[本官勘合帳 外國官一号]第241号~第246号

[本官勘合帳 外國官一号]
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[航海人明細鑑3]
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『 』[本官勘合帳 外國官一号]
《 》[航海人明細鑑3]

第貮百四十一号 『大石良乙』午二十二歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
         七年六月十八日免状返納 ※明治7年(1874)6月18日
        《大石良乙》 米 p004
         佐賀縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿五 ※明治6年(1873)
         七年六月十八日免状返納 ※明治7年(1874)6月18日

第貮百四十二号 『今井 巌』 午十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         福井藩 米國
         十年十月帰朝仝月十二日返納 ※明治10年(1877)10月12日
        《今井 巌》 米 p004
         足羽縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 廿二 ※明治6年(1873)
         ? ・・・・
         十年十月帰朝仝月十二日返納 ※明治10年(1877)10月12日

第貮百四十三号 『山脇 玄』 午二十二歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         福井藩 米國
        《山脇 玄》 米 p004
         足羽縣 留学 官
         庚午年十二月  ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二四 ※明治6年(1873)
         ?・・・・

第貮百四十四号 『相良元貞』 午三十歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         佐賀藩 米國
         明治八年六月三日返納 ※明治8年(1875)6月3日
        《相良元貞》 米 p004
         佐賀縣 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 三十三 ※明治6年(1873)
         ?・・・・
         明治八年六月三日返納 ※明治8年(1875)6月3日

第貮百四十五号 『池田謙齋』 午二十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         東京府貫属 米國
         明治九年五月中帰朝
         同月廿二日返納  ※明治9年(1876)5月22日
        《池田謙齋》 米 p004
         東京府貫属 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 三十二 ※明治6年(1873)
         明治九年五月中帰朝
         同月廿二日返納  ※明治9年(1876)5月22日

第貮百四十六号 『大澤謙二』 午十九歳 p042 ※明治3年庚午(1870年)
         豊橋藩 米國
         七年八月三十日返納  ※明治7年(1874)8月30日
        《大澤謙二》 米 p004
         額田縣 留学 官
         庚午年十二月   ※明治3年庚午12月(1871年1月21日)
         明治六年 二十二 ※明治6年(1873)
         七年八月三十日免状返納 ※明治7年(1874)8月30日

第貮百四十一号 『大石良乙』
[寄稿 わが国の三角測量を創業した田坂虎之助(下)]
第三回 駐独日本人留学生の指導、岩倉遣欧使節団と対米条約改正交渉
プロシア・フランス戦後、相前後して伯林に来れる百余名の留学生中には、
北白川宮に扈従したる
井上省三、山崎喜都真[橘馬]、田阪虎之助、
松野、岡田翁助、河島醇、東久世某の諸氏、
及び大学東校[従来の大学校医学校]より派遣されたる
池田謙斎、大沢謙二、北尾二郎[次郎]、山脇玄、
荒川邦蔵、相良玄貞、大石良乙[良二]の諸氏あり、
其の他は多く山口、鹿児島、高知、和歌山、
名古屋、佐賀等の各県より留学を命ぜられしものなり。・・・・・
国土交通省:国土地理院
http://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/479-5.htm

第貮百四十二号 『今井 巌』
リサーチ・ナビ
国立国会図書館
[海を越えた日本人名事典]
人物名:岩佐 巌
別 名:今井(本姓)
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000007885744.php

[新居浜市]
担当: 別子銅山文化遺産課 / 掲載日: 2009年06月19日
新たな登録有形文化財 (2) 旧山根製錬所煙突
山根製錬所は、明治21年(1888年)5月、
惣開地区の製錬所と時をあわせて竣工された。
設計したのは、東京大学の教授であった岩佐巌。
岩佐は広瀬宰平の招きに応じ、
別子銅山で廃棄していた低品位の鉱石から硫酸などの化学薬品の回収と、
残った鉄分からの製鉄を目指した。
それは、官営八幡製鉄所に先立つこと7年であった。
残念ながら事業としては成り立たず、
わずか6年余りで製錬所は閉鎖されたが、
わが国最古級の重化学工業の忘れ形見である煙突は、
120年を経過した今日でもレンガ造りのその愛らしい姿により、
市民からは「えんとつ山」の愛称で親しまれ、
市のシンボルとして市の発展を見守り続けている。
http://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/detail.php?lif_id=11898

