木下風村」
※2 「千葉縣 印旛郡 木下風」
C:印旛郡[・下埴生郡](下総国)
1889.4.1
印旛郡 木下町(きおろし)
54.12.1
→印西町
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/03kanto/12_tiba1.htm
〒 270-1326 千葉県印西市木下(キオロシ)
〒 270-1323 千葉県印西市木下東(キオロシヒガシ)
〒 270-1328 千葉県印西市木下南(キオロシミナミ)
※3
<アロハ Web カワラ版>
[ハワイ日系移民の歴史]
元年者移民は失敗だったのか!
柏木 史楼
1868年6月19日(慶応4年戊辰:閏4月29日)、
ハワイへの日本人集団移民第1号となる
153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せた
サイオト号が、ホノルルに到着しました。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/040401/
[鈴木國藏]本所区向島須崎町一六一
【東京市及接続郡部地籍台帳】2:明治45年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295033.html
[千葉県印旛郡木下:町長]
《伊藤市平》
【職員録】明治28年~明治29年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2572384.html
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