[本官勘合帳 外國官一号]第百十三号~第百十六号
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第百十三号 『品川通商権大佑』 p019
支那上海
第百十四号 『西 徳二郎』 午二十四歳 p019 ※明治3年庚午(1870年)
魯國
《西 徳次郎》 魯 鹿児島縣 留学 官 p037
庚午七月 ※明治3年庚午(1870年)7月28日
明治六年 廿七 ※明治6年(1873)
第百十五号 『小野寺魯一』 午三十歳 p020
魯國
七年九月二日 返納 ※明治7年(1874)9月2日
《小野寺魯一》 魯 宮城縣 留学 官 p037
辛未七月 ※明治4年辛未7月(1871年8月16日)
明治六年 三十三 ※明治6年(1873)
七年九月二日 免状返納 ※明治7年(1874)9月2日
第百十六号 『大村松二郎』 午二十歳 p020
山口藩
英國
九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
仝月廿八日 返納 ※明治9年(1876)12月28日
《大村松次郎》 英 山口縣 p020
明治六年 廿三 ※明治6年(1873)
九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
仝月廿八日 免状返納 ※明治9年(1876)12月28日
第百十三号 『品川通商権大佑』
品川忠道[しながわ-ただみち]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
品川忠道 しながわ-ただみち
1841*-1891 明治時代の官僚。
天保(てんぽう)11年12月19日生まれ。もとオランダ通詞。
民部省にはいり,外務大録(だいさかん),通商大佑にすすむ。
明治4年伊達宗城(むねなり)らにしたがい清(しん)(中国)にわたり,
日清修好条規締結にあたる。
在清初代領事,総領事をつとめ,
17年農商務省にはいり,通商局長となる。
のち実業界に転じた。明治24年2月18日死去。52歳。
肥前長崎出身。通称は英輔。
http://kotobank.jp/word/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%81%93
第71回 日本領事館と居留民取締規則 陳祖恩
上海日本領事館スタッフ(1932年)―写真
日本領事館は、上海日本人社会の最高機関であり、
居留邦人を監督・保護するための機関である。
上海の居留邦人がまだ7人しか居なかった1870年、
外務省の同意の下、「開店社」という名の民部省駐上海機関が、圓明園路の角、
新天安堂の隣にある英国租界新大橋南川岸(現・南蘇州路3号)に設立された。
初代駐在員には
品川忠道通商大佑、斎藤麗正、神代延長文書権少佑の3人が任じられた。
品川忠道は長崎出身で、英語とオランダ語に精通しており、
米国艦隊のペリー提督が横浜に来た時には彼の通訳を担当。
1869年、会計官通商司兼造幣局翻訳官に就任。
同年11月、民部省通称少佑として研究調査のため上海を訪れ、
翌年、通商権大佑に昇任し、開店社の業務を任されることになった。
開店社の設立間もなく、外務省は各国の駐上海領事たちと連絡を取り合い、
中日国交締結準備のため、開店社内に「外務省上海出張所」を設け、
居留邦人の監督及び対外交渉の全権を負わせた。
この出張所が日本領事館の前身であり、
品川が初代日本代理領事に就任している。
陳祖恩
東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。
著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》
《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。
http://gd.shwalker.com/shanghai/contents/serialize/200612/index.html
第百十四号 『西 徳二郎』
西 徳二郎(にし とくじろう)
(1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官。
外務大臣を勤めた。薩摩藩出身。枢密顧問官、男爵。
子に硫黄島の戦いで戦死した西竹一陸軍大佐がいる。
経歴 [編集]
1847年 父・西藤左衛門、母・加納ヒロの次男として生まれる。幼名を常二郎。
1870年(明治3年) ロシア ペテルブルク大学に留学。
1873年-1880年 中央アジアを調査のために踏破する。
ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、
タシケント、ウイグル、新疆を調査した。
1874年 フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BE%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
第百十五号 『小野寺魯一』
函館市史 デジタル版
キリスト教 P699-P700
文久元(1861)年には、
イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、
その活躍もまた著しく、
異教に激怒して斬殺しようとした神明社の神官
沢辺琢磨をも、
逆に信者にし、古事記、万葉集まで学ぶという熱心さであった。
彼がロシア語を教えた者のなかには、
山東一郎(早稲田に北門義塾を開く)、
小野寺魯一、
