『ベッチ、ゲールツ:ヤコバ、ゲールツ:ベルタミナ、ゲールツ』
【華族女学校年報】

父:オランダ人 アントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ
  (Anton Johannes Cornelis Geerts)
  (1843年3月20日-1883年8月15日 歿40歳)

母:日本人   山口きわ
  (1853年9月9日 ※嘉永6年8月7日 長崎生まれ)
  (1934年(昭和9年)11月16日 歿81歳)

『和蘭人 ベッチ、ゲールツ』
[華族女學校 入学 明治二十三年二月 高等小學科 第二級生]

『和蘭人 ヤコバ、ゲールツ』
[華族女學校 入学 明治二十三年二月 初等小學科 第二級生]

『和蘭人 ベルタミナ、ゲールツ』
[華族女學校 入学 明治二十三年二月 初等小學科 第三級生]

『米國人 ジョードン綾女』
[華族女學校 入学 明治二十三年九月 髙等小學科 第二級生]
[華族女學校 退学 明治二十五年一月]

『大隈こう』
[華族女學校 入学 明治二十三年九月 初等小學科 第二級生]
[華族女學校 卒業 明治三十四年七月 高等中學科]

大隈光子(おほくま くわうこ)
【明治の令嬢】明治35年12月15日発行
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295085.html

【華族女学校年報】第1-5
[華族女學校 第五年報]        p141/196
入學生徒人名           p161/196
明治廿三年二月          p162/196
外國人 ベッチ、ゲールツ        p162/196
外國人 ヤコバ、ゲールツ       p162/196
外國人 ベルタミナ、ゲールツ       p162/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812641/162
生徒現員人名 明治廿三年八月調査 p166/196
高等小學科二級生         p169/196
外國人 ベッチ、ゲールツ        p169/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812641/169
初等小學科二級生         p170/196
外國人 ヤコバ、ゲールツ        p170/196
初等小學科三級生         p170/196
外國人 ベルタミナ、ゲールツ       p170/196
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812641/170

【華族女学校年報】第6,7
[華族女學校 第六年報]        p1/76
華族女學校 第六年報
自 明治廿三年九月
至 明治廿四年八月        p2/76
入學生徒人名           p12/76
明治廿三年九月          p12/76
華族  大隈コウ          p12/76
米國人 ジョードン綾女         p12/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/12
生徒現員人名 明治廿四年八月調査 p17/76
髙等小學科 第一級生       p20/76
和蘭人 ベッチ、ゲールツ        p20/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/20
髙等小學科 第二級生       p21/76
米國人 ジョードン綾女         p21/76
髙等小學科 第三級生       p21/76
和蘭人 ヤコバ、ゲールツ        p21/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/21
初等小學科 第二級生       p22/76
華族  大隈こう           p22/76
和蘭人 ベルタミナ、ゲールツ       p22/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/22
[華族女學校 第七年報]        p38/76
華族女學校 第七年報       p39/76
自 明治二十四年九月
至 明治二十五年八月       p39/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/39
退學生徒人名           p47/76
明治廿五年一月          p47/76
米國人 ジョードン綾女         p47/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/47
生徒現員人名 明治廿五年八月調査 p50/76
初等中學科 第三級生       p53/76
和蘭人 ベッチ、ゲールツ        p53/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/53
髙等小學科 第二級生       p55/76
和蘭人 ヤコバ、ゲールツ        p55/76
髙等小學科 第三級生       p55/76
華族  大隈こう           p55/76
和蘭人 ベルタミナ、ゲールツ        p55/76
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812642/55

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』


『くすりの社会誌:人物と時事で読む33話』
著者:西川隆
わが国薬学の基礎をつくった
オランダ人薬剤師ゲールツ
―司薬場の創設と日本薬局方の起草に尽力―
―略―
因みに『神奈川県薬剤師会史』(同会、1970)によると、
夫ゲールツの死により遺子を抱え
30歳の寡婦として苦労の多かった夫人は
長與専斎の庇護のもとに、
6人の娘は華族学校(現在の学習院女子部)に学び、
それぞれの道を歩んだ。
その後、夫人は東京麻布でドレスメーカーを営む長女のもとで余生を送り、
昭和9年(1934)11月16日81歳で夫の元へ旅立ったと記録されている。p24

