《土生 敦(故 土生玄碩 四代ノ相續人)》【土生玄碩の生涯】死闘の名医

【土生玄碩の生涯】死闘の名医:昭和18年9月30日発行
一、吉田の里 p7/146
日本始つて以來の名醫といはれ、
後の世からも醫學の神樣とあがめられ、
贈正四位を賜つてをる、土生玄碩先生は、
安藝國高田郡吉田村の人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/7

土生玄碩先生は、
今から百七十五年前即ち明和五年、   ※明和5年(1768年2月18日)
この土地で呱々の聲をあげたのである。 p8/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/8

この義辰は始め玄碩といふ、
後に恕成と呼んだのである。
この恕成といふ人が玄碩先生の父である。
母は小出氏であつて、名を文といひ、
大石義雄の三男大三郎の娘であつた。
玄碩先生は幼名を久馬といひ、
元服して義壽と名のり、
晩年には號を桑羽といつて居られた、
また迎翠堂といふ家號もあつた。 p10/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/10

そして吉田村の米商村藤の娘奈美といふのを妻に貰ふ、
義壽は土生玄碩と名のり眼科醫として家に落着く事になつた。 p33/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/33

玄碩の實子は女ばかりで、
亡妻の子お常、お久のみであつた。
それで弟の野村正友
(此の人も有名な眼科醫で安藝の安佐郡保村に居た)の子供の中、
其の長子をのこして、
次男の玄潭以下、玄昌、玄益、隆碩の四人を養ひ、
玄潭に長女お常を配はしたが、若死したので、
玄潭は後に徳川家の奥醫師
渡邊立軒の娘チカといふのを娶つた。
藩主淺野重晟は、非常に玄碩を重んじ、
そして其の獨身でゐるのを哀れみ、
藩士奥玄蕃の娘智惠といふのを
後妻に迎へさせる可く自ら仲介の勞をとつたのである。 p102/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/102

文化十二年、養子の玄潭が将軍家に拜謁を仰せ付けられたが、
      ※文化12年(1815年2月9日)
此の玄潭は生れつき放埓で、酒ばかり飲んでゐて
一向に家業に身を入れないので、
玄碩がいろいろ心配して度々訓戒したが、どうしてもなほらない、
それで、やむを得ず、癲癇と言ふ事にして廢嫡し、
大阪に遊學中の弟玄昌をもつて家をつがせる事にしたのであつた。 p110/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/110

其の年(文政五年)八月玄昌が西丸奥醫師見習いとなり、
六年二月将軍家齊の眼病治療を仰せ付かり、
そして翌七年二月に、西丸奥醫師に進んだ。
こゝに於て父の玄碩は本丸に、
子の玄昌は西丸に名侍醫として寵遇を受けたのである。
なほ玄昌の弟玄益は吉田村の舊業をついで郷里に居り、
また其の弟隆碩には、玄碩の次女お久を妻として
江戸深川高橋で眼科を開業させてゐたのであつた。 p111/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/111

そして妻の智惠を呼ぶと、智惠は早や今年四つの玄哉に、
紋服姿をつけさせ、自分も禮服にきかへて入つて來た。
そしてしとやかに手をついた。          p128/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/128

こゝで嗣子玄昌も侍醫の職をやめさせられ、
玄碩が拜領地、居住地、私有地、家財、
萬端何一つ殘さず、没収されてしまつた。 p130/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/130

しかし治療を乞ふ人が非常に多かつたので、
玄碩は、玄昌の家(日本橋本町通)や
末子隆碩(深川高橋)や、門人達の家などで、
治療を指圖したり、手術に手出しをしたりなどしてゐた。 p133/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/133

そして、なほ國家に盡すの少きを嘆じつゝ、
嘉永七年八月十七日   ※嘉永7年8月17日(1854年10月8日)
腎臓病によつて、眠るが如く此の世を去つた。
時に八十七歳であつた。
玄碩先生の墓は、東京築地本願寺中眞龍寺にある。
法號は「大超院殿廓然大居士」といふのであるが、
刑餘の人であるを憚つて、
墓碑に「桑翁土生君之墓」とあるだけである。 p134/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/134