嵯峨寿安(2人ともロシアに留学)などがある。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-14-02-05~06.htm
第百十六号 『大村松二郎』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:大村松二郎
別 名:山本軍三郎
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php
幕末散歩 ― 最近気になること
大村益次郎について
4)山本軍三郎とその家族
益次郎の門人であり遺言により後継ぎと決定
4)山本軍三郎とその家族
軍三郎は三田尻士族山本藤右衛門の次男で、
益次郎の門人であるが、後を継ぎ大村松二郎と改名する。
明治12年末に病のため海軍病院で29歳で死去。海軍少佐。
その家と家族については詳細が分かっていないが、
松二郎の戸籍では出身は山口県第九大区第四小区。
昔の三田尻村車塚などになる。
詳細はこれから追跡調査したい。
http://hananomichi.at.webry.info/201008/article_1.html
奇才傾一世
幕末長州に時間とお金をついやす日日
第一部 木戸孝允のイギリス滞在日記 ― 岩倉使節団の旅 ―
1 英都ロンドンに滞在
明治5年8月17日 リバプール到着
宿泊先のホテル 木戸のために用意された部屋の姿見が割れているのが発見
到着早々損害賠償を巡って悶着
明治5年8月25日 市ィと河北義次郎(長州・松下村塾)と共に
寺島宗則を訪ねる
午後は来客で部屋がいっぱい
大村松次郎(大村益次郎の子)など
3時ごろ南貞助の案内で大久保らと市内の動物園へ
夜、青木と午前2時まで歓談
http://sblog410.blog72.fc2.com/blog-entry-283.html
桂小五郎 ・ リーダーの資質を探る
(2) 同志の遺児たちへの温情
また大村益次郎の子
松次郎に対しても、
亡父の遺志を継がせようと八方周旋して
官費生での英国留学を実現させています。
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/manabe2.htm
大村益次郎と人々
(幼 名) 村田宗太郎
(医 名) 村田良庵
(拝 名) 村田蔵六
(拝 名) 大村益次郎永敏
村田孝益 父、医者、百姓、秋穂藤村家から婿養子
益次郎3歳の頃、村田の家を解き、秋穂へ移住
梅(梅子) 母
琴子 妻、鷹ノ子高樹半兵衛娘
松次郎 養子
文恭 弟
ふで(筆) 妹
とよ(豊) 妹
http://www.geocities.jp/suzenjipc/Smasujiro.html
[本官勘合帳 外國官一号]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/81/
[航海人明細鑑3]
http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/category/94/
『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]
第百十三号 『品川通商権大佑』 p019
支那上海
第百十四号 『西 徳二郎』 午二十四歳 p019 ※明治3年庚午(1870年)
魯國
《西 徳次郎》 魯 鹿児島縣 留学 官 p037
庚午七月 ※明治3年庚午(1870年)7月28日
明治六年 廿七 ※明治6年(1873)
第百十五号 『小野寺魯一』 午三十歳 p020
魯國
七年九月二日 返納 ※明治7年(1874)9月2日
《小野寺魯一》 魯 宮城縣 留学 官 p037
辛未七月 ※明治4年辛未7月(1871年8月16日)
明治六年 三十三 ※明治6年(1873)
七年九月二日 免状返納 ※明治7年(1874)9月2日
第百十六号 『大村松二郎』 午二十歳 p020
山口藩
英國
九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
仝月廿八日 返納 ※明治9年(1876)12月28日
《大村松次郎》 英 山口縣 p020
明治六年 廿三 ※明治6年(1873)
九年十二月廿四日 帰朝 ※明治9年(1876)12月24日
仝月廿八日 免状返納 ※明治9年(1876)12月28日
第百十三号 『品川通商権大佑』
品川忠道[しながわ-ただみち]
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
品川忠道 しながわ-ただみち
1841*-1891 明治時代の官僚。
天保(てんぽう)11年12月19日生まれ。もとオランダ通詞。
民部省にはいり,外務大録(だいさかん),通商大佑にすすむ。
明治4年伊達宗城(むねなり)らにしたがい清(しん)(中国)にわたり,
日清修好条規締結にあたる。
在清初代領事,総領事をつとめ,
17年農商務省にはいり,通商局長となる。
のち実業界に転じた。明治24年2月18日死去。52歳。
肥前長崎出身。通称は英輔。
http://kotobank.jp/word/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%81%93
第71回 日本領事館と居留民取締規則 陳祖恩
上海日本領事館スタッフ(1932年)―写真
日本領事館は、上海日本人社会の最高機関であり、
居留邦人を監督・保護するための機関である。
上海の居留邦人がまだ7人しか居なかった1870年、
外務省の同意の下、「開店社」という名の民部省駐上海機関が、圓明園路の角、
新天安堂の隣にある英国租界新大橋南川岸(現・南蘇州路3号)に設立された。