第貮百四十三号 『山脇 玄』
山脇 玄(やまわき げん)
(1849年3月26日(嘉永2年3月3日)
- 1925年(大正14年)10月7日)は、
日本の法学者、法制官僚、政治家、教育者。
法学博士、行政裁判所長官、貴族院議員。
福井藩藩医・山脇立樹の長男として生まれる。
福井藩医学校・済世館で学び、さらに長崎で蘭学を学んだ。
明治3年(1870年)、文部省留学生としてドイツに渡り、
ベルリン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学などで法学等を学んだ。
1877年5月に帰国。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E7%8E%84

第貮百四十四号 『相良元貞』
[相良元貞とベルツ博士]
相良元貞(1841~1875年)は、
相良知安の弟で佐賀城下八戸村に天保12年出生する。
藩校弘道館から藩医学校で学ぶ。
慶応元(1865年)には、兄の知安が学んだ佐倉順天堂塾で
蘭医学を佐藤尚中らから学ぶ。
順天堂塾で元貞は、会頭を努め、
「ヒルトル解剖書」や「ストクハルドト化学書」を朝から夕方まで講義した。
明治2年(1869年)、大学東校の中助教兼大寮長に就任した。
明治3年(1870年)2月に大阪医学校へ転勤後、
同年12月に明治政府の第1回留学生(9名)の一員として、
プロシャ(ドイツ)のベルリン大学へ医学留学した。
専攻は病理学である。
ドイツ滞在5年間に勉学に励み医学博士号を取得する。
しかし、患者の解剖手術の感染から肺病を患った。
元貞とベルツ博士との出会いは、1875年に
ライプチヒ大学病院に入院した元貞を診察した時に始まる。
ベルツは、日本からの留学生である元貞を献身的にお世話し、
次第に元貞の母国の日本への強い好奇心を抱き始める。
異国の地で病に倒れ心細い思いをしていた元貞は、
ベルツの温情にどれほど感謝したかは容易に想像がつく。
明治8年(1875年)失意のうちに帰国した元貞は、
35歳の若さで東京で没し青山墓地に葬られる。
http://sagarachian.jp/main/91.html

第貮百四十五号 『池田謙齋』
池田謙斎
天保12年(1841)11月1日、
越後国蒲原郡西野の里正(庄屋)、入沢健蔵に次男が生まれた。
後に幕府奥医師、池田玄仲の養子となり池田謙斎と名乗った入沢圭助である。
―略―
明治4年、大学東校は二人のドイツ人医師を招聘するとともに、
池田謙斎を含む9名を官費ドイツ留学生に選び、
謙斎はプロイセン国ベルリン大学医学部に学ぶ。
明治8年、学位試験に合格、博士の称号と共に、
大いに讃するに値するとの褒詞が与えられた。
明治9年5月に帰国し、
陸軍軍医監ならびに宮内省御用掛(侍医)を拝命する。
さらに同年七月、謙斎は東京医学校校長に任ぜられた。
東京医学校は東京開成学校と合併して東京大学となり
池田謙斎が医学部総理に任ぜられる。
明治30年、陸軍一等軍医に任じられる。
明治31年、男爵に叙任。
大正天皇即位に当たり勲一等旭日大授章授与。
大正七年(1918)4月30日逝去。享年78歳。
「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著
新人物往来社 1989年 より
http://www.saiki.tv/~miro45/ikeda.index.html

第貮百四十六号 『大澤謙二』
074 [大澤謙二像] 武石弘三郎作
一九一七年、七七・三×六八・〇×四六・二cm、
大理石、木製台座
本体基底部に「PROF. DR. KENJI OSAWA」、
本体背後に「1917 K. TAKEISHI」、
台座正面に次の銘文
「大澤謙二先生(一八五二~一九二七年)は
医学者として本学最初の教授であり
わが国生理学の父であった
先生は愛知県豊川の大林家に生れ
豊橋の医家大澤家に入り十四歳にして上京
医学所に学んで中得業士となり
二回にわたりドイツに留学
一八八二年帰国して
東大教授 生理学の教育に従事し 
講義の傍 開国期の医学界の啓発に尽し
学界の柱石となる多数の学者を育てられた
教授在職三十三年
六十四歳にして勇退され
七十六歳尊い生涯を閉じられた
本像は一九一七年
先生の寿康を祝し門弟が建立し旧生理学教室中庭に置かれ
関東震災の厄を免れ保存されていたが
一九八二年開講百年に際し東大生理学同窓会が
その台座を新にしてここに安置し
先生の遺徳を永遠に伝えることになった
一九八三年 東大生理学同窓会」
医学部生理学教室蔵(U)
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1998Portrait/03/03200.html#074