玄碩先生は、生前の功を思召され、
大正四年九月六日附を以て、
従四位を賜つて居る。            p135/146
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/135

土生玄碩の生涯  停   價 一圓五十錢
特別行爲税相當額 八錢 合計 一圓五十八錢
〒 一五
昭和十八年九月廿五日印刷
昭和十八年九月三十日發行
三、〇〇〇部
著者  柄澤三郎
發行者 設樂得二
    東京都神田區神保町二ノ一九
印刷者 東京三二一五 皆川印刷所
    東京都神田區西神田一ノ七
發行所 東華書房
    東京都神田區神保町二ノ一九
    電話 九段(33)〇五六九
    振替 東京一六六六六八
配給元 日本出版配給株式會社
    東京都神田區淡路町二ノ九
出版會員番號 120133番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719917/143

【東都の杏林】明治35年4月
名醫 墓所一覽         p48/91
土生玄碩 築地本願寺内 眞龍寺 p51/91
號 桑翁、眼科をシーボルトに學び、
初めて假瞳孔術を行ふ、
嘉永七年 年八十又七にして没す。  ※嘉永7年(1854年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778437/51

《土生 敦(故 土生玄碩 四代ノ相續人)》
[故土生玄碩贈位ノ件:贈 従四位] p1/27
贈 従四位 故 土生玄碩 p26/27
右 贈位記竝辞令
左記ノ者ヘ交付致候條此段及報告候也
大正四年九月十一日
東京府知事 法學博士 井上友一
宗秩寮 總裁 侯爵 久我通久殿
 記
東京市日本橋區住吉町廿番地
         土生 敦
故 土生玄碩 四代ノ相續人

[故土生玄碩贈位ノ件] p1/27
丙 受付 大正四年九月七日 第五二九号 立案 大正四年九月六日
故土生玄碩贈位ノ件 大正四年九月五日裁可 九月六日台帳記入
九月六日官報報告済
故土生玄碩贈位ノ件 右謹テ裁可ヲ仰ク 大正四年九月五日
内閣総理大臣伯爵大隈重信 内閣書記官室 閣第二七八号
大正四年 故土生玄碩 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル
故土生玄碩 贈従四位
旧慕府侍医 p4/27
故土生玄碩
本邦実験眼科学ノ開祖ト称セラル家世ニ
安芸国豊田郡土生村ニ住シ眼科ヲ業トス
初メ京都ニ学ヒ 大阪ニ在リ 医ヲ業トス
偶ニ右翳症ヲ患フル者アリ
症ハ古今眼科ノ不治トナセル所ナリ
玄碩試ミニ鍼術ヲ施ニラ全ク癒ユ
是ニ於テ名家ノ交ヲ求ムル者尠カラス
既ニシヲ郷ニ帰フ箕裘ノ業ヲ襲ク
特ニ年四十二
嘉永元年八月病ヲ以テ歿ス 年八十七 p5/27
土生玄碩小傳 p14-22/27
―略―
嘉永元年八月十七日   ※嘉永1年8月17日(1848年9月14日)
腎臓ヲ病シテ歿ス
年八十七
築地本願寺中 真龍寺ニ葬ル p20/27
【 階層 】国立公文書館>内閣>叙位裁可書>大正>大正4年>
叙位裁可書・大正四年・叙位巻三十一・贈位一
【 レファレンスコード 】A11112488500
【 年代域 】大正4年【 画像数 】27
『国立公文書館・アジア歴史資料センター』より