[和光純藥時報]Vol.66 No.3 July 1998
和光純薬工業株式会社
アントン ヘールツ (1843 1883)
大阪大学名誉教授 芝 哲夫
明治初年に来日し、長崎医学校で化学を教授し、
京都、横浜司薬場創設に参画し、
日本薬局方草案を作成するなど、
わが国の化学教育、衛生行政に尽力して、
日本を愛し、日本に骨を埋めたオランダ人薬学者
A. ヘールツについて紹介する。
Anton Johannes Cornelis Geerts
ヘールツは1843年3月24日にオランダの
オウデンデイク Oudendijkに言語学者の子として生まれた。
―略―
ヘールツは間もなく長崎生まれの十歳年下の山口きわと結婚した。
来日して日本人妻と結婚するが、
帰国に際して別れて帰るお雇外人が多い中で、
ヘールツはその死まできわと添い遂げた。
―略―
このような日本の深い理解者ヘールツは
横浜に在勤中の明治16年(1883)腸チフスに罹り、
同年8月30日忽然と世を去った。享年40歳であった。
後には愛妻きわとともに6人の幼い娘が残された。
日本政府は勲四等、旭日小綬章を贈ってその功に報いた。
ヘールツに深い信頼を置いていた長与専斎は
ヘールツの娘達を手厚く庇護するとともに、
横浜の外人墓地に
白亜大理石の墓碑(写真 4)を建ててその死を惜しんだ。
さらに明治24年(1891)8月30日の没後8年目の祥月命日に
専斎の発起で上野谷中天王寺墓地内にヘールツの顕彰碑が建立され、
専斎の撰文でヘールツの功績が称えられた。
この顕彰碑(写真 5)は現在、世田谷用賀の
国立医薬品食品衛生研究所
(旧 国立衛生試験所)前庭に移されている。
ヘールツ夫人きわは麻布でドレスメーカ-を経営する
娘のもとに身を寄せて余生を送り、
昭和 9 年(1934)11月16 日に81 歳で亡くなり、
ヘールツの墓の傍らに葬られた。
最近になって、第二次大戦中の欧州で
オペラ蝶々夫人で名声を博したプリマドンナ
喜波貞子(きわていこ)のことが日本で知られるようになった。
この人こそヘールツの残した娘の子、
つまり孫娘で、横浜に生れ、17 歳でミラノへ渡り、
蝶々夫人で欧州オペラ界にデビューした
レティツィア・ジャコバ・ヴィルヘルミナ・クリンゲンであった。
喜波貞子は祖母きわを慕ってつけた芸名である。
日本の薬学の恩人ヘールツの残した余韻であった。
御教示を賜った向井晃氏と写真撮影の御便宜をおはかり下さった
田中彰氏に厚く感謝申し上げます。
http://www.wako-chem.co.jp/siyaku/journal/jiho/pdf/jiho663.pdf

[一般社団法人]
昭薬同窓会 昭和薬科大学同窓会
【64号】山口きわさん(ゲールツ氏夫人)
2011/06/10会長短信
そこで薬学関係者で
横浜外人墓地に埋葬されている関係者を探したところ
アントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ
(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)
が検索できた。
ゲールツはオランダの薬学者。
日本薬局方の草案を起草するなど、近代日本の薬事行政、
保健衛生の発展に貢献したとされる。
なお、ゲールツはドイツ語読みであり、
オランダ語読みではヘールツとなると言うことのようで、
これがベルツと読み間違えられたのではないか。
しかし、ゲールツは
明治19年(1886年)の初版「日本薬局方」の公布を待たず、
1883年8月15日、腸チフスのため横浜で急逝(40歳)したとされる。
現在、横浜外国人墓地にきわ夫人とともに眠っており、
墓碑は永年に亘り
清水藤太郎氏
(薬学博士・平安堂薬局・帝国女子医学薬学専門学校教授)が
管理していたようであるが、
現在は神奈川県薬剤師会が管理している。
きわ夫人に関しては、長崎出身の山口きわ
[1853年9月9日長崎 生まれ 1934年(昭和9年)11月16日没・81歳)は、
10歳年上のゲールツと結婚した。
来日して結婚するお雇い外人が多いが、
帰国する時には別れる外人が多い中で、
ゲールツはその死まで、きわと添い遂げたといわれている。
http://shoyaku.net/president/174/

大隈信保―重信―信常―信幸【現代華族譜要】昭和4年1月15日発行
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2295087.html