初代駐在員には
品川忠道通商大佑、斎藤麗正、神代延長文書権少佑の3人が任じられた。
品川忠道は長崎出身で、英語とオランダ語に精通しており、
米国艦隊のペリー提督が横浜に来た時には彼の通訳を担当。
1869年、会計官通商司兼造幣局翻訳官に就任。
同年11月、民部省通称少佑として研究調査のため上海を訪れ、
翌年、通商権大佑に昇任し、開店社の業務を任されることになった。
開店社の設立間もなく、外務省は各国の駐上海領事たちと連絡を取り合い、
中日国交締結準備のため、開店社内に「外務省上海出張所」を設け、
居留邦人の監督及び対外交渉の全権を負わせた。
この出張所が日本領事館の前身であり、
品川が初代日本代理領事に就任している。
陳祖恩
東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。
著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》
《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。
http://gd.shwalker.com/shanghai/contents/serialize/200612/index.html
第百十四号 『西 徳二郎』
西 徳二郎(にし とくじろう)
(1847年9月4日(弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官。
外務大臣を勤めた。薩摩藩出身。枢密顧問官、男爵。
子に硫黄島の戦いで戦死した西竹一陸軍大佐がいる。
経歴 [編集]
1847年 父・西藤左衛門、母・加納ヒロの次男として生まれる。幼名を常二郎。
1870年(明治3年) ロシア ペテルブルク大学に留学。
1873年-1880年 中央アジアを調査のために踏破する。
ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、
タシケント、ウイグル、新疆を調査した。
1874年 フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BE%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
第百十五号 『小野寺魯一』
函館市史 デジタル版
キリスト教 P699-P700
文久元(1861)年には、
イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、
その活躍もまた著しく、
異教に激怒して斬殺しようとした神明社の神官
沢辺琢磨をも、
逆に信者にし、古事記、万葉集まで学ぶという熱心さであった。
彼がロシア語を教えた者のなかには、
山東一郎(早稲田に北門義塾を開く)、
小野寺魯一、
嵯峨寿安(2人ともロシアに留学)などがある。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-14-02-05~06.htm
第百十六号 『大村松二郎』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
海を越えた日本人名事典
人物名:大村松二郎
別 名:山本軍三郎
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php
幕末散歩 ― 最近気になること
大村益次郎について
4)山本軍三郎とその家族
益次郎の門人であり遺言により後継ぎと決定
4)山本軍三郎とその家族
軍三郎は三田尻士族山本藤右衛門の次男で、
益次郎の門人であるが、後を継ぎ大村松二郎と改名する。
明治12年末に病のため海軍病院で29歳で死去。海軍少佐。
その家と家族については詳細が分かっていないが、
松二郎の戸籍では出身は山口県第九大区第四小区。
昔の三田尻村車塚などになる。
詳細はこれから追跡調査したい。
http://hananomichi.at.webry.info/201008/article_1.html
奇才傾一世
幕末長州に時間とお金をついやす日日
第一部 木戸孝允のイギリス滞在日記 ― 岩倉使節団の旅 ―
1 英都ロンドンに滞在
明治5年8月17日 リバプール到着
宿泊先のホテル 木戸のために用意された部屋の姿見が割れているのが発見
到着早々損害賠償を巡って悶着
明治5年8月25日 市ィと河北義次郎(長州・松下村塾)と共に
寺島宗則を訪ねる
午後は来客で部屋がいっぱい
大村松次郎(大村益次郎の子)など
3時ごろ南貞助の案内で大久保らと市内の動物園へ
夜、青木と午前2時まで歓談
http://sblog410.blog72.fc2.com/blog-entry-283.html
桂小五郎 ・ リーダーの資質を探る
(2) 同志の遺児たちへの温情
また大村益次郎の子
松次郎に対しても、
亡父の遺志を継がせようと八方周旋して
官費生での英国留学を実現させています。
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/manabe2.htm
大村益次郎と人々
(幼 名) 村田宗太郎
(医 名) 村田良庵
(拝 名) 村田蔵六
(拝 名) 大村益次郎永敏
村田孝益 父、医者、百姓、秋穂藤村家から婿養子
益次郎3歳の頃、村田の家を解き、秋穂へ移住
梅(梅子) 母
琴子 妻、鷹ノ子高樹半兵衛娘
松次郎 養子
文恭 弟
ふで(筆) 妹
とよ(豊) 妹
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