《土生 敦(故 土生玄碩 四代ノ相續人)》
【日本杏林要覧】
土生 敦 p62/
得業士 廿八年四月 東京士族
明治四年生
東京市 日本橋區 濱町二ノ一四
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900147/62
【日本東京医事通覧】明治34年11月
土生 敦 p192/
得業士 廿八年四月登録 東京府士族
明治四年十二月生
東京市 日本橋區 濱町二ノ一三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/833368/192
【日本眼科学会会員名簿】明治42年
土生 敦 東京市日本橋區濱町二ノ一四 p4/27
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900145/4
【日本眼科学会会員名簿】明治43年
土生 敦 東京市日本橋區濱町二ノ一四 p4/28
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900146/4
【帝国医師名簿】大正8年
土生 敦 東京市 日本橋區 住吉町二〇 p21/256
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935096/21
【帝国医師名簿】大正11年
土生 敦 東京市 日本橋區 住吉町一七 p29/302
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935097/29

《佛弟子松韻居士  土生 敦》
【後藤環爾師追想録】昭和15年9月3日発行
追悼詞      p20-21/119
佛弟子松韻居士  土生 敦
―略―
想い起す數十年前、
余が東京帝国大學眼科敎室に助手たりし時、
島地黙雷師眼病にて入院、また
その翌年、故日置黙禅師眼病にて入院せられ、
余が受持になりし故に朝暮に親近す。
島地師は禅僧の如く、日置師は他力宗の如く感ぜられたり。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030971/20
【千葉医科大学一覧】自大正11年至12年
卒業生  p37/123
明治廿八年三月(四十六人) p39/123
土生 敦 開業 東京    p40/123
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940638/40
【千葉医科大学一覧】自大正14年至15年
専門部卒業生         p86/134
醫學科卒業生 (×ハ死亡)  p86/134
元第一高等中學校醫學部    p86/134
明治二十八年三月(四十六人) p88/134
土生 敦 東京        p89/134
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940641/89

   《土生敦三》
   【日本医籍録】大正14年(1925)8月10日発行
    富山縣 富山市 總曲輪町五九 p754/1332
    土生敦三
    明治廿五年九月十七日生
    千葉醫專卒
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935301/754

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[中央区観光協会]
土生玄碩墓(はぶげんせきはか) 
 ※(明和5年:1768年2月18日)~(嘉永7年8月17日(1854年10月8日)
土生玄碩(1768年~1853年)は江戸末期の蘭医で、安芸国吉田の出身。
幕府の奥医師を務め、特に眼科を得意としました。
のちオランダ商館付医師として来日したドイツ人医師シーボルトから
眼病治療法を学びましたが、
彼の帰国に際し将軍下賜の紋服を贈ったことから
シーボルト事件に連座させられました。
主な著書に「銀海療法題言」があります。
http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/tsukiji/tsukiji_16.html

[土生玄碩 はぶ・げんせき]
朝日日本歴史人物事典の解説
生年:宝暦12  (1762)
没年:嘉永1.8.17(1848.9.14)
江戸後期の眼科医。
安芸国高田郡吉田(広島県吉田町)の医家土生義辰の長男。
―略―
<参考文献>
福島義一「日本眼科史」(『日本眼科全書』1巻),同『眼科学史の窓』
(福島義一)
http://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E7%94%9F%E7%8E%84%E7%A2%A9

[ウィキペディア]フリー百科事典
土生 玄碩(はぶ げんせき)
(宝暦12年(1762年) - 嘉永元年8月17日(1848年9月14日))は、
江戸時代後期の眼科医。
国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖[1]。
名を義寿、幼名は久馬、はじめ玄道と称し、
のち玄碩、号は桑翁、字は九如。
―略―
87歳で没。著書に『師談録』『迎翠堂漫録』などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%9F%E7%8E%84%E7%A2%A9

[医師免状:第21号~30号]
【内務省免許全国医師薬舗産婆一覧】明治15年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2305506.html

[医師免状:第25号 土生玄眞(土生玄碩の曾孫):富山市で眼科を開業]
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2305509.html

《土生玄昌(土生玄碩の嗣子》
【東京府内区郡分医師住所一覧】明治18年
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2305514.html